気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

日常の事

2015-10-16 23:35:37 | 日記
 今日は犬のワクチンを打ちに動物病院に行った。
その帰りのバスの中で奇妙なことがあった。

 席が空いたので座ると、後ろの席に座っていた初老のご婦人が「あら、ひさしぶりね!」といって僕に話しかけた。
あれ、誰か知っている人かな、と思って彼女の顔を見ると…全く知らない人である…

 すると「ひょんなところであうものね」といってきた。
僕はもう一度覚えがないかどうか彼女のかをを見たが、やはりまったく見覚えがない。

 …もしかして認知症かな、この人、と思った。
僕はどうしていいのかわからなかったが、バスを降りるまでずっと沈黙していた。
 降りるとき、彼女は僕を知人か何かだと思っているはずなので、さすがに黙って降りるのはかわいそうだと思い軽く会釈をして降りた。

 しかしだ、もしおかしいのは彼女ではなくて、僕だったら…という考えがふとよぎった。
つまり、彼女は本当に僕の知り合いで、僕の記憶がそれをどうしても思い出せないのだとしたら、という事である。
もしそうだとすれば認知症は僕のほうだと云う事になる。
若年性アルツハイマーは40代ぐらいから発症することもあるという。

 彼女の世界では完璧な整合性を保っていて、その中では僕は彼女の知り合いか何かである、そしてそれが彼女の「真実」である。
一方、僕の世界では彼女は全くの見ず知らずの他人であり、僕の見解では認知症か何かになっている人であり、それが僕の「真実」である。
はたしてそのどちらが「真実」なのか…よく考えてみたらそこにはそれを証明する確固とした証拠がないと云う事に気づいた。

 僕の記憶が部分的に喪失している可能性もあるし、彼女が認知症である可能性も「同等に」あるのである。
いったい彼女の中では僕は「誰」だったのだろう。彼女の人生の中でどんな役回りを演じたのだろう。
 そしてそれがほんとうに真実だったとしたら…

 話は変わって、例の30代のホームレスだがあれからよく街で見かける。
完璧にご近所さんになった。ものすごい重い荷物を両手に持ちながら歩いているので、まだ相当の体力は残っていそうだ。
なんで働かないのかな、と思うが、いろいろと事情があるのだろう。

 できれば仲良くなって、どうやって食料などを手に入れているのか聞いてみたいなどと思っているのだが、そんな勇気は沸いてきそうもない。
ホームレスの人も決して無職などではなく、ちゃんと仕事を持っている人もいる。缶を集めたりしてそれを売っているのだそうだ。
よく電車の網棚に置いてある漫画や雑誌などを、必死の形相で集めている人もいるが、あれなどもホームレスかそれに近い人なのかもしれない。

 その気になれば生きる方法はいくらでもあるのだろう。
数日前など犬の散歩をしていたら、腰が30度ぐらい曲がっていてその状態でよぼよぼと歩く老人がいたのだが、なんとその老人がチラシをポストに入れる仕事をしていたのだ。
正直あれには驚いた。

 あれほどの体になったら楽に生活保護をもらえるだろうと思うのだが、もしかしたらプライドが許さないのかもしれない。
プライドがあって生活保護を断る人もいるという話は聞いている。僕はなんか背筋が伸びる思いがした。
 あの老人の背中はそのままで無言の教えだった。生きるということはこういう事なんだと云う事の。

 戦後日本では年金制度が整備されて、老後は何もしなくても食べていけるようになった。
そしてそれがいつしか「当たり前の権利」になった。
 しかしいま、少子高齢化、終身雇用の崩壊が進んだことによってそれが当たり前ではなくなってきた。

 そんななか途方に暮れている、という人も多いに違いない。
今まで大船に乗っていて、急にタグボートぐらいの小さな船に乗り移ったようなものだから不安になるのも無理はない。
 しかし、こういう年金制度が整う前は、家族に養ってもらえない老人は皆ああだったのだ。

 知力、体力の許す限り働く、そして体が動かなくなったら…あの世に行くまでである。
動物はみんなそうである。そして人間も動物なのである。
 それなのに、動物たちは明日を思いわずらわない。「今」にすべてを集約している。そこには恐怖や不安などはない。

 人は皆泣きながら生まれてくる、その後の人生がいかに大変か、困難に満ちているか本能で知っているからだ。そして生まれてきた以上、最後まで知力体力の限りを尽くしていききる。怖がっている暇などない、そんなことは暇人のすることだ、あの老人の背中は僕にそう教えてくれていたような気がする。

 

 
 

 
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犬と暮らして

2015-10-03 14:25:04 | 日記

犬と暮らしていると思うこと感じることがいろいろある。
いつもながら思うのは、犬の気持ちは常に飼い主とともにあるということ。

 それはうれしいのだが、同時に怖くもある。
なぜなら、それだけ犬の幸不幸の責任がすべて自分にかかっているということに、いまさらながら気づかされるからだ。

 僕が家にいるときは、ほぼずっとといっていいほど僕のそばにいて膝の上に乗るか、そうでないときは体の一部を常に僕に触れていようとする。
僕が疲れて横になっていても、僕の腕を枕にしたり、必ず添い寝をして自分の背中を僕にくっつけてくる。

 椅子に座って食事をしているときは、椅子のすぐ下に座るか腹ばいになっている。
犬が好きな人にとってはそれがうれしいのだが、同時に、もし自分がいなくなったらどうするのだろう…とおもうと、怖くなるのだ。

 特につらいのが、家を出かけるときである。
腹ばいになって頭を床につけじっと僕を見る。これは、寂しい、おいていかないで、という犬のポーズだと僕は解釈している。
普段どれだけ僕にべったりなのかわかっているので、このときが一番つらい。

 そういうことを思うとき、飼い主に捨てられた犬はどれだけつらいか…その現実の残酷さは想像を越えている。
だからもし、今の子と別れる時が来た後、別の子を迎えるときはペットショップで買ってくるのではなく、捨てられた犬を引き取ろう…と思っている。

 犬というのはやはり高い知能を持っているので、なにもいわなくても感情が目の色に現れるし、様々なポーズでその時の気持ちを表現する。人間と全く同じである。
そういう動物と暮らしてるとやはり、特別な絆が生まれる。

 犬や猫だけが自分とこの世を結びつける絆となっている人も少なくはないに違いない。
どんなに追い詰められても死ねないと思う、この子をみとるまでは。この飼い主に対する犬の思いの強さというものを思うとき、一人残していくわけにはいかないと思う。
 
 子犬のころの愛くるしさ、成長していく姿を見るときの驚きと喜び、そして、中年から老年、そして…最後の別れのおそらくは耐え難いと思うほどの悲しみ、これらをすべて自分の胸で受け止めてこそ、飼い主として、いや、この世の同伴者として、責任を全うしたといえるのだ

 人間の夫婦でさえ、一生涯一緒にいるとは限らない。相手に耐えられないという限界が来て、現実に分かれてしまうこともある。現在その離婚率は3組に1組らしい。
しかし、飼い主と犬、猫だけは、生涯連れ添う。
 仮にどうしてもやむを得ない理由で別れなければならなくなったとしても、心ある飼い主であれば、必ず次の引き取り先を探してから分かれるだろう。

 そして、別れた後も、その子のことはずっと思い続けるに違いない。
そういうことを思うとき、犬というのはなんと人間にとって特別な存在であるか…と思わざるを得ない。

 自分のたった一つのしぐさ、声色、態度、そのすべてにどれだけ強い影響を受けているか。
依存度が強ければ強いほど、それに応じて影響もつよくなるはずだ。そのことを片時も忘れてはいけない。

 また、いつも思うのは、犬の寿命である。
当然ながら飼い主よりも短いのが普通だ。通常、人間の4分の1、ということは、犬にとっての1日は人間にとっては4日の価値を持つ。
 今日ぐらいいいや、明日に伸ばそう、と思うときがよくあるし実際雨の降っているときの散歩はおっくうで、伸ばしてしまうときもある。
でも、そんなとき、あぁ、俺にとってはたった1日だけど、この子にとっては4日分の楽しみを奪ったのだな、と思わなければならない…

 ぼくが引退した盲導犬のチャリティーコンサートに毎年出かけるのは、犬に対するこの思い入れがあるからである。
「犬のチャリティーに金を使うぐらいなら、人間に使いたい」と友達に言われたこともあるが、僕から言わせると(人間様には大変申し訳ないが)「人間に使うくらいなら犬に使いたい」(失礼)と思うのだ。
ただそうはいっても、人間のほうに対する献金もちゃんと毎月してはいる。

 人間はどんなに立派な医者でも、看護師でも、ヘルパーさんでも、無償では何もしないだろう。やっている間に無償でもいい、と思うほどの愛が通うことがあるにしても。
親や夫、妻を介護している配偶者や子供でさえ、そのうちの何十%かは虐待をしているという統計もある。
 ところが犬は、犬が人間に与える『想い』は、無償の思いである。何の見返りも期待しない『想い』である。そこになんの残酷さも、冷酷さもない。
これに報いるに、やはり犬に対する思い入れのほうが強くなるのは、少なくとも僕にとっては当たり前である。

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