気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

霧の中で立つということ

2017-02-12 23:41:58 | 日記
 最近はなんか知らないがいいことが多い。

 先週の月曜日は深大寺の近くにある湯守の里にいって温泉に浸かってきた。
数万年前に地中に閉じ込められた海水がわいているそうで、数万年前の植物のミネラルなどが多く含まれていて、それが体にいい効果をもたらすのではないかと期待している。中年以降は体のメンテナンスも意識的にやっていかなければいけない。なので、これからも此の温泉には通うつもり。

 さて、待望の映画「沈黙」を見てきた。
かなり重い映画だった…(笑)
 同時にアメリカ人がああいう重い映画を作るのか、と新鮮に感じた。

 それはさておき、やはり印象に残ったのはあのポルトガル人の宣教師がなくなった後の葬儀で、棺桶の中の彼の掌の中には小さな十字架が握られていた、という場面だった。つまりは、たとえ踏み絵を踏んだとはいっても、心の中では決して信仰を捨てていないし、もちろん神もそれを許されている、というものだろう。

 踏み絵を踏んだとはいっても、ほかの信者を助けるために踏んだのだし、僕も当然神は許すと思っている。
確か聖書には正確には覚えていないが、7の7倍(比ゆ的な表現でそれくらい寛容に)他人の罪を許せ、という言葉があったと思った。
そういうことをおっしゃる神が、他者のために、想像を絶する苦痛をもたらす拷問を前にして、恐怖のあまり踏み絵を踏んだ信者を許すのは当然だろう。

 また、人々に石を投げられて殺されかけている娼婦をみて、この中で罪を犯したことのないものは前に出よ、そうでないものは石を投げる資格はない、と言って娼婦を救ったイエスの言動を見ても、恐怖のあまり踏み絵を踏んだ信者を当然神が許さないはずがない。

 ただ、問題は踏み絵を踏んだその人自身が「自分を許せるか」という事ではないか。
その人が真面目な人であればあるほど、優しい人であればあるほど、敬虔な信者であればあるほど、踏み絵を踏んだ自分を責め続けた(おそらく一生)のではないかと思う。
 遠藤周作は、マーティン・スコセッシは(おそらく自分自身も含めて)、そういう人に対するメッセージとして作品を創作したのだろう。

 映画の中でも神の声として、踏んでもよい、踏みなさい、私はそのため、そのような弱い人のためにこそいるのだ、というような言葉が響く場面がある。
これは「神の沈黙」とならんで、この映画のコアとなる美しいメッセージだろうと思う。

 映画の中で宣教師が当時、30万人ぐらいのキリスト教徒が日本にはいたと述べているが、ということは、踏み絵を踏むことを拒絶して処刑されたごく少数の信者をのぞいた数十万人の人々の内の何割かは、上記のような良心の呵責と罪の意識を生涯持ち続けたと云う事が想像できる…それを思う時、処刑されて亡くなった信者の人生も悲劇的ではあるが、恐怖のあまり、家族を守るためにやむを得ず踏み絵を踏んだ数十万人の人々の人生もまた、それに決して劣らない悲劇であろう。

 しかし、彼らの掌の中には皆、常に十字架がにぎられていた、最後まで。
おそらくは、キリスト教徒であるなしにかかわらず、僕らの大部分はユダであり、キチジロウであろうと思う。
そして、それだからこそ、それらの人々のためにこそ、信仰というものがあるのだろうとおもう。

 問題は「沈黙」の方だが、これも映画の中で神の声として、私は沈黙していたのではない、ずっと寄り添っていたのだ、というような言葉が響いてくる。
これが遠藤とスコセッシのたどりついた「答え」であり、おそらく敬虔な、善男善女として生きている信者の大部分が抱擁する「答え」だろうと思う。
 僕は繰り返しになるが、『この問題に関する限り』人間の知性の限界を超えた問題であり、絶対的な答えにたどり着くことはできないだろう、という立場。
哲学用語でいえば、この点に関する限りぼくは不可知論者 Agnostic である。

 ただ、読みの深い読者、映画観賞者であれば必ず感じ取っているはずである、遠藤もスコセッシも彼らなりの「答え」にたどり着いたものの、同時に、その答えの外に、湖面に広くたちこめる霧のように、不可視の領域が広がっていることを、それが言外の言葉として作品の中に暗黙の裡に置かれていることを。
 そもそもそうでなければ、作品のタイトルとして「沈黙」という言葉を付すわけがないし、そもそも、このタイトルから暗示されるテーマを、これほどの大作として取り扱うはずがないからだ。

 「沈黙」というタイトルは、神の沈黙を表すとともに、この不可視の領域の前でたたずみ「沈黙」するしかない作者を含めた人間のことをもさしているダブルミーニングなのかもしれない。

 それは確かに苦痛である、そのひとが善人であればあるほど、敬虔な信者であればあるほど。できれば拭い去りたい。
しかし、それができない…ただひとつその苦悩の共存の中で耐えていくことを可能にするのは、『善』『良心』への愛、信、つまりは、信仰というものではないか。
その先は見えない、わからない、でもそこから一歩先に進ませる力は、それしかない

 そこに信仰というものの、美しさ、エッセンスというものがあるように思えてならない。 
コメント
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