その帰りのバスの中で奇妙なことがあった。
席が空いたので座ると、後ろの席に座っていた初老のご婦人が「あら、ひさしぶりね!」といって僕に話しかけた。
あれ、誰か知っている人かな、と思って彼女の顔を見ると…全く知らない人である…
すると「ひょんなところであうものね」といってきた。
僕はもう一度覚えがないかどうか彼女のかをを見たが、やはりまったく見覚えがない。
…もしかして認知症かな、この人、と思った。
僕はどうしていいのかわからなかったが、バスを降りるまでずっと沈黙していた。
降りるとき、彼女は僕を知人か何かだと思っているはずなので、さすがに黙って降りるのはかわいそうだと思い軽く会釈をして降りた。
しかしだ、もしおかしいのは彼女ではなくて、僕だったら…という考えがふとよぎった。
つまり、彼女は本当に僕の知り合いで、僕の記憶がそれをどうしても思い出せないのだとしたら、という事である。
もしそうだとすれば認知症は僕のほうだと云う事になる。
若年性アルツハイマーは40代ぐらいから発症することもあるという。
彼女の世界では完璧な整合性を保っていて、その中では僕は彼女の知り合いか何かである、そしてそれが彼女の「真実」である。
一方、僕の世界では彼女は全くの見ず知らずの他人であり、僕の見解では認知症か何かになっている人であり、それが僕の「真実」である。
はたしてそのどちらが「真実」なのか…よく考えてみたらそこにはそれを証明する確固とした証拠がないと云う事に気づいた。
僕の記憶が部分的に喪失している可能性もあるし、彼女が認知症である可能性も「同等に」あるのである。
いったい彼女の中では僕は「誰」だったのだろう。彼女の人生の中でどんな役回りを演じたのだろう。
そしてそれがほんとうに真実だったとしたら…
話は変わって、例の30代のホームレスだがあれからよく街で見かける。
完璧にご近所さんになった。ものすごい重い荷物を両手に持ちながら歩いているので、まだ相当の体力は残っていそうだ。
なんで働かないのかな、と思うが、いろいろと事情があるのだろう。
できれば仲良くなって、どうやって食料などを手に入れているのか聞いてみたいなどと思っているのだが、そんな勇気は沸いてきそうもない。
ホームレスの人も決して無職などではなく、ちゃんと仕事を持っている人もいる。缶を集めたりしてそれを売っているのだそうだ。
よく電車の網棚に置いてある漫画や雑誌などを、必死の形相で集めている人もいるが、あれなどもホームレスかそれに近い人なのかもしれない。
その気になれば生きる方法はいくらでもあるのだろう。
数日前など犬の散歩をしていたら、腰が30度ぐらい曲がっていてその状態でよぼよぼと歩く老人がいたのだが、なんとその老人がチラシをポストに入れる仕事をしていたのだ。
正直あれには驚いた。
あれほどの体になったら楽に生活保護をもらえるだろうと思うのだが、もしかしたらプライドが許さないのかもしれない。
プライドがあって生活保護を断る人もいるという話は聞いている。僕はなんか背筋が伸びる思いがした。
あの老人の背中はそのままで無言の教えだった。生きるということはこういう事なんだと云う事の。
戦後日本では年金制度が整備されて、老後は何もしなくても食べていけるようになった。
そしてそれがいつしか「当たり前の権利」になった。
しかしいま、少子高齢化、終身雇用の崩壊が進んだことによってそれが当たり前ではなくなってきた。
そんななか途方に暮れている、という人も多いに違いない。
今まで大船に乗っていて、急にタグボートぐらいの小さな船に乗り移ったようなものだから不安になるのも無理はない。
しかし、こういう年金制度が整う前は、家族に養ってもらえない老人は皆ああだったのだ。
知力、体力の許す限り働く、そして体が動かなくなったら…あの世に行くまでである。
動物はみんなそうである。そして人間も動物なのである。
それなのに、動物たちは明日を思いわずらわない。「今」にすべてを集約している。そこには恐怖や不安などはない。
人は皆泣きながら生まれてくる、その後の人生がいかに大変か、困難に満ちているか本能で知っているからだ。そして生まれてきた以上、最後まで知力体力の限りを尽くしていききる。怖がっている暇などない、そんなことは暇人のすることだ、あの老人の背中は僕にそう教えてくれていたような気がする。