気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

コロナウイルスについて感じること 2

2020-03-23 05:56:19 | 日記

 前回記事を書いてからさらにコロナウイルスの状況は悪化している。しかもそのスピードは僕の予想をはるかに超えて。
しかも一番驚きなのはイタリアの感染者の急増と死者数がウイルス発生の地である中国を追い抜いて世界一位になったことだ。
 中国の発表する情報が信じられないという向きもあるが、感染者の数はごまかしたり、つかみきれないことはあっても、死者の数はごまかしにくい。

 これはおそらく真実であろうと思う。とすると、どうしてなのかという疑問が生じてくる。
イタリアの医療システムそのものに何か致命的な欠陥があると考えるのが自然ではないだろうか。ニュースなどで聞くところによると、この国では財政赤字から医療に携わる人々の数を減らしてきたという。そこへもってきてたぶん軽い症状の患者でもすべてウイルスのテストをし、陽性だとわかると自宅待機などの処置をせず、その患者をすべて入院させるなどの処置をしてきたのではないだろうか。
 そのためもともと医療従事者が少ないところへ、爆発的に増え続ける患者に対応できずに医療崩壊が起こっているのではないか。

 

 

 

 これは3月17日ぐらいまでの各国の感染者数をグラフにしたものだが、日本の低さが目立つ。(一番下の線)死者数はその国の人口によっても持っている意味が全然違ってくる。人口の多い国と少ない国の死者数を単純に比べてみても意味がない。
 そこで1億人当たりの死者数を比較している動画を見つけた。

この動画

 この動画の14分40秒あたりから見えるグラフを見ると、人口1億人当たりの死者数が一番多いのが4925人のイタリアで、突出している。興味深いのが発生地の中国が233人で7位なのだ。もちろん捏造されたデータである可能性も排除はできない、が、いくら中国でも真実の数字からあまりにもかけ離れた数字を出すことはためらうだろうと思う。今も述べたように、感染者数は正確につかみきれないことや、捏造の可能性も否定できないが、死者数の場合はこの動画主も言っているように、捏造しにくいはずだ。

 とすると、中国の医療システムもあながち劣ったものではないことがこの数字から想像できはしまいか。
そしておどろくべきは日本の1億人当たりの死者数が24人で3月19日の時点で17位にあることだ。当初、感染者の数が中国に次いで世界2位だったこともある日本でこの数字に抑えているということは、日本の医療システムの優秀さを物語ってはいないだろうか。

 この動画をアップした人のことは僕はよく知らない。しらないが、このひとの論理の組み立て方を見る限りかなりの知的水準を持った人ではないかと感じる。すくなくとも、やたらめったら恐怖をあおったり、日本を自画自賛する自慰的、自己耽溺的な人ではないと思う。

 それから、この動画をみると、日本で完治している人の数を述べている(この人は厚生労働省のデータだといっている)。
9日から13日までの間に新たにわかった感染者の数と完治された方の数がほぼ同数であるとのことだ。この動画を出した人の身元も厚生労働省のデータも僕は確かめてはいないが、これが本当だとすればやはり日本の医療システムの優秀さを示しているのではないか。

 いまはどちらかというと悲観的な報道や動画がおおくて、恐怖感にとらわれている人々も多いのではないかと思う。ただ、この二つの動画にもあるように日本や大部分の先進国では多くの場合治癒しているという事実は知っておいたほうがいいだろう。


 ただし、現在(3月20日ごろ)の世界の死者数を見ると致死率はだいたい4%台後半である。まだ感染していることがわかっていない人々を加味するとたぶん実際の致死率は1%前後(分母が増えるので)ではないか。とすると、普通のインフルエンザの致死率が約0.1%であることを考えると、コロナウイルスの致死率はインフルエンザの約10倍ということになり、先日アメリカの専門家が発表した数字とやはり一致している。

 なので、楽観視はできない。とくにハイリスク層に属している人々は用心が必要だろう。たとえ自分がこの層に属していなくても、同居している家族にこの層に属している人がいる場合は、感染しないように注意しなければならない。

 この前の世界的パンデミックが20世紀の初期にあったスペイン風邪だったので、それからちょうど100年たっている。だから現在100歳以上の人でなければこのようなパンデミックというものを経験していないので、今現在ほぼすべての人が未経験のことが起こっているわけである。 

 
 いろいろ報道されているものをみていると、イギリスのジョンソン首相の提唱した集団免疫という考え方がもっとも現実的だし、また、このウイルスの感染力の異様な強さ、速さを考えると、どんなにレストランや集会を禁止しても完全に感染の拡大を防ぐことができないのは明らで、ハーバード大学の教授が予測しているように最終的には全人類の70%は感染するだろうと僕も思う。

 だからといって放っておけということではもちろんなく、今は隔離政策によって感染のピークをできるだけ先に延ばして時間を稼いで医療崩壊を防ぎつつその間にワクチンの開発を急ぐ。このウイルスはたしかに危険なウイルスではあるが感染しても治癒する人が圧倒的に多く、またそれらの人には抗体ができるのでもう命を脅かされることはない。その事実を体感的に知る国民が増えていき人口の大多数になることによって、このウイルスに対する心理的恐怖感が薄まっていき、人々は普通の生活に「徐々に」戻っていく。

 そしてそのことでお金、人の流れも徐々に以前のように戻っていき、経済状況も改善されていく。僕はこういう過程をたどるだろう、というか、こういう過程を望むと望まざるにかかわらずたどらざるを得ないと思う。それが結果として集団免疫という呼び名で呼ばれることになるだろう。

 問題はこの過程でハイリスク層にいるひと人をどうやって守るかで、そこは国、自治体、個人が最大限の対策を打っていくほかはない。
一つ個人がやれる有効な策は、同居しているハイリスク層の家族が一人暮らしができるなら、どこかアパートでも借りてその人を一人で生活させ、一切外出もさせず他の人と接触させないという方法もありだろう。
 もちろん入居する前にその部屋を綿密に殺菌する、できれば専門の業者に殺菌してもらえれば完璧である。食料や日用必需品は家族の誰かが届けるが、渡す時も必ずマスクを着用して、絶対に直接触れないように注意すれば、感染のリスクを下げることができる。逆隔離である。


 そして……このウイルスがもたらすもうひとつの懸念点である世界経済の今後がどうなるかだ。
このような地球規模のパンデミックは100年前のスペイン風邪以来人類が経験したことがないわけだが、これがもたらすかもしれない世界的な経済不況(恐慌と呼んでもいい規模のものになるのではないかと思っている)もいまだ人類が経験したことがないものになるかもしれない。

 いうまでもないが、100年前と今では世界経済の規模とそれにかかわる人類の数が圧倒的に違う。今回のほうが圧倒的に、絶対的にそのインパクトが大きい。これからくる世界不況はいまだ人類が経験したことのない人跡未踏の領域、アンチャーテッドウォーター(海図のない航海)になるだろうとおもう。リーマンショックも第二次大戦前の世界恐慌もいわば一国の小さな領域の問題を起源として生じた、しかも、その主な原因は金融問題だった。
 ところが今回はちがう、実際の売買、お金の流通、実需がストップすることから生まれる全地球的、全世界的規模の世界不況になる。この差は大きい。

 小さい車輪は減速しても、少し力を加えればまた以前のような勢いを取り戻してすぐに回り始める。だが、その車輪が大きくなればなるほど再び回すためのエネルギーは大きなものでなければならないし、時間もかかる。今回は世界という巨大な車輪が大きく減速しているのだ。

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Canon Eos Kiss X10開封の儀とニコンへの想い

2020-03-10 03:40:25 | 写真

 

昨年買ったニコンのローンがちょうど今月で終わるので、意を決して(笑)新しいカメラを買った。
今度はCanonである。

 

 

 

機種はEos Kiss X10 Canonのカメラの中では初心者向けの一眼レフである。
腕はともかく経験の長さから言うと僕はもう初心者ではないが、どうしてこのカメラを買ったかというと、まずはデザインが気に入ったからだ。
いやデザインというよりもこの色、ホワイトが気に入った。

 

 

どうだろう、まず僕のような中年といわれる年代で、しかも男で、しかも日本人で、こういうカメラを買いたいと思う人はかなり稀なのではないだろうか。
そう、僕は変わりものなのかもしれない(笑)それは十分認識している。

 

 

 

あと、なぜいまさらエントリー機を買ったかというと、要は経済的事情である(笑)
それと軽さだ。写真を撮るときは結構歩く。そのときに重いカメラだとこれが結構こたえるのだ。
プロのカメラマンでもこのことを指摘する人は多く、僕もその例外ではない。
特に僕は肩こりがひどく、すぐに肩に鉛が入ったような感覚に苦しめられる。
そういう人間にとっては軽量のカメラはありがたい。

 

このロゴに愛着を感じる人も少なくないだろう。そう、ちょうどパソコンのappleのロゴに愛着を感じるように。

あと、これを言ったらカメラメーカーに嫌われると思うが、今のカメラはエントリー機でも風景写真を撮るだけなら、ほぼほぼ高級機と同程度の性能があるからだ。スポーツ写真や動物、子供、鉄道などの動きのある物を撮る人はやはりそれなりのカメラを買わなければいけないと思う。
ただ僕はそういう写真はほぼ撮らないのでこれで十分だと思った。
ちなみにその値段はレンズも合わせて8万円台である。

 

 

 

ストラップもつけたところ。
一つ残念なのはこの色にあうレンズ(18~55mm)がこれだけらしいのだ。
やはりこういう色のカメラを使おうとするのは僕のような変わり者だけなのだろうか、ほかのレンズはほぼ黒かキャノン独特のあの灰色というか肌色というかあのレンズだけなのだ。これが残念で仕方がない。

キャノンさんにはぜひこのカメラにあうレンズ群を作ってほしい。オーダーメイドで多少高くなってもいいから、と思っているのは実は僕だけではないのではないか。

 

 それとこれはニコンに対する僕なりの苦言なのだが、今回なぜキャノンのカメラを買ったかというと、ニコンのカメラにはエントリー機でいいものが少ないということである。そこから『僕が』感じ取れるのは、やはりニコンはわかる人だけが使ってくれればいい、やがては我々のカメラを使うようになるから、という姿勢である。

 そういう姿勢を否定するつもりはない。ないが、それはつまるところ自社のユーザーを限定していくということであろう。
レンズ交換式のカメラの場合、それぞれのメーカー独自のレンズがあって他社のレンズはアダプターを買わない限りつけられない。
それがつまりは、一度自社のカメラを買った人はずっと自社のカメラを使い続けていく傾向が強くなり、ユーザーが逃げていきずらいということで、ある意味メーカーはそれにあぐらをかいてきた面もあるのではないかと思う。

 特にニコンのような100年近い伝統があるメーカーでそのレンズ群が質、量ともに一つの資産といっていいほどのハイレベルなものを作ってきたメーカーであればよけいそう考えるのも無理はない。


 だが、だがである。それはつまるところ、ニコンも営利を追求しなければならない私企業である以上、新たなユーザーをどんどん増やさなければならないという、まぁ、資本主義の原則を無視していくことになりはしまいか。
自社のレンズしか原則的には使えないというのはたしかにユーザーの囲い込みには有利に働く。だが、同時にそれは新規のユーザーが他社のエントリー機に惹かれてそのメーカーのカメラを買ってしまった場合、逆の効果をもたらすだろう。

 そう、その新しいユーザーは当然ニコンのレンズを付けられないので(アダプターを使えばできるが、そこまでして使う人はかなり少数派であろう)そのメーカーのカメラを使い続けるだろう。ニコンさんはそこがわかっているのだろうか?と僕は思うのだ。

 キャノンはやはり新規ユーザーの獲得に力を入れてきたのだろう、エントリー機の品ぞろえは多彩である。
だからこそ、いま最もシェアの大きいメーカーはキャノンであり、それに反してニコンの営業利益が悪化しているのは広く知られている。


 確かにそういう姿勢を否定はしない。たとえば、Leicaのようにやはりわかる人が使ってくれればいい、というメーカーもあるから。
ただ、はたしてニコンにライカのようなブランド力があるのだろうか……という点で僕には不安がある。
というのも、もしそういう姿勢を貫くのならもう少しニコンにしかない個性のようなものを創造しなければならないのではないか。

 正直に言って、ニコンのカメラからはそういうものを感じないのだ。
わが社の個性はその性能である!と言いたげではある。ではその性能はそれほど傑出しているのだろうか、それほどユニークなのだろうか……

 これはニコンだけでなく、いや、カメラ業界だけでなく、車なども含めた日本の工業製品全体から感じるのだが、個性が乏しい気がするのだ。
どのメーカーもそのデザインはみんな似たり寄ったりに見える。丸っこいデザインが流行ればどのメーカーも丸っこい車を作る、カクカクした車が流行ればどのメーカーもカクカクした車を作る。ヘッドランプあたりのデザインも同様である。

 大衆車を作るメーカーならそれもいい、しかし、「わかる人だけが乗ってくれればいい」という姿勢を貫くのであれば、それではいけないのではないか、そのメーカーにしかない性能的特性(カメラであればフジフィルムなどやオリンパスなど)やデザイン上の特性(これもフジフィルムはとてもユニークだ)パソコンメーカーであればやはりアップルである。


 正直言えば、ニコンはどっちつかずなのだ。どっちつかずであるにもかかわらず、わかる人だけが使ってくれればいい、という高尚なプライドを持っておられる。
ブランド力をつけるには、ユニークでなけらばならない。ユニークであるには独自の価値観を持ちそれを貫く強さがなければならない。
あのアップル創業者、スティーブ・ジョブスがいったように、Crazy enogh to change the world. でなければならないのではないか。

 これは、空気を読むことを重視し、周りから浮き立つこと、人と違うこと、を特に嫌う文化的雰囲気の中にいる日本人には特に困難を伴うだろうとおもう。
だが、もしニコンのような姿勢を貫こうとするのであれば、それは絶対に持たなければならない。

 Leicaのように性能面では日本のカメラメーカーの後塵を拝してきたメーカーが、なぜいまだに同程度かそれ以上の性能を持つ日本製カメラの数倍の値段で売られているのか、なぜ人々が(もしかしたら日本人は特にかもしれないが)いまだにLeicaのカメラを神器のように重々しく崇め奉っているのか......
なぜ、性能面では日本車より劣る欧州製の車がいまだに高値を付けてうれているのか……

 ここのところを深く分析しないでニコンのような姿勢を貫くのは危ない、と僕は思う。
以上、ずっと愛用してきたニコンに対して辛口の苦言を呈してしまったが、それも、世界に冠たる性能を誇ってきたそしていまでも誇っているニコンに対する日本人としての思いゆえである。

Are you crazy enogh to chage the world?

スティーブ・ジョブス自身の声で語られたCM

 

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コロナウイルスについて感じること

2020-03-02 00:36:18 | 日記

 

 

 コロナウイルスに関してマスコミの報道から受ける印象じゃなく、自分が日々の生活から感じる実感的印象から感じることを書いてみたい。端的に言うと、これはやばいな、という印象だ。
 正直、僕の全人生でこれほど目に見える形で体感的にお金の流れ、人の流れが縮小していると感じたことはない。

 経済というのは政府の偉い人や、経済学者、財界の偉い人々や大企業が動かしているわけではない。経済を動かしているのは我々一般人の財布である。
その財布が開かなくなっている、お金の流れが細ってきている、ということを日々感じ始めている。
 財布が開かなくなっているということは、お金が流れなくなっているということだ。お金が流れなくなっているということは、お店や企業の売り上げが落ちているということだ。

 お店や企業の売り上げが落ちているということは、そこで働いている店員や社員の給料が落ちていく、最悪の場合解雇されていくということである。
ということは、僕らは当面必要でないものは買わなくなる。つまり、毎日の衣食住にどうしても必要のないものへの支出は控えるようになっていくということだ。

 そしてそれは結果としてさらにお店や企業の売り上げを落としていく。そしてその結果、お店や企業で働いている店員や社員(つまり我々一般人)の給料を下げ、さらに解雇される人々が増えていくということにつながっていく。そしてそれは……そう、この負の循環がスパイラル的に続いていくということになる。

 もちろんそれは国の税収も下げることになるので、それが何をもたらすかというと、インフラ整備や我々の生活に最も直結している健康保険や年金、生活保護などの社会保障費の掛け金が増額されていく可能性があるということである。
 この病気は当然、ただでさえ悪い健康保険財政を悪化させるので健康保険料の現在一般人の自己負担割合(3割)がさらに引き上げられていくか、掛け金の増額ということもあり得ないわけではないだろう。

 そこまで心配しなければならないほど、体感的なお金の流れが細くなっているということを日々の生活(おもに仕事)の中で感じ始めている。
繰り返すがこんなことは僕の人生の中でも初めての経験である。

 

 そして、もうひとつこの病気から感じることはその感染力の強さとその広がっていくの面積の大きさである。SARSの時もこれほどではなかった。
みんな感染を少しでも予防しようと躍起になってマスクを買おうとしているが、僕が集めた様々な情報では、この病気の予防という点ではマスクはほぼ効果はないという印象だ。ほんとに気休めであろう。電車や混雑している場所で咳をすることによる他者の視線が嫌なのでマスクをしておいたほうがいい、という程度の感覚しかない。 

 この動画(ぬいぐるみなどをかぶっておふざけ調の感じがあるが、言っていることはすべて学術文献や信用できる筋の報道をもとにしていて、かなりの説得力を僕は感じている)の3分45秒あたりからハーバード大学の教授が予測していることとして、来年までに世界人口の70%が感染しているだろうというものは、いまの感染力の強さとその広がりの大きさを思うとまったくもってこの予測は妥当だと感じる。

 僕に関して言えば、「この教授の予測を知る前から」感染をほぼ覚悟しはじめている。
というのも、もうすでに海外渡航歴のない一般人の感染が出ているということは、普通に街中での感染が起こっているということだ。
ということは、マスクも効果がないし、生活のために混雑した電車を使ったり、混雑する雑踏に出ることなどが避けられない以上、ほぼ感染は避けられないと腹をくくっている。

 なので、ここで大事なことはとにかく体の免疫力を高めていくということであろう。
ワクチンが開発されるまではこれしかない。
 このことからおもうのは、やはり、普段から食生活、生活習慣に気を使って生きていくということがどれだけ大切かということだ。 

 なぜなら、癌なども含めてほぼすべての慢性病は普段の食生活、生活習慣の数年、数十年の継続的蓄積から生まれるからだ。否定する人もいるかもしれないが、これが今まで僕が自分で調べてきたことから演繹的に類推できる結論である。
 今回のコロナウイルスだけでなく、これからもこういう現代医学では決定的な対策の打ちようがない病気というのはつぎつぎと生まれてくるだろう。そのときに、普段から健康に気を使いながら生きていくことがどれほど大切かいまほど痛切に思い知らされているときはない。 

 僕が健康に気を使っているということを知った同僚などから、そんなに長生きしたいの?と皮肉を込めて言われる時がある。
僕は長生きをしたいというよりは、病気をしたくない、病苦を味わいたくないんですと答えているが、そういう人が言う共通のことは、そんなにまでして生きたくないということだ。

 もちろんそれはそれでいい、人の生き方考え方はその人の自由だから。ただ、そういう人も自分が本当に慢性的な病苦を味わった時に、同じことを言えるのかということである。ちょっとした自己規律、精神的な自己規律が維持できなかったために、本当に苦しい病苦とその先にある死の不安をずっと抱えたまま生きていきたいと思うのか、ということである。

 ただ、やはりこのような議論をしても仕方がないということもわかっている。
そのような自己規律を維持していくことに対する耐性、食べたいものや継続したい生活習慣がたとえ健康に悪いことがわかっていても、それを継続的に抑制するということに対する耐性や、それ(健康に悪いもの(こと)を食べたり行ったりすること)を継続することから生ずる満足感の大きさ、程度は人それぞれ違うからだ。

 その両者をはかりにかけ、傾いたほうの生き方をそれぞれが続けていくしかないし、その自由は当然ある。

 話を元に戻すと、この病気の影響は結構大きなものになるというのが僕が今体感的実感的に感じていることである。たぶん、後世歴史的にコロナ恐慌などというような命名をされるほどの甚大な経済的ダメージを残すのではないかと心配している。
 この影響から回復するのは、このウイルスに対する有効なワクチンが開発された時か、人々がこのウイルスに『なれはじめた』時だろうと思う。というのは、経済というものをその底辺で動かしているのは人間の心理だからだ。そしてそれはまだ先のことで、たぶん来年以降のことになるだろうと僕は感じる。
 

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