気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

三渓園訪問

2019-06-23 21:37:00 | 日記

 

 

 横浜にある三渓園に行ってきた。
175000㎡(53000坪)もあるところで、かつては原三渓という明治の実業家の個人的な庭園だったところだが、まるでテーマパークといってもいいほど広い。
しかも邸内の随所にある歴史的建築物の数々はそのどれもが京都や鎌倉から移築した「本物」で、古くは室町時代にまでさかのぼる、国宝、重要文化財の宝庫である。
 いったいどれだけの費用が掛かったのだろう!

 一個人がこれだけの土地を所有してそこを彼の理想の桃源郷(東洋的な水墨画に見られるような世界)に作り替えたというのは、戦前の成功した実業家のスケールの大きさというか、財力というか、そういうもののすさまじさを目の当たり見る思いがした。

 この人の偉いところは、私有地でありながら「自然」は神が作られたものであり、個人が独占してはならないという考えのもと、ここを24時間一般市民に開放したというところだ。この原三渓という人が人格者であるということはその後の関東大震災の折、関西からコメを大量に買い付け自社の社員はもとより、食べるものに困っている地元の人々のためにここで炊き出しをして食料を配ったという逸話からもわかる。

 また、震災後、すきな美術品収集を一切やめて復興のために尽くしたという。こういう横山大観や山村観月など当時の一流芸術家の庇護者であった「本物の数寄者、風流人」が書画骨董品の収集をやめるということは、どれほどのことかとおもうと……頭が下がる。

 庭内は素晴らしかった。ただ、いくつかの改善点はあった。
それは排水溝に被せてあるふたが赤さびた金属のもの(1m四方の結構目立つもの)であり、貴重な国宝級の歴史的建造物のわきにこのようなものがあるのはほんとうに興ざめだった。
 完全に木製のものにするか、せめてそれができなければ木製のものに模したプラスチック製のものにしてほしい。

 それから松風閣という展望台があるのだが、これが無粋なコンクリート製でしかも手すり下の柵の板が一部崩壊して壊れていた……園内の大部分の建築物が木造の、それも国宝級の建築物が配置されているなかで、「松風閣」と命名されたものがコンクリート製というのは完全に全体の調和を壊している。

 三渓園は現在横浜市が所有しているらしいが、国指定の名勝がこれでは、あまりに恥ずかしい。外国人の観光客も多数来ていた。700円の入場料を取り、多くの横浜市民の税金も投入されているのだろうから、ここを管理している三渓園保勝会は至急なんとかするべきだと思った。

 

 

 それ以外は何の注文もない。
園内の内苑といわれる三渓の私的な庭園であった部分は特に素晴らしく、まさに東洋的な水墨画の世界を彷彿とさせた。
僕がもっとも感動したのは「光」だった。木の葉を透過してくる光の美しさは言語を絶していた。

 もう一つ見てみたいと思ったのは、雨の日の情景だ。
雨が園内に敷き詰められた敷石や木の葉を濡らしている情景を見てみたいと思った。ぜひ次は雨の日に訪れたい。

 

 

 


 さて、落下させてしまったカメラだが、こうして使ってみて全く問題ない。現在確認できる支障はダイヤルのロックが効かなくなっただけである。
これをかったフジヤカメラに持って行って修理にどのくらいの費用が掛かるか聞いてみたところ、なんと2~3万円もするという。購入価格の半分以上だ。
ダイヤルとそれにかかわる軸を取り換えるだけだろうと思うので、大半が技術料なのだろう。

 店員から修理するよりこれを売って、別の中古カメラを買ったほうがいいかも、ただし一度落としたカメラはジャンク品扱いされるので高くは買い取れませんが、といわれた。
ジャンク品という言葉にはさすがにショックを受けたが、使ってみて全く問題はないので、売る気はもちろんない。意地でも(笑)あと10年は使い続けるつもりである。

 さて、先日母の13回忌を行った。
あれから12年の歳月がたったことになる。12年という歳月は偉大である、あれほどの苦しみ、あれほどの悲しみさえいまは遠くに望む風景のようになった。
ただし、これが記憶の残酷なところで、突然何の前触れもなしに瞬間の記憶がヴィヴィッドによみがえることがたまにあって、そう云う時は思わず凍り付く。周りにだれもいなければ本当に時間が止まったように動けなくなり、何秒だろうか何十秒だろうか、凍り付いたままじっと耐え忍ばなければならない。これが生きている間は繰り返される。

 それから、癌の心配があるといわれた同僚だが、どうも大丈夫なようだ。
ただし、腎臓にたまった結石が腎臓の3分の1にも達していて、それはやはり取り除かなければならないようだ。
聞けば若い時から食生活、生活習慣は不摂生していて、結局、そういうものの積み重ねが50代~60代に表面化してくるのだなと思った。

 今、僕の別の同僚がよくインスタントラーメンを昼休みに食べていて、その匂いがあまりにもいいので僕も誘惑に負けてしまいインスタントラーメンをしばらく(1週間ほど)習慣的に食べていた。すると、体調が著しく悪くなり、一時は医者嫌いな僕が病院に行こうかなと思うほどになった。よくよく考えてみれば、それ(インスタントラーメン)だということに気づいたのできっぱりとやめると、やはり体調は元通り改善した。
 ところがその同僚はいまでもほぼ毎日のように食べ続けているが、全く体調には問題がないようだ。

 これはたぶん、あまりにも長期的にそういう生活を続けてきたために、体がそれに不感症になってしまったのだろう。ただそれは感じなくなっただけであって、インスタントラーメンにふくまれている添加物、化学物質が彼の体を着実に蝕んでいるのは間違いない。そしてその蓄積した結果が数十年後に、深刻な、生死にかかわるような病となって(本人にとっては突然)表れてくるのだろう。

 要は、目の前にある美味、美食を味わい続けて数十年後の地獄を選ぶか、それをとりあえず我慢して、体にいいものを食べ続けて生涯にわたる健康を保ち続けるか、のどちらかなのだろう。どちらがいいか悪いかは、つまるところ、そのひとの人生観、価値観にかかわることなので、一概には言えないかもしれない。
 僕はもちろん後者を選ぶが、それは頭の中で天秤にかけているからだろう。どちらが「本当に」楽なのか、苦なのかということを。その結果は僕の中ではやはりいつでも後者のほうに傾くというだけのことである。

 それと、自分の体に対する、こうしている間にも365日、24時間、ひと時も休みなく自分を健康に保とうとしてくれている自分の体に対する感謝と愛があるからだろうと思う。そんなに頑張ってくれているのに、わざわざその努力を無にするようなことはしたくない、という気持ちがある。
 
 公生活も私生活も若干の波風は立つものの、平穏である。ありがたい。
これも僕の信仰による内的変化の故であることははっきりと自覚している。鏡に映っている世界(外側の現実)を変えたければ、まず自分が変わること、内的世界が変われば、それが投影している外側の世界も変わる。これが真実であることをここ数年心底から実感している。
 バシャールという高次の存在が、幸福の源は他者の愛を感じる感受性を持っていることと、それへの感謝だといっているが、どうもそれだけは間違いないとおもう今日この頃である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

骨髄からのことば

2019-06-10 08:37:29 | 日記

 妙本寺境内で

 

 

 紫陽花を見に鎌倉に行ってきた。
 午前中は友と会い談笑することに使ったため少し遅れてしまい、実質いけたのは妙本寺だけだった。
駅前の混雑とは裏腹にこのお寺はいつ行っても人があまりおらずそういう意味ではほっと息を抜けるところだ。

 ただその前に行ったお寺で誤ってカメラを落としてしまい、軽微ではあったが機能が壊れてしまった。使っていくには支障がないレベルの破損だが、買ったばかりのカメラなので凹み方が尋常ではなかった…しかし気を取り直しその後も撮影を続けた。それにしてもレンズやその他重要部分が壊れなくてよかった。かなり強い衝撃だったはずなのにこの程度の破損で済んだのは、ひとえにニコン技術の優秀さゆえだろうと思う。

 これが外国製カメラであればほぼまちがいなく撮影不能になっていたに違いない。
あのドイツ製カメラのライカは、いろんな動画を見ていると「信奉者」がたくさんいるようだが、はたして同じ衝撃を受けてこの程度の破損で済んだかどうかはわからないと僕は思う。(あくまで僕の推測です)
 欧米の老舗ブランドにあこがれる人は多い。だが、その違いを「本当に」感じ取っている人がその数に比例するほど多いのだろうか…とおもう。これはひとりカメラだけでなく、すべての分野において同じことを感じるのだが。

 妙本寺で写真を撮っていると、アイパッドだろうかその上をペンのようなものでなぞって「絵」をかいている人がいた。
ほぉ―今はそんなことができるのか、と思ってちらっと後ろからのぞいたのだが、なんとその絵が本当の絵と変わらないほど自然で細密なのだ。
本当に技術の進歩ってすごいと思った。

 

 

 

 しかも、その絵がかなり熟達した人の絵で、見事なものだった。
横に奥さんと思しき人が座っていて、奥さんが話しかけるたびに、「ほぉー」とか「ふーん」とか聞いているのか聞いてないのかわからない返事を繰り返しながら作画にいそしんでいた。この年(中年以降)になると、どうゆうわけか日本人は夫婦で一緒に休日を過ごすということをあまりしないことが多いと僕は感じていて、それだけにほほえましかった。

 

 

 

 

 それはそうと、この妙本寺の門前に上の写真のことばが掲げてあった。このお寺は日蓮宗系のお寺なのだろうが、これをよんだときぼくはしばらくその場を動けなかった。なにかぐっと感じるものがあった。これは日蓮が病を患っている太田入道という人へ出した手紙の中にある一文らしい。
 僕は通常、スポ根的なストレートな激励言葉があまり好きではない。だが、どういうわけかこのことばだけは心の中にまっすぐにささってきた。

 左側に小さく書いてある解説には、人は失敗をしてもその失敗から学んでまた立ち上がっていくものだという教訓的な言葉があった。
これ以外にもこの言葉にはいろいろな解釈があるようだし、そのどれが「正当な」解釈かは浅学菲才の身である僕にはわからない。 
 だが、むしろそれゆえにぼくはあえてこれを自分流にとらえた、いや、もしかしたら、日蓮も僕と同じ感覚でこれを書いたのではないかとさえ思う。

 それは人はなにがしかの挫折や失敗によって地に倒れても、かえってその固い地面を踏み台にしてまた立ち上がるものだ、その挫折が困難なものであればあるほどかえって立ち上がりやすくなるものだ、というふうに感じ取った。僕が感じたのは、教訓的なものではなく、もっと原始的な感覚である意気地、激しさである。それがぐっと僕の心に入ってきた。

 これを読んで、いかにも日蓮らしい言葉だと思った。(ただし原語は中国天台宗第六祖妙楽大師)
僕は日蓮という人物について詳しいことは知らないが、ある種の激しさ、熱情、のようなものはこの人物から漠然とイメージしていたからだ。(それが正確かどうかはわからないが)
 今も書いたように、僕はふつうこういうスポ根的な言葉を好まない。ただ、この言葉が日蓮という生涯を送った人物から発せられたという事実が重い、と感じる。
その生涯の骨髄から発せられた言葉だと感じるからだ。

 この言葉がどれほど僕を励ましてくれたか、力を与えてくれたか…
今日はこの言葉をありがたい土産としていただいて帰ってきたようなものである。

  

 妙本寺

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする