気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

玉になるために

2018-07-23 08:26:28 | 音楽
Zhu Xiao-Mei - Mozart (adagio concerto N°23) - La Roque d'Antheron - 05/08/2011



 職場で偶然、同じ信仰を持つ人を見つけた。
それが分かった時にお互いに腹の底から驚いた。
 むろん、確率的にはだいたい日本人の100~150人に一人は僕が信仰する神を信じている計算になるので、まったくあり得ないことではないのだが、それでもやはり高い確率とは言えないので、驚きを隠せなかった。

 昨日彼が参拝に一緒に行こうというので、彼の運転する車で送っていただいた。
途中様々な話をした。その間に僕は彼という人がどういう人か知りたいと思っていた。
 そこで感じたとことは、誠実さだった。

 特に、僕は最近今まで近しい友と思っていた人々の不誠実な態度に心底落胆していたからだ。
何が不誠実かというと、とにかく簡単にうそをつくのだ。自分をその人が自分をこう見せたいと思う姿に虚飾するためにいとも簡単にうそをつく、まるで普段着とよそ行きの服を着替えるように。

 あるいは、自分が常に正しいとその人自身も固く信じて疑わないために、不思議なことに「その人自身も気づかないうちに」うそをついているのだ。僕はこの種のうそに遭遇したことが以前にも数回あるので、ひどく驚くことはなかったが、人間の自己正当化欲というものの強さというのはある種の人々の間では非常に強く、自分でも自覚しない状態でうそをつくこともある。言い換えれば、自分でも自分をだましているということになる。

 そういうものに最近辟易としていたところに、この同じ信仰を持つ友の誠実さを感じた今、なにか汚れた心をきれいな水で洗い流してもらったような気持ちになっている。


 さて、話は変わって、上にアップした演奏である。
Zhu Xiao-Mei中国語の発音はズーシャオメイという風に聞こえるが、僕が最近発見した演奏家の中で特に僕の気を引く人である。
今話は変わってと書いたが、実は上述した「誠実さ」と深くリンクしている。

 この動画の曲は有名なモーツアルトの曲だが、あまりにも有名であまりにも何度も何度も聴いてきたために、僕などはあまりにも「さりげなく」聴いてきた。
これはこの曲に限らず、どの曲、いや、どの芸術作品に対しても起こりがちなことなのだが、やはり慣れというものの怖さだろう。
 グールドはこれが嫌で、32歳の時に一切のコンサート活動をやめた。その後彼は収入が激減してしばらくの間経済的に困ったらしいが、僕はここにグールドという人の誠実さを見る思いがする。

 このZhu Xiao-Meiの演奏を見ておもうのは、この人がいかに深くこの曲から感じているかということだ。
非常に名の知れた力のあるプロのピアニストでさえ、あまりにも同じ曲を何度も何度も弾いているために慣れてしまい『感じなくなっている』ような人もいる。
それはその人の表情や弾き方である程度分かる。

 繰り返しになるが、グールドはそれを恐れて(彼はそれを「非創造的な営み」といって忌避した)さまざまな不利益を承知の上で一切のコンサートを放棄した。
この演奏中の彼女を見、そして聴いていると、この曲の本当の価値というものを彼女が改めて教えてくれるのを感じる。「ちょっとまって、これはそんなに簡単に聞き流してはいけないのよ」あたかもそういわれているようだ。
 僕はここにも彼女の誠実さを見る。

 この人のほかの映像みているうちに、この人が大変な激動の人生を生きてきた人であることが分かってきた。
一切の知的活動(芸術活動も含む)が否定されたあの文化大革命の激流に翻弄された過去があり、その後フランスに亡命した人であることなどだ。
この動画の中で、彼女の音楽の先生がその時期に自らの命を絶ってるということも知った。文化大革命期にはこのような悲劇が数多くあったということは僕も知っている。

 この映像の冒頭に流れるバッハのゴールドベルグ変奏曲のアリアの部分には、深く深く引き込まれる…
ナレーションが入ってくるのが残念だが、一音、一音の響きの美しさ、その音と音の間から拡がっていく余韻がつくりあげる聖なる廟堂、そして「神」をも思わせる純度の高さ……

 僕は彼女の演奏を聴いて、どの芸術作品の創造でもそうだが、それを創造・表現する人のたどった人生によって、同じ作品であってもその作品の『容姿』というものが非常に変わってくるということを、あらためて思い知った。


 

 
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思念の流れ

2018-07-02 21:47:00 | 文学



 『昨日も秋にはときどきある、朝もひるもずうつと夕暮れのやうな空模様のまま夜になるとしぐれが来ましたが、まだ東京近くでは木の葉の散るしぐれやまがうころではないと知りながら、私は落ち葉の音もまじっているやうに聞えてなりません。しぐれは私を古い日本の悲しみに引き入れるものですから、逆にそれをまぎらはそうと、しぐれの詩人と言われる宗祇の連歌など拾ひ読みしてをりますうちにも、やはりときどき落ち葉の音が聞えます。

 葉の落ちるには早いし、また考へてみますと私の書斎の屋根に葉の落ちる木はないのであります。してみると落ち葉の音は幻の音でありませうか。私は薄気味悪くなりましてじっと耳をすましてみますと落葉の音は聞えません。ところがぼんやり読んでをりますとまた落葉の音が聞えます。私は寒気がしました。この幻の落ち葉の音は私の遠い過去からでも聞えて来るやうに思ったからでありました。』


                                          
  これは川端康成の「しぐれ」という作品の中の一節である。
僕などが百万言弄するよりも三島由紀夫が的確な感想を彼の「文章読本」に残しているのでそれを載せてみたい。


『このさりげない詠嘆の中に、作者は文章を鴎外のやうにも、また鏡花のやうにも使はず、極度に明晰に物体を指示するのでもなく、また自分の感覚を、いろいろな修飾語で飾り立てるのでもなく、ただ淡々と情念の流れを述べながら、その底に深い抒情的悲しみや、鬼気をひそませています。
 川端氏がこのやうな文体に達したのは『雪国』以後のことでありますが、氏の文章はますます小説的でなくなりながら、ますます作品としては傑作を生みだしていくといふ、不思議な傾向をたどっています。』



 ここで僕が三島に深く共鳴するのは「ただ淡々と情念の流れを述べながら、その底に深い抒情的悲しみや、鬼気をひそませています。」という部分だ。
日本語の伝統の中では大雑把に分けると、文章を短くきることによって文章と文章の空白に余韻を残す名文と、この川端の文章のように、文章を巧みにつなげることによって情念、思念の「流れ」のようなものを生み出し、あたかも山深きところを流れる清流のような動的な美しさを生み出す名文があるように思う。

 前者の例が夏目漱石や志賀直哉、そして森鴎外などもこの範疇に入るだろう、一方後者の代表的な例がこの川端康成だと思う。
日本ではやはり俳句や和歌の伝統があるせいだと思うが、前者の文章のほうが評価が高いような気がする。漱石や鴎外の評価はまるで神様のような扱いだし、志賀直哉なども小説の神様などといわれた。

 僕もそういう日本の伝統的な「好み」はよくわかる。漱石や志賀直哉の文章などのもつ「余韻」、簡素な表現のなかに表わされた深淵との対比には今でもほれぼれとする。だがである、だが、もし誰か一人をとれといわれたら数秒迷って川端康成を僕はとる。
 とにかくこの「思念、情念の流れ」というものに僕はどうしようもなく魅惑されるのだ。

 山登りをしていて深い林の中をあるいていると、どこからともなくかすかにサラサラと水の流れる音が聞こえる。
どこかと思い音のするほうに歩いていくと、深い草叢の下に実に美しい清流が流れていた……
 一言で川端の文章の印象を現すとこういう感じだろうか。

 そして、三島が「深い抒情的悲しみ」や「鬼気」と表現したものも感じ取れるだろうか。
僕はこれらも川端の文章のもつ独特のあじわい(そう表現するのはためらわれるが…)だと感じる。
 この「ところがぼんやり読んでおりますとまた落葉の音が聞えます。私は寒気がしました。この幻の落ち葉の音は私の遠い過去からでも聞えて来るやうに思ったからでもありました。」という言葉に、まさに三島が言った「深い抒情的悲しみ」「鬼気」というものがにじみ出ている。

 三島は(意識的にか無意識的にか)それ以上ここでは語ってないが、僕は実はこの一節の中に川端康成という人のなにがしかというものがあますところなくあらわされていると思えてならない。
 いずれにしても、悲しみや鬼気、というものをこれほどまでにうつくしく高めた作家は川端以外にはいないのではないだろうか。 
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