気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

三峯神社参拝

2021-06-22 12:33:29 | 日記

 

 

 

 

 

 埼玉県は秩父にある三峯神社に参拝してきた。
ご祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)で、眷属にはこのおふた柱をお祀りした日本武尊にこの地を案内した狼がおられる。
この神社はあるスピリチャリストによれば悪いつきものなどがついたときにそれを払っていただけることにとりわけ霊験があるということだ。

 行ってみてまず思ったのは、秩父って思いのほか遠いなぁということだった。あさ9時半ごろ家を出て、参拝しかえってきたのはすでに夜8時~9時だったと思う。
しかも奥の院まではいかなかったにもかかわらずである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この参拝では僕にとってとても特別なことが起こった。
それはこれが起こるとその神様に歓迎されているといわれることが2つも起こったのだ。
 この日は朝から晴天で、最寄り駅の西武秩父駅に着いたときにも太陽光はさんさんと降り注いでいた。
ところが、バスに乗り込んで神社に近づくにつれて雨雲が出てきて、ゴロゴロと雷までなり始めた。

 神社について参道を通り本殿の前で順番を待ち、いざ自分の順番になり手を合わせたとたん雨がぽつぽつと降り始めたのである。
これはスピリチャルな世界ではその神様に歓迎されているあかしとされていることであり、ぼくは天にも昇らんと思うほどうれしかった。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで祈りをささげた後、お札を買いさらに遥拝殿を目指した。
そこでもう一つの驚くべきことが起こった。遥拝殿は比較的高い場所にあり、一望のもとに他の山々が見渡せる。
 あと数歩でそこにつくと云う時にすでにそこにいた数名の女性の歓喜の歓声が聞こえてきた。僕は何だろうと思い急いで遥拝殿に入ると、なんと!ついさっきまで降っていた雨が大方やみ、眼下に二重の虹が見えたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕も長く生きているがこれほど近い距離から二重の虹を、しかも上から見下ろす形で見たのは生まれて初めての経験であり、「しかも」それが神様にお参りしたすぐあとそのご神域で見たということ、さきほどの雨の件もあり気分が高揚しているときに再度このようなことがあったため信じられないような喜びに満たされた。これはこの神様からの特別な歓待のあかしだと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は自分が信仰している神以外からこれほどの歓待をいただいたのは初めてだったので、その喜びは尋常なものではなかった。
その日はこの雨が降ってきたため撮影がほとんどできなかったが、もうそんなことはどうでもよくなった。
 身に余る光栄とはこういうことを言うのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのあと、神社入り口にある料理屋さんでとろろそばをいただき(これがまた生まれて初めてといってもいいほどにうまかった!)バスの最終時間までに残っている時間を使って奥宮に上る登山道を上っていった。
 その料理屋の人に聞くと往復2時間はかかるということで、当然その日に奥宮に行くのはあきらめたが、途中までの風景だけでも十分楽しめた。また、その山道で聴いた鳥のさえずりもまた素晴らしく、ほんとうに記憶に残る参拝になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この次はぜひ、奥宮に参拝してみたい。
秩父は箱根や日光ほど観光地化されていなくて、それがかえって良かった。ここには温泉もあるので時間に余裕があったらそこにも立ち寄ってみたい。
 やはりなぜか僕はこういう霊的な場所が好きである。これから時間をかけて日本国内の聖地巡礼の旅をするのもいいな、と思った。

 

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陰翳礼賛から

2021-06-07 20:32:34 | 文学

 われわれは、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。
そして室内へは、庭からの反射が障子を透かしてほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。
われわれは、この力のない、わびしい、果敢ない光線が、しんみりと落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。土蔵とか、厨とか、廊下のようなところへ塗るには明かりをつけるが、座敷の壁は殆ど砂壁で、めったに光らせない。もし光らせたら、その乏しい光線の、柔らかい弱い味が消える。

 われ等は何処までも、見るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り付いて辛くも余命を保っている、あの繊細な明るさを楽しむ。我等に取ってはこの壁の上の明るさ或いはほのぐらさが何物の装飾にも優るものであり、しみじみと見飽きがしないのである。

 さればそれらの砂壁がその明るさを乱さないようにとただ一と色の無地に塗ってあるのも当然であって、座敷毎に少しずつ地色は違うけれども、なんとその違いの微かであることよ。それは色の違いと云うよりもほんの僅かの濃淡の差異、見る人の気分の相違というほどのものでしかない。しかもその壁の色のほのかな違いに依って、また幾らかずつ各々の部屋の陰翳が異なった色調を帯びるのである。

 ~中略~

 われらは一つの軸を掛けるにも、その軸物とその床の間の壁との調和、即ち「床うつり」を第一に貴ぶ。われらが掛け軸の内容を成す書や絵の巧拙と同様の重要さを表具に置くのも、実にそのためであって、床うつりが悪かったら如何なる名書画も掛け軸としての価値がなくなる。

 それと反対に一つの独立した作品としては大した傑作でもないような書画が、茶の間の床にかけてみると、非常にその部屋との調和がよく、軸も座敷も俄かに引き立つ場合がある。そしてそういう書画、それ自身としては格別のものでもない軸物の何処が調和するのかといえば、それは常にその地紙や、墨色や、表具の裂(きれ)がもっている古色にあるのだ。その古色がその床の間や座敷の暗さと適宜な釣り合いを保つのだ。

~中略~

 つまりこの場合、その絵は覚束ない弱い光を受け留めるための一つの奥床しい「面」にすぎないのであって、全く砂壁と同じ作用をしかしていないのである。われらが掛け軸を択ぶのに時代や「さび」を珍重する理由はここにあるので、新画は水墨や淡彩のものでも、よほど注意しないと床の間の陰翳を打ち壊すのである。

 

 谷崎潤一郎の陰影礼賛から。

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