「自分はだれなのか?」
誰でもこう自問自答したことのないものはいないに違いない。
英語でElusiveという言葉があるが、つかみどころのない、とりとめのない、とかいう意味である。
この問いを思うたびに、日本語のどのことばよりもこの英語のElusiveという言葉が浮かんでくる。
自分はだれなのか?真実の答えとそれを見ている自分との間には、まるで万華鏡のように自我が生み出す様々な屈折レンズがあって、到底「真実の自分」(もし理性的に定義できる『真実の自分』というものがあるとして)を〈正確に〉見ることはできない。
こうであると信じている〈自分〉、こうであってほしいと無意識に思っている〈自分〉、それらの願望を正当化するために無意識のうちに作り出している様々な屈折レンズ。
ましてや、他人が見る自分にはさらにその他人の自我が生み出す様々な屈折レンズが置いてあり、さらに複雑な〈自分の〉姿を映し出す。
そしてその「他人が見る自分」を[自分が]正確にみることはさらに難しい、何故なら、他人が置いた屈折レンズと自分がその他人との間に置いた屈折レンズの両方が、さらに複雑怪奇な〈自分の〉姿を映し出すからだ……
この問いを画家として生涯にわたって問い続けたのが、自画像の画家といわれるレンブラントであり、また、キュビズムをおしすすめたピカソやブラックだった。
そう、この冒頭の写真を撮ったヴィヴィアン・マイヤーも、写真の世界のレンブラントであり、ピカソだといえるかもしれない。
この人の職業はNannyで、母親に代わって住み込みで子育てをする人だったらしい。
2009年に亡くなるまで全くの無名の人で、死後、彼女の写真がたくさん入っている個人の貸倉庫のなかみが売りに出され、それを買った人がネット上に掲載した。
それが芸術的価値のある写真として評価されるようになり、たちまち、海外でも個展が開かれるほどの知名度の高い「写真家」として知られるようになった。
貸倉庫から競売に出された彼女の写真を買い取ってネットに掲載した人物のインタビューで、ネットにのせてしばらくたって後、電話かメールか忘れたが、あるたしか大学の先生か誰か?から連絡があり、これらの写真はとても「重要だ」といわれたという。
それでこの買い取った人は、これは金になるかも!と思ったらしい。
ここで思うのは、全く無名の人物が撮った写真を無名の人物が掲載したネット上で見つけ、しかも、その写真に高い芸術的な価値があると見抜く『一定の層』がアメリカにはいるということ、このことの凄さである。あらためてこの国の文化的、知的階層というものが侮りがたく厚いものであることを僕は感じる。
彼女の写真には異例といっていいほど、Self Portrait自画像が多い。
これほど自分を内省し続けた写真家は他にいないのではないか。
この映像を参照
額縁のついた鏡に移った自分をまるで絵画の自画像のように見せる写真(13分23秒)(14分23秒)、Heaven can wait『天国は待ってくれる』と題された映画の広告写真の中に映った自分を意味ありげにとった写真(13分13秒)。
僕はこれらの写真を見て、なるほど、全くの無名のひとが死後たちまち評価されるだけのことはあると思った。
自分のなかの光と影、明と暗、善と悪、一つの宇宙といってもいいほどの複雑なもの、それを冒頭の一枚でズバッと切り抜いている。この写真のバックに写っている建物が教会らしきものであることも何か示唆的である。
この写真などを見ると、Nanny 乳母、家政婦、という職業から連想される低学歴で非知的な人、という一般にあるステレオタイプ、偏見を完全にぶち破っている。
相当の知性を持った人、僕がこの写真を見て抱いた第一印象だ。
この映像の9分52秒のあたりから始まるSelf Portraitの数々をみて、僕はうなった。
この映像ではあまりにも速く写真が移り変わっていくが、その大部分の写真は非常に意味深く、むしろこの半分以下の速度で見なければいけないほどである。
映像を見終わって思うのは、この人の真価はポートレート写真にあるということ。
アメリカはシカゴの様々な社会階層、職業、にある人々の写真。そのどれも様々なことを連想させる。顔は履歴書、を証明するような写真。
しかし、おもうのは、これほど他人に肉薄してカメラを向けて写真を撮った彼女の豪胆さである。
ふつう、これほど肉薄するとなんらかのトラブルが起こるだろう。今よく言われる肖像権などお構いなしである。
彼女が女性であったこと、そのパーソナリティーに人の心に自然に入っていける何かを持っていたのかもしれない。
そしてこれはある写真家が指摘していることだが、彼女が使っていたカメラは写す人が下を向いたままカメラを構えてシャッタを押すので、写されているほうはとられているという意識があまりなかったこともあるのではないか。
あとは、これはもうアメリカ人特有の国民性だろう、他人に対してオープンな気質。
これらの幸運が重なってあのような人間に肉薄する写真が取れたのだろうと思う。
いずれにしても、とても興味深い写真家である。