Zhu Xiao-Mei - Mozart (adagio concerto N°23) - La Roque d'Antheron - 05/08/2011
職場で偶然、同じ信仰を持つ人を見つけた。
それが分かった時にお互いに腹の底から驚いた。
むろん、確率的にはだいたい日本人の100~150人に一人は僕が信仰する神を信じている計算になるので、まったくあり得ないことではないのだが、それでもやはり高い確率とは言えないので、驚きを隠せなかった。
昨日彼が参拝に一緒に行こうというので、彼の運転する車で送っていただいた。
途中様々な話をした。その間に僕は彼という人がどういう人か知りたいと思っていた。
そこで感じたとことは、誠実さだった。
特に、僕は最近今まで近しい友と思っていた人々の不誠実な態度に心底落胆していたからだ。
何が不誠実かというと、とにかく簡単にうそをつくのだ。自分をその人が自分をこう見せたいと思う姿に虚飾するためにいとも簡単にうそをつく、まるで普段着とよそ行きの服を着替えるように。
あるいは、自分が常に正しいとその人自身も固く信じて疑わないために、不思議なことに「その人自身も気づかないうちに」うそをついているのだ。僕はこの種のうそに遭遇したことが以前にも数回あるので、ひどく驚くことはなかったが、人間の自己正当化欲というものの強さというのはある種の人々の間では非常に強く、自分でも自覚しない状態でうそをつくこともある。言い換えれば、自分でも自分をだましているということになる。
そういうものに最近辟易としていたところに、この同じ信仰を持つ友の誠実さを感じた今、なにか汚れた心をきれいな水で洗い流してもらったような気持ちになっている。
さて、話は変わって、上にアップした演奏である。
Zhu Xiao-Mei中国語の発音はズーシャオメイという風に聞こえるが、僕が最近発見した演奏家の中で特に僕の気を引く人である。
今話は変わってと書いたが、実は上述した「誠実さ」と深くリンクしている。
この動画の曲は有名なモーツアルトの曲だが、あまりにも有名であまりにも何度も何度も聴いてきたために、僕などはあまりにも「さりげなく」聴いてきた。
これはこの曲に限らず、どの曲、いや、どの芸術作品に対しても起こりがちなことなのだが、やはり慣れというものの怖さだろう。
グールドはこれが嫌で、32歳の時に一切のコンサート活動をやめた。その後彼は収入が激減してしばらくの間経済的に困ったらしいが、僕はここにグールドという人の誠実さを見る思いがする。
このZhu Xiao-Meiの演奏を見ておもうのは、この人がいかに深くこの曲から感じているかということだ。
非常に名の知れた力のあるプロのピアニストでさえ、あまりにも同じ曲を何度も何度も弾いているために慣れてしまい『感じなくなっている』ような人もいる。
それはその人の表情や弾き方である程度分かる。
繰り返しになるが、グールドはそれを恐れて(彼はそれを「非創造的な営み」といって忌避した)さまざまな不利益を承知の上で一切のコンサートを放棄した。
この演奏中の彼女を見、そして聴いていると、この曲の本当の価値というものを彼女が改めて教えてくれるのを感じる。「ちょっとまって、これはそんなに簡単に聞き流してはいけないのよ」あたかもそういわれているようだ。
僕はここにも彼女の誠実さを見る。
この人のほかの映像みているうちに、この人が大変な激動の人生を生きてきた人であることが分かってきた。
一切の知的活動(芸術活動も含む)が否定されたあの文化大革命の激流に翻弄された過去があり、その後フランスに亡命した人であることなどだ。
この動画の中で、彼女の音楽の先生がその時期に自らの命を絶ってるということも知った。文化大革命期にはこのような悲劇が数多くあったということは僕も知っている。
この映像の冒頭に流れるバッハのゴールドベルグ変奏曲のアリアの部分には、深く深く引き込まれる…
ナレーションが入ってくるのが残念だが、一音、一音の響きの美しさ、その音と音の間から拡がっていく余韻がつくりあげる聖なる廟堂、そして「神」をも思わせる純度の高さ……
僕は彼女の演奏を聴いて、どの芸術作品の創造でもそうだが、それを創造・表現する人のたどった人生によって、同じ作品であってもその作品の『容姿』というものが非常に変わってくるということを、あらためて思い知った。
職場で偶然、同じ信仰を持つ人を見つけた。
それが分かった時にお互いに腹の底から驚いた。
むろん、確率的にはだいたい日本人の100~150人に一人は僕が信仰する神を信じている計算になるので、まったくあり得ないことではないのだが、それでもやはり高い確率とは言えないので、驚きを隠せなかった。
昨日彼が参拝に一緒に行こうというので、彼の運転する車で送っていただいた。
途中様々な話をした。その間に僕は彼という人がどういう人か知りたいと思っていた。
そこで感じたとことは、誠実さだった。
特に、僕は最近今まで近しい友と思っていた人々の不誠実な態度に心底落胆していたからだ。
何が不誠実かというと、とにかく簡単にうそをつくのだ。自分をその人が自分をこう見せたいと思う姿に虚飾するためにいとも簡単にうそをつく、まるで普段着とよそ行きの服を着替えるように。
あるいは、自分が常に正しいとその人自身も固く信じて疑わないために、不思議なことに「その人自身も気づかないうちに」うそをついているのだ。僕はこの種のうそに遭遇したことが以前にも数回あるので、ひどく驚くことはなかったが、人間の自己正当化欲というものの強さというのはある種の人々の間では非常に強く、自分でも自覚しない状態でうそをつくこともある。言い換えれば、自分でも自分をだましているということになる。
そういうものに最近辟易としていたところに、この同じ信仰を持つ友の誠実さを感じた今、なにか汚れた心をきれいな水で洗い流してもらったような気持ちになっている。
さて、話は変わって、上にアップした演奏である。
Zhu Xiao-Mei中国語の発音はズーシャオメイという風に聞こえるが、僕が最近発見した演奏家の中で特に僕の気を引く人である。
今話は変わってと書いたが、実は上述した「誠実さ」と深くリンクしている。
この動画の曲は有名なモーツアルトの曲だが、あまりにも有名であまりにも何度も何度も聴いてきたために、僕などはあまりにも「さりげなく」聴いてきた。
これはこの曲に限らず、どの曲、いや、どの芸術作品に対しても起こりがちなことなのだが、やはり慣れというものの怖さだろう。
グールドはこれが嫌で、32歳の時に一切のコンサート活動をやめた。その後彼は収入が激減してしばらくの間経済的に困ったらしいが、僕はここにグールドという人の誠実さを見る思いがする。
このZhu Xiao-Meiの演奏を見ておもうのは、この人がいかに深くこの曲から感じているかということだ。
非常に名の知れた力のあるプロのピアニストでさえ、あまりにも同じ曲を何度も何度も弾いているために慣れてしまい『感じなくなっている』ような人もいる。
それはその人の表情や弾き方である程度分かる。
繰り返しになるが、グールドはそれを恐れて(彼はそれを「非創造的な営み」といって忌避した)さまざまな不利益を承知の上で一切のコンサートを放棄した。
この演奏中の彼女を見、そして聴いていると、この曲の本当の価値というものを彼女が改めて教えてくれるのを感じる。「ちょっとまって、これはそんなに簡単に聞き流してはいけないのよ」あたかもそういわれているようだ。
僕はここにも彼女の誠実さを見る。
この人のほかの映像みているうちに、この人が大変な激動の人生を生きてきた人であることが分かってきた。
一切の知的活動(芸術活動も含む)が否定されたあの文化大革命の激流に翻弄された過去があり、その後フランスに亡命した人であることなどだ。
この動画の中で、彼女の音楽の先生がその時期に自らの命を絶ってるということも知った。文化大革命期にはこのような悲劇が数多くあったということは僕も知っている。
この映像の冒頭に流れるバッハのゴールドベルグ変奏曲のアリアの部分には、深く深く引き込まれる…
ナレーションが入ってくるのが残念だが、一音、一音の響きの美しさ、その音と音の間から拡がっていく余韻がつくりあげる聖なる廟堂、そして「神」をも思わせる純度の高さ……
僕は彼女の演奏を聴いて、どの芸術作品の創造でもそうだが、それを創造・表現する人のたどった人生によって、同じ作品であってもその作品の『容姿』というものが非常に変わってくるということを、あらためて思い知った。