気の向くまま足の向くまま

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もろもろのことなど

2020-06-23 02:36:53 | 

 

 

  Ending and beginning, transparency and opacity. As day turns to night and light fades into darkness, we enter the blue hour of twilight, when the air seems full of mystery, fleetingly saturated in blue and purple hues before inexorably darkening to blackness. It is precisely this elusive change in atmosphere that Alice Sara Ott sets out to capture in musical terms on Nightfall. Her success in accomplishing this feat underlines her status as a pianist of the very highest calibre. The album is a particularly personal artistic project for Alice Sara Ott, documenting the intensity of her musical encounters with the three composers Debussy, Satie and Ravel.

 

 この英文はAlice Sara Ottoというドイツ人?のピアニストの映像の説明文のところにのっていて偶然見つけたのだが、とてもいい文章だと思ったので載せてみた。もちろんこれは『僕が』いいと思っただけのことで、見る目のある人が読めばどう思うかはわからないが。特に最初の3行(Ending and から terms on Nightfall.まで)はまるで流れるようなリズム、音感を持っていて、よんでいて心地いい。
  
 日本語の名文というのはいくらでも探せば読めるが、僕のようにいまは英文にあまり接しておらず、ましてや英文学などの作品にも原文で接していない人間にとっては、このような文章に出会うとうれしくなってしまう。

 さて、それはともかく上の絵だが、僕が所用で尋ねたあるマンションのロビーに飾っていたものを偶然通りかかって見つけたものである。あまりにも出来がいいのでおもわずスマホでシャッターを切った。そこには画家の名も書かれておらず、また、一応マンションの住人やここを訪れる人ならだれでも見られる場所にあることから、この画家はまだあまり名の通ってない人ではないかと想像する、いや、それともすでにかなり名の知れた人なのかもしれない。とにかく僕にはわからない。

 いずれにしてもすくなくとも結構高級なマンションのロビーに飾られているので、全く無名の人ではないだろう。
前を通りかかった時思わず「あーきれい!」という言葉が漏れた。印象派の絵に似ているが、その筆づかいがすこしワイルドでこういうタッチの筆遣いを見せる人を僕は見たことがない。

 しかしわかるだろうか、ワイルドなタッチでありながら同時に絹織物のようにしあげられたその繊細な味わい。
こういうほぼ誰でも見れるところで(とはいってもセキュリティー上住人の許可なしには入れない場所だが)これほどのレベルの絵を見たことは、正直ぼくの経験ではない。
 誰がかいたのだろう、本当に気になる。

 たぶん、もう再びこの絵を見ることはできないだろう……まさに、ほんの数十秒の名作との邂逅だった……
もしかしたら数十年後、あるいは数百年後にはここではなくどこかの美術館に飾られているかもしれない…でもその時僕はもうこの世にはいない。おもわず芥川の秀作、秋山図が頭をよぎった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、「親鸞」をよんでいる。小説を読むのは本当に久しぶり。読み始めると引きずり込まれるようにその世界の中に入っている。
この人だけはどうしても避けて通れない人だと思ってきた。日本人に生まれてきた以上、絶対者、神、善と悪、そういったものが思春期以来ずっと頭から離れなかった者として、この人だけは避けて通れないと思ってきた。

 おなじようなテーマと格闘してきた作家の作品は何人か読んできた。最近では遠藤周作の映画「Silence 沈黙」がある。
だが、今から900年も前に、しかもアジアに生きたこの人が、ヨーロッパの作家たちがようやく19世紀になって扱い始めたこのテーマをすでに真剣に考え、悩みぬいていたということは僕にとっては驚きとしか言いようがなく、遅まきながらどうしてもこの人のうち深いところまで探ってみたい、触れてみたいと最近とみに思うようになってきた。

 まだ青春篇 上巻を読んだばかりだが、とにかく引きずり込まれるように読み進んでいる。
それにしても今文庫本て600円近くするんですね。ちょっとした定食が食べられる値段である。昔よく文庫本を買っていたころは1冊せいぜい200円とかそんなもんだったので、やはりインフレというのは進んでいるのだなと実感した。つまりは、同じ100万円を持っていたとしても、あのころから比べればその価値が3分の1になったようなものである。

 まぁ、そんなことはどうでもいい(いやほんとはよくないのだが)今は経済の話をしているわけではないので本題に戻ろう。

 


 


 『「良禅どの、いったい仏とはなんなのだ」
「え?」
 「仏といい、仏という。」われらは仏門に帰依し、仏法をまなび、仏道をきわめるためにこの比叡のお山に暮らしている。それはわかりきったことだ。だが、しかし──」

 眉をひそめるようにして、じっと範宴(はんねん)をみつめる良禅の顔色が変わった。なにかおそろしいものでも見るかのように、おびえた表情である。
 「なにをいいだされるのですか」
と良禅はあとずさりしながら叫ぶようにいった。

 「範宴どのだいじょうぶですか!」
~略~

 「失礼します」
良禅はこわばった動作で身をひるがえし、堂から走りでた。遠ざかっていく足音を聞きながら、範宴は大きなため息をついた。
〈いまさら仏とはなんなのだ、などとたずねたことが、よほど奇妙なことのように思われたのだろう〉

~略~

 「範宴」と、こんどは男の声がした。はげしく体をゆさぶられて、範宴は目をさました。師の音覚法印の顔が目の前にあった。

 

 

 

 

 「法印さま」
と、範宴はいったつもりだが、声にはならない。かれは頭をふって体をおこした。
「気づいたか。よかった」

 音覚法印は範宴の体の下に腕をさし入れて、かかえあげようとした。

~略~

「そなた、正気か?」
「はい」
「良禅はそなたが狂うたというておる」

 「いいえ」
範宴は無理に笑顔をつくって答えた。
「そうか」

 音覚法印は、うなずいて範宴の体から手をはなした。
「仏とはなにか、と良禅にたずねたそうじゃな」
「はい」

 「そなたはたいへんなところに足をふみこもうとしておる。この比叡の山に入って仏門の修行をする者たちは、決してそういう疑問をもたないものだ。最初からわかりきったこととして、考えてみようともしない。それがふつうじゃ。

「正直にいって、このわしもそうであった。長い研学修行のあいだに、ときおりふと、仏とはなにか、と問う声が聞こえてきたことがある。しかし──」
自分はその声を無視した、と音覚法印はいった。つきつめた表情だった。

 

 

 

 

「しかし、そういうとき、わしはわざと聞こえないふりをして、そんな疑問を頭から振り払いつつ今日まですごしてきたのだ。なぜかといえば、そのような問いに正面から向き合えば、厄介なことになるような予感があったからじゃ。比叡山の僧が、仏とはなにか、などときけば笑われるだけであろう。良禅ならずとも、狂うたと思い込む者もおるやもしれぬ。」

 ~略~

「吉水で念仏をといている法然房は、念仏をするものは痴愚になれ、と弟子たちに教えているという。このお山にいたころ、知恵第一の法然房、とうたわれた天下の秀才じゃ。その男が愚者になれとは、どういうことか。たぶん、無学がよい、無智なほうがよいというておるのではあるまい。どうじゃ」

~略~

「わたくしは吉水の草庵で、知恵を捨てよ、と説かれるのをききました。しかし──」

~略~

「年輪をかさねた大人に、赤子のように素直になれといっても、それは無理ではないでしょうか。わたしも9歳で白河房に入室し、12歳でこの比叡に入山してからの短い年月ではありますが、必死で経典を読み、教学をおさめてきたつもりです。まして法然様は、はかりしれない学識の持ち主。
 それをすべて捨て去って愚者になるといわれても、わたくしには納得がまいりませぬ。
 
 先日、たった三度で聞法(もんぼう)をやめたのは、そこにつまずいたからでございました。しかし、こうして行にうちこんでおりますと、しだいに童のような気持ちで自分に問う気持ちが生じてきたのです。

 

 

 

 

これまで身につけてきたこと、学んできたこと、当たり前のように信じてきたことが、ボロボロと古い垢のようにはげ落ちてきて、目の前に大きな疑問がたちはだかってまいりました。それは──」

~略~

「仏(ぶつ)といい、仏(ほとけ)という。如来といい、悟りという。それはいったいなんなのか。そして、なぜこの世には仏が必要なのか。どうして人々は仏を求めるのか。法印さま、このようなことを考えることは、狂うておるのでございましょうか。わたしはこれまで仏画や仏像で知っている御仏のすがたや、細密に描かれた仏国土、浄土のありさまをみたいのではございません。真実の御仏を知りたいのです。」

範宴は思わずはげしい感情がこみあげてくるのをおぼえて、声を高めた。

「わたくしは、いま、これまで知っていることや、学んだことのすべてをなげうって、いちばん根本のところから考えてみたいのです。そんなことを考えることは、やはりくるっているのでしょうか」

音覚法印は、しずかに首をふった。

「いや、狂うてはおらぬ。ただ──」

範宴は息を止めて師の言葉を待った。しかし、音覚法印は遠くを見るような目つきで範宴から視線をそらし、しばらくなにもいわなかった。
「ただ、なんでございましょうか」
その深い沈黙にたえかねて、範宴がたずねた。

~略~

「そなたは狂うてはおらぬ」

 


 

 

音覚法印はしずかな声で言った。
「ただ、いまそなたが考えているようなことを、どこまでもつきつめていこうとするなら、そなたはまちがいなく狂うであろう」
音覚法印はなにかをいおうとする範宴を手で制して言葉をつづけた。

「真実の仏に会おうとすれば、当然、なみの覚悟ではできぬ。狂うところまでつきつめてこそ、真実がつかめるのじゃ。しかし、範宴、ここのところをよくきくがよい。狂うてしもうてはだめなのだ。その寸前で引き返す勇気が必要なのじゃ。命をかけるのはよい。だが、命を捨ててはならぬ。
法然房が説いているのは、愚者にかえれ、ということであろう。

 狂者になれというておるのではない。そなたはこれまで学んできたことをすべて忘れて、仏とはなにか、と問うておる。その答えはいっしょうかかってさがすしかあるまい。そのことを覚悟できたらこの行を試みた意味は十分にある。よいか、そなたは見えぬ仏というおおきな仏と出会ったのじゃ、そなたの行は成った。ただいま、この音覚がしかと見とどけた、さあ、わしの腕につかまれ。ここをでるのじゃ」』

 

 ここで見えぬ仏と出会った云々は、このとき範宴(のちの親鸞)は好相行という行をしていて、仏の顔が見えるまでこもり続けるというような修行があったらしく、それを行っていたからである。
 それはともかく、『真実の仏に会おうとすれば、当然、なみの覚悟ではできぬ。狂うところまでつきつめてこそ、真実がつかめるのじゃ。』という音覚法印の言葉は重い。

 親鸞も法然も修行僧としては極めて優秀で、法然などはゆくゆくは天台座主になる逸材とうたわれていたという…その二人がおそらくはこの問いを狂う寸前までつきつめて、エリートとしての地位をなげうち人々の中に降りて行った。僕はこのことをおもうとき、ブッダ(仏陀)がこの世の矛盾、光と影をみてどうしてもそこから目をそむけることができず、将来は王になる地位をなげうち何もかも捨てさって艱難辛苦の修行の道に入っていったことと重なって見えてくる。

『その答えは一生かかって探すしかあるまい』

この音覚法印のことばのままに……

 

 

 

 

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