気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

「親鸞」を読みながら

2021-03-18 05:37:26 | 日記

 

 

 

 

 ようやく確定申告が終わった。まるで締め切りに追われる作家のように追い詰められながらぎりぎりで終わるというパターンを毎年繰り返している。
今年、いや、毎ねんそうなのだが、申告会場で相談に乗ってくれる税務署の職員さんたちの親切さ、優しさはほんとうにありがたい。たぶんだが、日本ほど公共サービス(公的も、民間も含めて)の質のいい国はないのではないかと思う。

 海外に住んだ人であればわかると思うが、海外では民間の会社であってもサービスを与える側と受ける側の立場はほぼ対等だ。できないことはできないといってはっきり断る。例えば日本であればたとえ自分が知らないことであっても自社のことであれば、かならずお客を待たせて同僚や上司に聞き客にこたえるのがふつうである。最近のとくにネットのチャットサポートではそうしないでただできませんで済ませる人もいるが、普通の窓口ではちゃんと確認をしてから答えるだろう。

 

 欧米、といっても僕が住んだことのある国だけではあるが、ではたとえ自分の会社のことを聞かれていても、自分が知らなければ知らない、あそこにあるパンフレットを見てください、と平気で言う。あくまで自分がまかせられている業務のことにしか対応しない人が多い。これは彼らが不親切であるからではなく、そういう文化的な思考をする国なんだなと僕は解釈していた。
 一度、空港で飛行機を乗り継ぎしたときに、次の便が大幅に遅れていて、いつ動くのかたぶん詰問調に聞いていた客がいたのだが、そのたぶんフランス人と思われる航空会社の職員は、「知りません、遅れたのは私の責任ではありません」とのうのうといっていたのをおぼえている。

 ようは、あくまで「自分」と「会社」とは別なのである、彼らにとっては。自分は自分の責任の範囲のことだけに責任を負うのであって、同じ会社のことであっても他人がやった事には責任は負えないし、負う必要はない、という思考なのだ。もちろん会社の上層部に行けば行くほどそういう応対をする人は減っていくだろう、でもそれはその地位がもたらす責任の範囲が広がるからそうなるのであって、「基本的な思考」はこの末端の職員的な思考をしているはずである。

 

 そう、これらはかれらの個人主義的な価値観から生まれているのだと僕は思う。
これがいいか悪いかというのは短絡的には言えない。視点を社会全体、あるいは歴史全体に拡げてみれば正と負の両面が見えてくるし、多くの場合視点を高いところにあげれば上げるほど、僕には彼らの個人主義というものが社会や国家、そして文化にまで多くの実益を与え続けてきていることが見えてくる。だから、どちらがいいか悪いかというよりも、あくまでも文化的な「違い」と僕は受け止めている。

 ただし視点をあくまで利用者、サービスを受ける側に限定すれば、やはり日本のサービスはありがたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 さて、そんなこんなでやっと自由の身になれたので、この週末は休日を満喫させてもらった。もっとも僕のためというよりは僕のペットのためではあるが。ずっと家に閉じ込めっきりになっていて、散歩もほんのちょっとしかできていなかったので、その償いとして2日間の有休をこの子のために使った。昨日は鎌倉にいき砂浜を歩かせようと思ったのだが、あいにく風が強く砂嵐のようになっていたので、散歩は断念した。ただし、強風で大きくゆれる波に太陽の光が反射して、白くうねるようにうごめく水面はえもいわれぬ美しさだった!

 

 そして昨日は箱根へ。例によって箱根湯本からバスに乗って芦ノ湖湖畔まで行き、湖畔を少し歩いた。こちらも期待していた富士山は見えなかった。
コロナの影響で外国人観光客もいなくて、おまけに平日だったので閑散としたものだった。実は僕はここで外国人観光客とふれあうことが好きである。というのも、欧米人(特に英米人)は見ず知らずの人でも人によっては目配せをしたり、軽く挨拶をする人がいるからだ。とにかく、本質的に旅好きな僕はこの小さな二つの小旅行を十分満喫できた。ありがたかった。

 

 話題は変わって、今年僕の信仰する組織で信者証というものを信者全員に発行しているのだが、それが新しくなるというので新しいものをいただいた。入信してからもう12年になる…入信しても当初の真剣味を失い形だけの信仰になったり、信仰そのものを捨てていく人々もいる中で、僕は今でもほぼ入信当時のままの想いでいる。12年という歳月を振り返ってみるとこれはほんとうにありがたいことだと思う。

 

 この両者を分けるものは何なのだろう…おそらくだがそれは信仰を持つに至った動機、理由、というものと深い関係があるのではないかと思う。
だれか親しい友達や家族から誘われたから、入るとなんかいいことがありそうだから、あるといわれたから、といった動機で入る人々は…おそらく熱意を失うのも早いだろうと思う。
 あるいは、なんらかの社会的、経済的、人間関係的な問題に苦しみ、それの解決を求めて入信してきた人々もまた、同じようにそれらの問題が解決するとおそらく熱意を失っていくのではないだろうか。(もちろんそれらの動機で入信することが悪いといっているわけではない)

 

 それにたいして入信に至るまでの間に、なんらかの個人的な悲劇、大きな罪の意識、道義的な葛藤(善と悪の問題、とくに自らのうちに潜む善悪の問題)というものにさいなまれどこにも出口が見いだせないで苦悶していて、信仰に救いを見出そうとして入信した人々はその信仰を捨てることは少ないのではないか(その信仰がその人の抱える問題に相互的に答えてくれるものである限り)。

 このような問題を抱えている人々にとって、キリスト教や僕の信仰のように絶対的な善とそれによる受容というものを中心に置いている信仰は、いちどそれにいだかれればそれを捨てることはまずありえない。そのような人々にとっては、信仰すればなにか目の前にある具象的な問題が一気に解決するとか、大きな物理的、社会的利益があるとかは、ほとんどどうでもいいことである。

 自分の存在、存在している意味、価値、それそのものが崩壊していく危機の中で、すべてを知りながら受容しそこに存在する意味、価値を与え、その過程の中で自分の問題そのものを根本的に変質させてくれるもの、そのような信仰の対象である限りそれを捨てることなどはあり得ない。

 いいかえると、善を希求する意識、意志、がその人の存在の本質を決定ずけるほどの意味を持っている人であればあるほど、一度得た信仰を捨てることはあり得ない。なぜならそれは自己を完全否定することと同じだからだ。どの信仰であれ信仰というものを核心までつきつめていけば、最後はそこに突き当たるのではないか。

 

 今、「親鸞」という本を読んでいるのだが、親鸞が法然の教えを暗闇の中でまさぐるように求めたその Cause 動機はそこにあったのではないかと思うようになっている。
ただ、残念なことに彼の教えを求めて集まってくる人々の中の大多数は、それよりもむしろ、死後の浄土、往生だけを求めていた……そこに親鸞の根源的な孤独があった…と僕は思うようになっている。それがどれほどの孤独であったかは想像するに余りある、しかし、かれはそれでもよい、それでもよい、この現世の苦悩にさいなまれている人々に希望を与えることができるならと考えたに違いない。

 この孤独はおそらく、キリストも、ブッダも、あるいはあの孔子も抱いていた孤独であろう。と同時に、彼らは知っていた、そのような大衆の中にも、善悪の崖の底で苦悶している人々がいることを、あるいは未来にはそのような人々が生まれることを。そのような人々にもよりそい、そっと肩に手を置いてあげたかった。だからこそ彼らは『その孤独』に耐えることができたのだと思う。

 電車の中で「親鸞」を読みながらそんなことを考えていた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Are you ready?

2021-03-02 04:59:50 | 日記

 

 

 

 

 特に書くことはない(笑)
という出だしで書き始めるのはこれでたしか2回目だが、本当にたいして書くことはない。でもこうして書いている。

 さて、今ちょうど確定申告の準備で忙しくてほかのことは何もできない。毎年2月を過ぎると気持ちが重くなり、申告が終わるまでそれは続く。
こうして自分で申告して税金を払っていると、国の税金の使い道には神経質になる。とくに今世間を騒がせているオリンピックはまさに我々が日々汗水絞って働いた労働の対価の一部を払って行うわけで、当然気になる。

 サラリーマンの人は給料から天引きなので自分が税金を払っているという意識はもしかしたら希薄かもしれない。だが、毎年申告して振込用紙で税金を払っている人間にとっては、払いながら無駄なことには使わないでくれよ!という意識は強く持っている。
 さてそのオリンピックだが、僕個人の意見を言えばわずか2~3か月で終わってしまう祭典のために、数十兆円もの『われわれが身を粉にして』働いて払った税金が使われることに対しては強い抵抗がある。

 ましてやわが国は日本という統一国家ができて以来最大最悪の財政難の真っただ中にいる。なんでそんなことにとんでもない、それこそほんとにとんでもないスケールのお金を使わなきゃならないの?という疑問がある。
これひとつをみても、この国の政治家に国家というものを運営していく責任感と能力というものが欠如していることの証であろう。

 それから、例の森元首相の失言だが、全文らしきものを人の引用ではあるがそれを読んだ限りでは、あれは差別というよりは「違い」というものを述べたに過ぎないという印象だ。
たとえば、黒人は肌が黒い、というだけでは差別ではない、これは違いを述べただけである。ただ、肌が黒いから〇〇だといってこの〇〇というところにネガティブな言葉を入れた場合、それはそこで初めて差別になる。

 森氏の発言はその引用を読んだ限りではあくまで違いを述べたに過ぎない発言だったと僕は思う。
ただその言葉の裏側に差別意識が潜んでいた可能性は潜在的にはあるかもしれない、が、それがあるかどうかはあの文章を読んだ限りでは第三者にははっきりとはわからない。
さっきの例でいえば、黒人は肌が黒くて夜はよくわからない、交通の安全上危険なので黒人の人が夜間歩くときは光が反射する服を着てほしい、といったのと同じ程度だろうか。

 これは厳密には差別ではない。だが、そのような言葉は黒人の人々の感情を傷つける可能性があるということは大概の人は言う前に気づいて発言を控えるだろう。
ここに差別意識があるかどうかというのはあくまでもその発言をした人にしかわからない。差別していると主張するのは、ほかの人がその発言を聞いて差別していると解釈している、ということにすぎない。

 ただやはり、たとえ差別意識が無かったとしても、その言葉が差別と受け取られる潜在的な可能性があるということを自覚せずポロっといってしまうところに森さんらしさがある。
もっというなら、それを察知できないところに彼の人柄、人格というものが顕れているということではないだろうか。

 しかしだ、我々は森さんだけを非難する資格はあるのだろうか。
彼と同じような考え(もし彼に差別意識があったとして)を持っている人々は案外、というか、かなり多いのではないか。特に日本は文化的にそういう価値観を共有しているしている人が多数派であろうと僕は思う。

 オリンピックというのはいうまでもなく、多民族多文化の人々が世界中から集まって行う祭典である。
太古の昔から同じような顔、肌の色、風俗習慣をもつ人同士が暮らしてきたこの国で生きてきた我々日本人の伝統的価値観は、はたしてオリンピック精神と価値観を共有できるのだろうか?
 人類史上最速のスピードで進むこの国の少子化、それによる社会保障の超深刻な空洞化、労働者の不足、そういった問題にたいしていまだに移民の導入に及び腰のこの国の政府、官僚、そして我々日本人は、そもそも多文化多民族社会という価値観を持つオリンピック精神と手を取り合って共立共存できるのか。

 森氏だけを袋叩きにしてすむ話ではないだろう。
人種や性、異文化だけではない、LGBTという性的少数者にたいする社会的な寛容度はどうなのか?
選択的夫婦別姓という問題に対して、『女性の側から』反対の声が上がっているというこの国の(少なくとも僕には)わけのわからない状況はどうやって理解したらいいのか?
 日本はほぼ間違いなくこれから多民族、多人種社会的な方向に嫌でも移行していかざるを得ない。森氏をたたいているわれわれにはたしてその準備はできているのだろうか?

 異なるもの、意見、価値観というものに対する寛容性が低いこの社会に住むわれわれにとって、それはとてもチャレンジング(大きな挑戦であり試練)になるだろうと思う。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする