確定申告の準備でどこにも出られなかったうっ憤を晴らすかのように、ここのところ週末は出ずっぱりである。
まずは先週行った英勝寺。
ここの白藤が美しかった。
長く続いた(多分10年ぐらいかな?)改修工事も終わって、完全な姿を初めて見た。
改修が終わったといっても、派手な色に再塗装してリニュウアルというのではなく、たぶん壊れているところだけを修理したのだろう、非常に地味な改修後のすがただった。それが逆に良かった。
あれだけ改修期間が長かったというのは、おそらく改修費用の工面に苦労したのだろうと想像する。
どこかの金持ちが檀家にいて、そこからドカンと寄付を受けての改修というのとは違い、信心深い信徒、檀家からのささやかながらも心優しい寄付を地道に受けての改修だったのではないか。
それだけにそれを見る僕も、何か愛情のようなものを持ちながら参拝、写真撮影をした。
僕がこの寺に他の寺からは感じない、愛着というか、興味というか、そういうものを感じるのは、ここは昔あの太田道灌の邸宅があった場所だからだ。
無類の戦上手で、しかもなおかつ文芸にも造詣が深かったといわれているあの太田道灌の邸宅である。
日本史の中で彼のようにインテリでありながら同時に名実ともに優れた戦術家だっという人物はほかにいるだろうか…
唯一そのにおいを感じるのは上杉謙信ぐらいか…あとは太源雪斎がいるが、この人の場合、「戦術家としての実績」が輝かしい戦歴を持つ今あげた二人に比べてやや見劣りがする。
中国史で「名実ともに」学問と戦術の才を兼ね備えた武将は…やはり諸葛孔明か、それと僕がいま読んでいる孫子の著者といわれている孫武か…残念ながら僕は中国史にはそれほど詳しくないので、これ以上はわからない。あぁ、もう一人忘れてはならない人がいた、しかも現代にかなり近い時代に、毛沢東だ。
この人は平時であれば一流の学者か文芸家になれたほどのインテリであり、同時に、きわめて優れた稀代の戦術家でもある。実績はいうまでもなく、近代史が明白に示している。
毛沢東がそういう評価をされていないとすれば、それは今と時代が近すぎてまだ純粋客観的な評価を受けにくいこと、なおかつ、日本人が中国(人)に対して抱いている「複雑かつ屈折した」感情ゆえだろう。
そういう明晰な悟性、理性を曇らせる余計なフィルター、屈折レンズが取れるほど時代が下っていけば、必ずそう評価される時が来ると僕は信じている。
いずれにしても、そういういわれがある場所なのでこの英勝寺に行くと何とも言えない感慨を覚える。
それともう一つ忘れてはならないのは、このお寺にある観音像だ。
とてもお優しいお顔をしている。正直、こんなにお優しいお顔をした観音様を見たことがない。
このお寺に行く前に長谷の長谷寺で写経をした。
残念ながら明鏡止水の心境というわけにはいかなかった。
ここでは写経をする際、下に薄くきれいな般若心経が印刷してあり、それをなぞっていけばまぁ、相当の悪筆の人でもそれなりの写経ができるようになっている。
僕も最初はそれをなぞっていたのだが、そうしている間に気づき始めた。
それをなぞればなぞるほど確かに無難な字にはなるのだが、なぜかかえって僕の目には下手な字になるような気がした。
むしろ、それを全く無視して自由に書いてみると、とてもいい字になるのだ。
僕はそれを見て、スポーツ、学問、なども含めたあらゆる芸法、術、技法の進むべき求め方というか、そういうものの本質を見た思いがした…
最初はもちろん、うまい人のお手本をまねすることから始めなければいけない、しかし、いずれはそれを超えて「自分独自の道」をみつけ、それを漱石流に言えば「うんうん牛のように」辛抱強く押し続けていかなければならないのではないかと。
そうしてその自分独自の道を極めたところに、逆説的ではあるがある共通の至高領域のようなものがあるような気がする。
長谷寺で写経が終わった後、江ノ電で鎌倉に戻り、小町通を歩いて北鎌倉方面に歩いて行った。
そこで浄智寺に入った。
ここには南北朝時代から伝わるやはり観音像があるのでその像を拝顔拝礼した。
南北朝といえば尊氏の時代である。しかも浄智寺は尊氏の邸宅があった現長寿寺から近い。もしかしたら、時代さえ重なっていれば尊氏もこの像を拝んだかもしれない、などと思うとなかなか楽しい。
この日はそこで体力の限界が来たので帰路についた。
そして昨日は、仕事でくたくたに疲れながらも、鎌倉行きたさにまた出かけて仏行寺という寺に行った。
このお寺の存在は知っていたのだが、なにぶん、交通の便が悪く、鎌倉駅からバスで行き、しかもバス停から15~20分ぐらい歩かなければならない。
なのでつい足が遠のいていたのだが、僕のかつての先生の奥様がフェイスブックでアップしている記事にこのお寺のことがあり、それで行くことにした。
このお寺はつつじで有名で、行ってみると確かに一面つつじが咲いていた。
このお寺は鎌倉幕府樹立に功のあった梶原景時の邸宅があったといわれている。
景時は鎌倉初期の武将の例にもれず悲劇の武将で、幕府成立後の権力闘争に敗れ子の景季とともに殺されてしまう。
その悲劇の後、あとに残された景季の奥方がここで自害したといわれている。それからここでその女性が悲しみになく声が聞こえるようになり、
土地の人々やこの辺りを支配することになった武士であろうか、その霊を鎮めるために建立したと伝えられている。
つつじは裏山にあるのだが、かなりな急こう配で手すりもなく、バランスをとることに自信のない方(特に高齢の方)はのぼるのは避けたほうがいいかもしれない。僕もかなりつかれているときに行ったので、転落の危険を感じながら登った。
ここには景季の片腕を埋めた塚があるのだが、何分僕は感じやすい性質なのでそこへ行くのはやめた。(ビビったというのとは意味が違うのでくれぐれもお間違えなく)
ここで参拝後やはり仕事の疲れがいかんともしがたく、やむを得ず帰宅した。
ここからバス停までの田舎道を歩きながら考えた(漱石の口調で『笑』)、僕の人生は苦難の前半生を終えた後、今ようやく安定するようになったということを。
ここからは遠慮なく自分の人生を楽しんでいきたいとおもった。
2年ほど前のことだが、僕の信仰する神ゆかりの地を訪れたとき、たまたま関西から来たおばちゃまたちの一行と駅で出会った。
彼女たちも同じ信仰を持つ人々で、ぼくらはそこで立ち話をし、タクシー代を節約するために同じタクシーで行った。
その時に、そのグループの一人が僕に話しかけてきて、僕にとっては印象的な話をした。
それが場所が場所(僕の信仰する神と信者にとってとても重要な場所)だっただけに、とりわけ印象に残った。
そしてその時その方がおっしゃった言葉がいまの僕をある意味支えているといっていい。
僕らは普段、深くものを思うことなく人と会話をしている。
彼女もあの時、実にさりげなく、深くものを思うこともなく僕に話しかけてきたに違いない。
しかし、その言葉がこうして僕の心に残り、今でも僕を支えている…
もちろんあのようなことをおっしゃるからには、相当信仰心篤い人であり、信仰を持ってからも日々の中で自分の心を磨いてきた人に違いない。
だからこそ、見ず知らずの他人の心に一生残るような言葉を残せる。
人のために役立つことをするために、なにも特別なことをする必要はない。ただ自分の心を磨いていけばいいのだ。
外のために生きるためにはまず中を磨く。
中を磨けば、ごく自然にその人なりのありかたで外のために生きていくことになる。
その道は千差万別である。どれが優れていてどれが劣っているかなどということはない。
問題は、意図せずとも自然に磨かれていく「流れ」に乗れるかどうか。
そして流れに乗った後は、それに自らの意思も織り交ぜて、磨いていけるかどうか。
そうなればただもう自分自身であればいい、それだけでおのおののありかたで世の役に立っていくことができる。
何になるか、何をするかなどは、二義的なことになる。
そんなことを考えた今日この頃である。