そこで尊師は修行僧たちに告げた。
『さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、《もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい》と。
これが修行を続けてきた者の最後の言葉であった。
大パリニッバーナ経 「ブッダ最後の旅」岩波文庫 中村 元 訳 168P
今日は僕の信仰する教会で年に1回行う行事の日だった。
この場所は神奈川県湯河原の高台にあり、そこからの景色が素晴らしく、僕はこの景色を見るために晴れの日を選んでいくことにしている。
さて、行事を終えた後、山の上から相模灘の絶景を眺めながら、去年のこの日のことを思い出した。
すぐ心に去来したのは、あぁ、もうあれから1年がたったのか…ということだった。
早い、早すぎる。
そういう感慨にふけっているとき、胸をよぎったのが冒頭のブッダの言葉だ。
この言葉はブッダがもうまもなく入滅するというときに弟子に告げた言葉である。
『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい。』
僕はこの言葉をどうしても原文に触れたい、原文から感じ取りたい、原文のパーリ語(インドの古語)でぜひ読んでみたいとおもう。
このことだけではない、僕は最近過去のことをよく思い出す。それも非常にセンチメンタルに。つらいというよりも、何か甘い味わいを伴って。
面白いことに…その間はとても幸福なのだ。
そして、不謹慎というそしりを受けるかもしれないが、僕は仕事中にも自分の人生を回顧することが最近多い。
自分は何のために生まれてきたのか、はたしてその目的に向かって正しく進んできたのか?
などと自問しているのだ。もちろん周りの同僚たちは僕がそんなことを考えているなどとはみじんも思っていないに違いない。
僕はよくよく自分は気質的に「修行僧」的な人間なのだなと思うのだ。
どうでもいいことかもしれないが、去年一日1.5食をストイックに実践して激やせし、体重が40kg台後半まで行き、まわりからはあの人はもう長くないとささやかれていたときに、同僚から(この同僚の過去は全くわからないのだが、会話の端からきらりと尋常ならぬ知力の閃光を感じたことがある、そういう人)まるで修行僧のようですね、と言われたことがあり、僕はその時なぜかうれしかったのを覚えている。
それはまぁいいとして、僕が常に自問している問い「果たして僕はこの人生で目的を果たしつつあるのか?」ということが今日も僕の胸に去来した。
答えは…YesでもありNo not yetでもある。
ただ、ひとつだけいえることは、過去からの長い時間の流れの中で自らの変遷を見ると、やはりぼくはあきらかに成長しているであろう、ということ。
ただし、自分の理想とは裏腹にそのスピードは遅い、じれったくなるほど遅い。
いったい何十年かければ気が済むのだ、と自分に詰問したくなるほど。
このままではこの人生が終わってしまうではないか、と思うのだ。
焦りがあるのだ。
自分はもうこの年になった、にもかかわらず、まだここまでしか来ていない…
器とはいえ、はがゆいのだ。
自分の信仰に出会ったおかげで、たしかに成長の速度は速くなった、格段に、段違いである。それはもうはっきりしている。
だがそれはまだまだ僕が望む結果ではない。
僕は望みすぎなのか、過去の僕の人間性、人格を思えば、ここまでこれただけでも幸運だった、と言われると、確かにそうかもしれないと思う。
僕が望む進化は、もしかすると一人の人間が1回の人生だけでは到達できないものなのかもしれない。
ただし、僕には責任がある、自己改革を続けていく責任が。たとえ余命があまり残っていないという事態になったとしても、一刻一刻、瞬間瞬間、自己改革を続けていかなければならない。
良心というものがあるなら、そこから目を離してはいけない。
僕が今生において、この神に出会ったのも、きっとそのためだろうと思う。
もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい。と