気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

今度は天狗か

2014-08-28 23:59:37 | 日記
 今度はデング熱というものが発生したという。エボラの次は天狗、その次は河童か?
冗談はともかく、大変だ。エボラのほうは感染者が2万人?になるだろうとの予測が出ている。
 空気感染しない病気がこれほど広がってしまうというのは解せないのだが…

 病気も心配だが、アフリカ人、アフリカ人に似ているその他の地域に住んでいる黒人全体に対する偏見による差別も怖い。
中世のヨーロッパではペストでヨーロッパ全体の人口の3分の1が亡くなったといわれている。

 デング熱のほうはやはり温暖化の影響もあるのではないか。
これからはマラリア対策もしなくてはならないだろう。山などに行くときは、虫よけスプレーは必ずしていかなければならない時代になるだろう。

 実は代々木公園は、月に数回は安全な食材の買い出しに行くために近くを通ることがある。原宿に紀ノ国屋(海外の食品を多く扱うスーパー)とナチュラルハウスがあるためだ。
なので今回の報道は少しドキッとした。
 

 広島の被害は知れば知るほど甚大であったことがわかってきた。
こういう被害があるといつも出てくるのだが、ある不動産屋によればあの地区は住んではいけないと「業界内部では」よく言われていたそうだ。
東日本大震災で浦安が液状化現象で地面がぐにゃぐにゃになった時、やはりそういう「内部情報」がでてきて、業界ではあの地区は危ないといわれていたそうだ。
いずれも真偽のほどはわからないし、もしくは、あとずけで自分たちが賢かったということを世間にひけらかすためかもしれない。もし後者であれば、人の不幸をネタにしてのことであり、卑劣な言動であろう。

 《もしその内部情報とやらが本当だとすると》だが、それならなんで開発して売るの?と思うのだが、それはやはり「お金」ということなのだろう。
国土の7割が山といわれている狭い日本で、新たな土地を開発するとすれば、山ぎりぎり、海ギリギリまでやらざるを得ないのだろう。
だからどうしても無理が生じてしまう。これぐらいなら大丈夫だろう、売り上げを上げるには仕方がない、なにかあってもだれかが責任をとってくれるだろう、という思いが悲劇を生む温床になる。

 鎌倉の海沿いの住宅地を散歩していると、「海抜0メートル」という立札を見たことがある。
海沿いなのだから当たり前なのだが、改めてそういう看板を見るとぞっとした。津波が来たら一巻の終わりではないかと思った。あのあたりはいつ大きな地震が来てもおかしくない地域である。
事実、昔あのあたりで大きな地震があった時に津波が押し寄せてきて、当時の大仏は京都の大仏のように建物の中に入っていたのだが、その津波で建屋が流されてしまってそれ以来ずっとむき出しになっているという。

 大仏のある場所というと、海から2キロぐらい内側に入っているはずだから、今それぐらいの津波が来るとすると奥のほうの山沿いを除いて鎌倉市内はほぼ全滅するのではないか。
いずれにしても、海際、山際にはすまないことが肝要ではないかと思う。仮に運よく自分の代では被害にあわないとしても、子の代、孫の代、その先の代で被災する可能性はかなり高い。
 東京で今盛んに開発されている汐留、横浜で開発が進んでいるみなとみらい地区などは本当に大丈夫なのか。
数千万円で買った家が、一発ぐらりでダメになってしまったら…ひょっとして「業界内部では」ひそかに危ないといわれているのではないか…まぁこれくらいにしておこう。

 あすはどうなるかわからない、だからといっていつも悲壮感を持って生きるわけにもいかない。
何気ない日常にすぎていく時間を、大切に味わいながら生きる、それしかあるまい。
 息ができること、空気がうまいと思えること、夕暮れ時のすこし黄色みがかった光のノスタルジックな雰囲気を味わいながら生きる、ペットの美しい目をみつめているときのあの幸福感をかみしめながら生きる、すべてに「ありがとう」という念を送りながら生きる。

 

 

 

 
 

 

 
 
 
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諸事雑感

2014-08-23 02:06:18 | 日記
 まず、アフリカでエボラ出血熱に感染していた米国人医師が完治したそうだ。
致死率90%といわれていたが、まだ認可が下りてない新薬を投与した結果とも言われている。
 
 この医者、普通の医者ではなく、ミッショナリー、つまりキリスト教の組織から派遣されていた医者らしい。
いわば現代のシュバイツアーだ。こういう人もこの世にはいるんだな、と思いながらかれの記者会見を見ていた。
彼はアフリカにいるときからエボラ出血熱が流行ってきていることがわかっていたという。

 それでもあの地にとどまって医療行為を続けていた。
当然、自分も感染して死ぬことも半ばは覚悟していただろう。
こういう人もこの世に入る…それだけで十分だ、それを知った人に再び生きていく意味を与えることができる、たったそれを知るだけでも。

 彼の地には国境なき医師団のメンバーとして、日本人看護師(女性)も行っているという。
彼等は怖くないのか、いや怖いだろう人間だから。でも使命感が彼等を動かしている。
それを思うと僕はどうしても神という存在を思わざるを得ない。その人に信仰があるとないとにかかわらず。そうでなければ説明がつかないからだ。

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 広島の災害はニュースを見れば見るほどその被害の規模が大きかったことを感じる。
明日はどうなるかわからないというのは、僕も東日本大震災の時感じたが、では明日死ぬことがわかっているとして今日何をするかと言えば、やはり普段と同じことをするだけだろう。
ただ一つだけ違うことをするとすれば…現在不仲になっている人々にひとことあたたかい情を込めた言葉を送るだろう。

 ただ、僕はまだ生かされると思っている。
なぜなら、まだ道半ばであることがわかるから。僕は自分がなぜ生まれてきたのか人生半ばにしてわかった。前半生が何のためにあったのか、そして、それが後半生をどう支配するのかも。
だから、僕はまだまだ生きなければならないだろう。死ぬことはまだ許されないだろう…そんなきがする。

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 映画「項羽と劉邦・鴻門の会」という映画を借りてきてみた。
例のアクションものの軽い映画かと思っていたら、いい意味の期待外れだった。
 全体を通して重厚で、考えさせられる作品だった。

 劉邦と彼の臣下で、彼が天下の覇者になることを大いに助けた名将韓信との関係を中心に描いている。
劉邦と韓信の関係は良好だったが、劉邦が皇帝になって以降次第に険悪になっていき、最後には韓信は劉邦に殺される。

 僕はこれを見て、毛沢東と彼の部下でやはり戦術戦略家として極めて優れていたホウトクカイ(漢字が出てこない)との関係が重なってきた。
共産党が中国を支配下に置いて以後、毛沢東の大躍進運動の失敗で中国全土に数百万という餓死者が出たことがある。
 ホウトクカイは地方に調査にいき、いかに民が苦しんでいるかを知り悲しみ驚愕し、これを放置していてはいけないと現状改善を求めて毛沢東に手紙を書き送った。

 しかし、自分の行った政策が失敗したことを認めたくない毛沢東は、それを握りつぶしただけでなく、猜疑心と復讐心に燃えてホウトクカイを失脚に追い込み、監禁した。
ホウトクカイは劣悪な状態で監禁されたまま死んだ。毛沢東が殺したようなものである。
 
 韓信がホウトクカイほど高潔な人物であったかどうかはわからない。たぶん違うだろう。
しかし、やはりこの4人の人物の人生が僕の中では不思議なほど重なってくる。
いやそれだけではない。劉邦臣下でもっとも知謀人徳ともに篤かった名宰相蕭何と、やはり共産党政権下で最も高徳の士であり知謀すぐれていた名宰相周恩来も重なるのだ。この符号はいったいなんだろう!とおもうほど。

 かつては革命の理想に燃えて共に戦った同志。
 ここで一言述べておくと、世間一般では毛沢東を悪人視する向きが多い。
だが、それは極めて表層的、浅薄な見方であり、現実は違う。

 かれも若いころは理想主義者だった。それは彼が若いときに書いたものを読めばわかる。
いかに中国の貧しい農村に、都市部の貧困に苦しむ民に、明日の糧に困らない生活を与えるか、どうやったらそのような社会ができるのか、そのことばかり考えていた節がある。

 もし、毛沢東が、仮に蒋介石やスターリンのように独裁的な権力をつかみ乱用することしか考えていない人物であれば、あのような文章は書けない。
さらには、人徳高潔な周恩来やホウトクカイのような人物が彼についていくはずがない。『彼は変わった』のである。
 
 この映画の脚本家あるいは監督は、劉邦の妻に与えた役回りから、念頭にシェイクスピアの「マクベス」を置いていたのではないかと思う。目的を達成しひとたび権力の座に着くや、その同志に対する猜疑心が生まれ、最後は死にまで追いやってしまう。
 この映画では、それを権力というものに対して人間が持っている「欲望」の故であるとほのめかしている。

 僕は欲望などという単純な定義ではくくりきれない、集中的な権力を持った時の人間の心に宿る、いや、そもそも潜在的には本質的に持っている『魔』のようなものだと思う。
もし「マクベス」を念頭に置いていたのなら、そこまで描いてほしかった。

 この映画にはそこまで踏み込んでほしかった、それが惜しい。

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 とまぁ、これらのことを最近考えていた。

 

 
 


 
 

 

 
 
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ルノワールおそるべし

2014-08-16 00:35:22 | 



 六本木の国立美術館でやっているオルセー美術館展を見てきた。
行くたびに新しい発見がある。おなじみの画家でも僕の不勉強のせいで、始めてみる作品がある。
 今回素晴らしいと思ったのは、ルノワールの「イギリス種のナシの木」という作品。

 全体的に写真でいえばピンボケでぼやぁーっとしていて、まるで記憶の中の風景のようだ。
たぶんわざとそう描いたのだろうが、これをみて驚いた。
 写真で見るといつものようにその感動の100分の1も伝わってこないのが残念。

 これをみて僕の中のルノワールの評価が一挙に10倍ぐらい上がった。
何でもそうだけど、あまりにも有名すぎる人を褒めるのは素人っぽくてためらう人が多い。
 でも、有名であろうがなかろうが、素晴らしいものは素晴らしい。どんどんほめるべきだと思う。

 あのぼかし方は、写真では簡単にできるのだが、それを絵筆でやるとなると…相当の力量が必要だと思う。
ルノワールの真価は人物画ではなくて、風景画にある、そんな思いを持った。

 その次に、というか、今日一番仰天したのはモネの「死の床のカミーユ・モネ」だった。
もうなくなっているか、もうすぐなくなるモネの妻の肖像画である。
 顔の上に白っぽいレースのようなものがかかっている。

 モネ自身の言葉として、顔に死が刻んでいく刻印のグラデーション、とかなんとかいう言葉が説明書きに書いてあった。
白いレースのようなものは本当にあんなものが顔にかかっていたわけではないだろう。
 それはモネが死の象徴として描いたものに違いない。

 そのレースの布で少しずつ顔がぼやけていき、存在感が薄れていく、ちょうど映像にすると亡くなった人の顔に白い霧のようなものがかかり、そのぼやーっとした感じがどんどん濃くなっていくような、そんな効果を絵筆で描ききっている。
そう、だんだん死の世界に入っていく妻とそれを見ている自分が体験している「時間」と「感情」を見事に表現している。
妻を徐々に奪っていく「死」の力を、その時間の経過も含めて見事に描ききっている。

 ただ…どうやってあんなに「冷静に」描けたのだろうと思う、自分の妻の死を。
妻の死さえも、美に昇華させる…芸術家の性というか、宿命というか…

 僕が見ていると、隣にいた初老の外人が自分の子供に対してThis is incredibleと言っていた。
あぁ、この人も感じるんだなぁと思った。
 ただ、10歳ぐらいのその子供にその絵に込めれられたものが理解できたはずはない。その父親は何を思ってそんなことを子どもに言ったのだろう。

 僕が「死」というものを観念的に初めて意識したのがだいたい3~4歳ごろだっただろうか。僕の記憶の中でも最も古い層にある。幼稚園に通い始めたばかりか始める前かだと思う。
そこは病院だったと思う。大人に死ぬってどんなこと?と聞いたのをはっきりと覚えている。真昼間にぽっかり空いた暗いトンネルを見るような底冷えのするような気持ちになったのを覚えている。
 やがては誰もがあの白いレースの向こう側に行かなければならない。カミーユのように。
まさかそんなことを教えたかったのだろうか、あの父親は。もっとも、実はわかるのだ、子供には、大人よりももっと直截に、直観的に。彼はそれを知っていたのだろう。(前言を翻すようだが)

 

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