Leonora Spangenberger (11) plays Fuge BWV 998 by J. S. Bach on a 2004 Curt Claus Voigt
Leonora Spangenberger (11) plays Fuge BWV 998 by J. S. Bach on a 2004 Curt Claus Voigt
Bach : Air on the G String (Piano)
例によってユーチューブを見ていたらひとりの素晴らしいピアニストの演奏が目に留まった。
名前はBeatrice Berrut, クラシック界ではすでに名の知れた人だと思うが、僕にとっては初めての人。この演奏を見てまず感じるのは彼女のこの作品に対するDevotion(日本語でなんて言ったらいいのかいい言葉が見つからない)しいて言うなら「無私のまごころ」である。
完全に「私(わたくし)」を去り、ただこの曲を作曲したバッハの魂に共振し、それをただ忠実に再現したいと全身全霊で思いながら演奏している。
こんな「いい演奏」はそうそう多くはない。そこにはバッハの魂がたしかに現われ出ている。この曲を書いたときのバッハのこころがふたたび現出している。
こんなに美しい演奏というものはそうそう多くはないと思う。作曲家の立場から見れば、これほどありがたい演奏はないだろう。
演奏家のまごころというものをこれほど深く感じるのは、久しぶりである。僕らはこの演奏家のおかげでバッハがまるですぐそばにいて僕らのこころに寄り添っているかのように感じることができる。
この演奏家に心底から感謝の気持ちをささげたい、そういう思いでいっぱいである。
Bruce (Xiaoyu) Liu - Tchaikovsky Competition 2019 Round 1
ショパンコンクールの動画を見ていると、次から次へと右側のおすすめの動画欄にこのコンクールに参加していたピアニストの動画が出てくるので見ていると、あるひとりの演奏家の演奏が目に留まった。
そう、かれはこのショパンコンクールで優勝したBruce Xiaoyu Liuである。
優勝した彼だが、別にそうなったから言うのではなく、彼のショパンコンクールの動画を1本見てこれはすごい大器が出て来たもんだと思った。2位になった反田さんが10年に一人の逸材といわれているらしいが、このひとはたぶん3~40年に一人の逸材ではないかと僕は感じる。
ショパンの演奏に関して言えば前回の記事で取り上げた小林愛美さんの解釈、演奏が僕は一番好きだ。
でも、ピアニストとしての総合的、全体的な力量という点から言えば、僕はこの人はショパンコンクールの他の参加者と比較してもずば抜けていると感じる。
音楽に関して専門的な勉強をしたことがない素人の僕でさえ感じるのだから、玄人中の玄人であるあのコンクールの審査員たちならたちどころにそれを見抜いたはずである。
その彼がこの動画では冒頭にバッハを弾いている。
僕の好きなバッハを弾いているというので俄然注目して聴いた。
まず思うのは、やはりこれはバッハの音楽である、ということ。
平均律クラヴィーア曲集の中の一曲だが、3分20秒から奏でられる音は、たとえば今まで聴いてきたショパンの音楽が外側に向かって拡がっていく音楽とすれば、このバッハの音楽は内側に向かって果てしなく拡がっていく。あらゆるきらびやかな音や装飾はほぼない。「原音」というのは僕の造語だが、あらゆる余計なものをそぎ落とした人間の魂の奥底から生まれたばかりの、たとえるなら山の奥深い源泉から湧き出たばかりの純度の極めて高い水のような音である。
バッハの作品の中でもこの平均律クラヴィーア曲集はとりわけそうなのだが、1音1音が独特のしぶい、黒光りのするような「荘厳なつや」を持っていて、その音の醸し出す余韻の先がこの物質界をはるかに越えて、肉眼では見えない、なにか永遠の世界につながっているような……そんな感慨を催させる。
この演奏に限らず、クラシック音楽の演奏を聴いていると、あぁ、この演奏家はたぶん今俺と同じものを(世界を)感じ、見ているんだろうなぁ…とおもう刹那がある。
この曲を弾き終わった後、彼がしばらく音の余韻にひたる数秒間がある。どこか遠い目で何かを見ているようなまなざしをしている。あれはもちろん物理的な何かを見ているのではない。
現世を超えた、その向こう側に拡がっている世界、あえて言葉にするなら永遠・Eternityを見ている…といっていい。
あぁ、この人も同じ世界を見ている……というこの感興、共感はちょっと言葉にできないほどの喜びをもたらしてくれる。
この種の喜び、幸福感は、芸術の表現形態に様々なものがあるが、おそらくクラシック音楽(その中でもとくにバッハの音楽)の演奏からしか感じ取れないものではないかと思う。
永遠というとほんとうに手あかのついた言葉のようになっていて、また、概念としては理解できても、とうぜん有限の世界に生きている僕らには体験することはできない。しかし、バッハの音楽だけはそれを体験させてくれる。有限の世界に居ながらにして、無限を感覚として体感させてくれる、その世界に誘ってくれる。
それはやはり、この人の音楽が本質的に内側に、内的宇宙に向かっていく、内省的な音楽だからではないかと思う。
バッハの音楽を絵に喩えれば、それはもう他にはないといっていいぐらいふさわしい絵がある。それはレンブラントの絵である。
自分の内側の宇宙に深く、深く、どこまでも入り込んでいく……
音楽の本当の価値はその余韻が作り出す世界にあるといったのは芥川龍之介だが、バッハの音楽、そしてベートーベンのいくつかの作品はそのような聴き方、感じ方ができる数少ない音楽だろう。
いま一度想像してもらいたい、感得してもらいたい、Bruce Liuさんのまなざしが見ている先の世界を……
AIMI KOBAYASHI – third round (18th Chopin Competition, Warsaw)
ちょうどポーランドでは5年に一度開かれるショパンコンクールが終わったばかりだ。
僕は音楽でも絵でも食わず嫌いで自分の好きな作曲家、演奏家、画家以外のものはあまり気に留めない悪癖がある。
ショパンも同じで、その醸し出す音が美しいのはある程度知ってはいたが、その美しさがあまりにも甘すぎて…たとえるなら砂糖を4杯ぐらい入れたコーヒーのような感じで…実はこの作曲家の音楽を聴くのを避けてきたところがある。
ところがこのショパンコンクールではじめて集中して彼の音楽を聴き込んでみて、その考えがあまりにも表層的なものであったことを思い知らされた。
ショパンはもっと激しい、もっと暗い、もっと哀愁に満ちている、そして感情が奔放にほとばしる...ほとんど手が付けられないぐらいに。
ベートーベンも激しいが、ベートーベンは男性的な激しさである。それに対してショパンの激しさは...女性的といっていいのだろうか、とにかく切り裂くような激しさである。
そして、今回ここまで聞き込んできていちばん思うのは、小さな作品一つにさえもなにがしかの「物語」が込められているということだ。非常に優れた劇作家のような、とにかくドラマがある。いうなら、作家的な作曲家というべきか。
そしてそして、やはり彼の音楽をもっとも特徴づけるあの「高音域の美しさ」
それはこのビデオの33分16秒あたりから始まるPrelude D flat Major Op28 No15 通称「雨だれ」と呼ばれる曲に如実に表れている。
まるで白いレースか絹の布地が風に揺られているかのような、そしてそれがあまりにもこの世離れしていて人の手に触れるや否や粉々になってしまうかのような...
そのような繊細さは彼女の弾くショパンの作品すべてにわたってみられるが、とくにこの曲での彼女の音の扱い方の繊細さが比類なく、他のどのピアニストもまねができない。なぜならこれは単なる技術的な問題ではないからだ。
コメント欄でもそれを指摘する人が多くて、絶賛といってもいいほどの賛辞が散見され、ほかのだれでもなく彼女の弾くショパンをこれからもずっと聴いていきたいというものもあった。
彼女は「1音1音をたいせつに弾いていきたい」と語っていたが、このことだろうと僕は感じた。彼女はこれらの作品(音)からショパンの魂の奥深くにある澄みきったなにかを感じ取り、それと彼女自身のもっとも深いところにある極めて純度の高いなにかが共鳴し、それがそのままショパンの音楽に誘われるようにして表出し、このような演奏へと結実したのであろう。
Anon Ymousのコメント
そしてショパンの天才はこの小さな作品の中にも、幸福から絶望、そしてふたたび光へと再帰していく物語を内包させていて、彼女はそれをしっかりと読み取り演奏として再現している。
最後に圧巻なのはこの動画の最後に演奏した曲、53分ぐらいからながれるPrelude in D minor Op28 No.24である。
僕は今回初めてこの曲を聴いたのだが、素晴らしい傑作だと思った。このはげしさ、情念、そこに込められた劇的なドラマ...ある種の高貴な気品、気高さ、悲劇性...あたかも一人の人間の変転流生の一生をこの数分に閉じ込めたような作品。
これを聴いてショパンに対するぼくの想いが大きく変わった。
いまさらかよと思われるかもしれないが、この作曲家は決して軽く見られてはいけない。それどころかこれほどの優れたストーリテラーをほかに見つけるのは難しい。人類が存続する限り記憶され続けるだろう作曲家、芸術家だろうと感じる。
この稀代の劇作家の作品を見事に上演して見せたこの稀代の女優、小林愛美さんの演奏は鬼気迫るほど迫真的で、僕はこの人ほど魂レベルでショパンを理解し感受している人はいないのではないかとさえ思った。感動などという月並みな言葉ではとても表現できないほど心が動かされた、今これを書いている間にも鳥肌が立ち、僕の中で何かがぐらぐらと揺れ動いている、正直、クラシック音楽を聴き始めてもう長いが、クラシックの演奏でこれほどの感銘を受けたのはこれが初めてである。
これも誰かがコメントの中に書いていたが、彼女こそ本物の正真正銘のショパン弾きである、そう感じた。
ショパンインスティテュートが出す一連の動画で、第三次予選までの動画に限って言えば、彼女の演奏がずば抜けて再生回数が多い。
これは協奏曲での演奏以外の独奏では、彼女の評価が最も高いことの表れであろうと僕は思っている。おもえば、ショパンコンクールともなれば、世界中の巨匠、歴史に残るような名演奏家、音楽教育家たちほぼすべて見ているといっていいだろう。
とんでもない晴れ舞台である。そこで真価をいかんなく発揮しきった参加者たちすべてに拍手を送りたい!!
まず書きたいのは僕が新しく買ったCanon EOS Kiss X10の優秀さである。前回の記事の上から二つ目の寺院の中の写真だが、床面に移った光と影の非常に緻密で繊細な表現、これが一眼入門機の性能とは思えないほどだ。僕はカメラの専門家ではないので何がいいのかは正確にはわからないが、Canonの画像センサー、画像エンジンの優秀さをはっきりと表していると感じる。
正直ここまで優秀だとは思ってなかった。改めて惚れ直している。
さて、今日の話題は音楽について、それもとりわけバッハについてである。
ピアニストはアンジェラ・ヒューイット。カナダのピアニストだが、僕はこの人の生演奏を何回か聞いたことがある。なかでも一番忘れられないのが、いまから15年ぐらい前だろうか、東京オペラシティーホールで聴いた彼女の演奏するバッハのゴールドベルグ変奏曲だ。あの演奏はたぶん、一生忘れられない演奏になるだろう。
クラシックの作曲家の中にはもちろんいろいろな人がいる。僕は自分の趣味の領域に関する限り、かなり偏食傾向の強い人間なので、作家にしても、作曲家にしても自分の好きな人の作品だけに偏って聴き読む傾向が強い。なので、幅広い知識や体験は持っておらず、僕の感想は偏ったものになりがちではある。
ただ、ユーチューブというもののおかげで、様々な作曲家の音楽を聴くようになって、それぞれ独特の特徴、価値というものがわかるようになってきた。ただ、この映像の冒頭のアンジェラの言葉にもあるように、また、吉田秀和氏の遺した言葉にもあるように、やはり、究極的、総合的には三人の作曲家に集約されていくように思う。それはバッハ、ベートーベン、モーツァルトである。
この三つの高峰の到達した高み、いただきはとびぬけている、群を抜いている、他を寄せ付けない、という言葉を使っても決して言い過ぎではないほどの総合的、質的優越性を持っていると僕も感じる。
特に最初の二人に対して、僕は深い敬意を抱いている。モーツァルトもあれほど若死にをせず、最初の二人のようにせめて60歳近くまで生きていれば、神から与えられたその才能の並外れた大きさを考えれば、さらにどれほどの傑作を残したか……本当に惜しいと衷心から思う。
それではバッハの何がそんなに僕の心をとらえるのか、それは彼の音楽に現れる彼の人格である。抽象的な言い方をすれば精神性である。
しかし、やはり、「人格」という言葉が僕には一番しっくりとくる。彼の音楽を聴いていると、彼自身の人格、人間性、心、といったものが音として結晶化しているとおもうほど「生きた」彼を感じる。心の奥のほうにあるひだまで見えるような気がするのだ。
なので、とくにバッハとベートーベンの音楽を聴いていると思うのが、聴きながら彼らと「対話している」という感覚になるということ。そう、一方通行ではなく、双方向の「対話」である。このことをこれほど強く感じるのは、この二人だけで、僕の聴いた限りほかの作曲家からはこの二人ほど強くは感じない。
このブログの中で何度も何度も触れてきていることだが、その演奏家の真価というものは、やはり聴くだけでは十分には感知できず、見てみなければならない、ということを改めて感じさせられるのがこの映像に現れる彼女の演奏である。
52分48秒当たりの一つの曲が終わってから、次の曲BWV643を弾き始めるまでに彼女がとる間合い、呼吸、といったものの中に彼女がこの曲をどうとらえているか、どう感じているか、どう扱っているか、といったことが端的に見えるような気がする。
そういう意味では、コンサートピアニストというのは「すべてが見られている」わけで、ある意味怖い職業ではある。もちろん、それだからこそやりがいのある仕事ではあるのだが。
この映像に表れている間合い、彼女の呼吸…といったものに、彼女のこの曲にたいする想い、devotion、respect、もっというならばfaith 敬虔さ、といったものさえもが現れているような気がする。
ここからはまさにバッハその人の魂がコンサートホールにたち現れてくる。その意味では、バッハは永遠に生きているのである。
バッハというとすぐにキリスト教に結び付けられて捉えられることが多く、それはそれである程度は間違ってはいないのだが、それだけでとらえると彼の作品の真価を矮小化してしまうことになる。
彼の作品はある特定の狭い世界、価値観の枠内にとどまらない。それを超えた普遍性に達している。そうでなければ彼の死後300年以上も、こうして何度も何度も世界中のいたるところで演奏され、特定の文化、宗教を超えて多くの人々の心に訴えかけるということは起こらない。
そこには「人間バッハ」がある。
僕らと同じように、この世を生き、苦悩し、あこがれ、夢を抱き、愛し、ときには絶望し、切望した、人間バッハがいる。僕らと同じ赤い血の流れた、その肌に触れれば体温さえ感じられるような、人間バッハがいる。それが奇跡的にも彼の音楽として顕現しているのだ。
この最後の曲、BWV643を聴いていて(見ていて)僕はそういう感慨にとらわれてならなかった。
演奏している時の彼女の表情、体全体の細かい動き、それらのなかに彼女がいかに「それ」を感じ取りながら弾いているのかが見て取れる。
そしてエンディングの56分20秒あたりからの映像、この映像のなかにも彼女のこの曲への、いや、バッハへの想い、バッハに寄せる彼女のまごころ、といったものがはっきりと見える。
通常、聴衆の入ったコンサートホールではこの間合いは拍手で打ち消されてしまう。非常に残念なことだが、演奏家はもっとも大切な貴重なこの時間を台無しにされながら笑顔で聴衆の拍手にこたえなければならない。
でも、コロナウイルスの影響で無人のホールで演奏されたこの映像では、ありがたいことに、このクラシック音楽では、いや、とりわけバッハやベートーベンの音楽にとっては、最も大切な、貴重な時間が守られていて僕らはそれを目にすることができる。
ここで芥川龍之介の言葉を僕は思い出すのだが、それは音楽の演奏が終わった後の拍手は悲しい慣習である、何故ならその時間の中でこそ我々はその作品の真価を感じ取れるのだから、と述べていたものだ。もし芥川が生きていてこの演奏を聴いたら、いや、見たら、どれほど深い感銘を受けるだろうと思う。
この間合いの中にあるアンジェラには余計な雑念は無論ない。もし禅の「無のこころ」という言葉を体現するとすれば、この時の彼女の心境をいうのではないかと思うほどである。この時間、彼女はバッハと一体になっている。いや、それさえも越えて、もっと普遍的なもの、ある超越したもの、と一体になっている。「永遠」というものさえ感じさせる、そんな時間である。
僕の尊敬するもう一人のピアニスト、アルフレッド・ブレンデルの言葉に興味深いものがある。彼がベートーベンの作品を弾いた後に残した言葉で、この曲の後に生みだされた余韻、それが生み出す世界を壊さないもう一人の作曲家を思い出した、それはバッハであり、このコンサートのアンコールにこたえる曲として最もふさわしいバッハの曲を選んだ。聴衆の皆さんには一つお願いがあります。この演奏が終わっても拍手はしないでほしいのです。というものだった。
そう、楽譜には表れない空間、つまり、耳には聞こえてこない「音」のなかにのこり、聴こえてくる世界というものが特にこの二人の作品にはあり、それがこの映像にもはっきりと具現化されている。
この映像の最後にこの男性、たぶんBBCの人だと思うが、シューマンの言葉を引用していて(57分25秒、ぼくの聞き取り能力の限界でもしかしたら違っているかもしれません、その際は悪しからず)この曲を聴いていると、この人生、世界が私から奪ったかに見えるTrust, Faith 信頼する、信じる、ということや信仰を保つということ、をもう一度restore 復活させてくれる、というものがあって、その言葉が強く僕の中に残った。
シューマンのこの言葉を聞いていると、この曲に対するコメントではなかったと思うが、バッハの他の曲に対するコメントとして吉田秀和氏が残していた言葉が僕の中で反響する。それはたしか、あの9.11の悲劇が起こった後だったと思うが、彼がこの秩序も何もないかのように見える世界に生きていて、唯一、その秩序を再び思い出させてくれるのはバッハの音楽である、というものだ。
この演奏は彼らでさえ感じた悲しみ、絶望からの魂の「復活」を僕らにも感じさせてくれる、それほどの貴重な演奏である。