気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

1日1.5食をやってみて

2016-06-21 21:47:26 | 日記
 
 半日断食を始めてもう3週間は経つだろうか。
ほぼ毎日あっている人でさえ「痩せましたねぇ」といわれるくらいに痩せた。

 「えぇ、体にいいからやっているんです」と答えても怪訝な顔をされるだけである。
なんか宗教にでもはまってるんかな?ばかだなぁ、とでも思われているのかもしれない。

 たしかにバカかもしれない、し、賢者なのかもしれない。
残念ながら僕自身にも確固とした自信があるわけではない。

 ただ、たとえこれが嘘だったとしても、僕には脂肪以外失うものはない。
しかも失うものが脂肪ならこんなにありがたいことはないので、「失敗」ということはどちらにしてもないわけである。

 風呂で自分の体を見ると、自分がいかに痩せたかがわかる。
以前はおなかがぽこっと出ていたのが、今は真っ平らである。ちなみに以前の僕はとくに太っているわけでもなく痩せているわけでもない中肉中背だった。
今はちょうど、10代後半から20代前半ぐらいの時の体が確かこんなだったのを思い出す。

 あのぽこっと出ていた部分が食べ過ぎの結果できた無駄であり、無駄どころか体にとって有害でさえある部分だったことを思うと、本当にありがたいと思う。
さて、肝心の体調だが、もともと特に深刻な病気を持っていないので、特に何かがよくなったと云う事はない。
 一つだけ挙げるとすれば、便通であろう。圧倒的に良くなった。

 食べるものが少なくなったのに便通がよくなったと云う事は、体の中に何十年もかけてたまってきた(特に腸内の)無駄なもの、有害なもの(宿便)が排出されているというあかしではないか。東洋医学で言う万病のもとである。

 それと、これは本当にうれしいことなのだが、半日断食をすることで食べるものがおいしくなったということ。
朝を抜き、昼は抜くか軽く蕎麦だけにしているので、夜食べるものがめちゃくちゃおいしく感じる。
しかも基本、玄米菜食にしているので、以前の僕であれば間違ってもおいしいなんて思わなかった食材であるにもかかわらずである。
 ただ、今は酵素玄米を食べているのでそう感じるのかもしれない、これはただの玄米よりも全然おいしいから。

 実際、甲田先生の本には、本断食(何日間もお茶やすまし汁など液体のものだけで過ごすこと)が明けた後最初に食べる重湯のおいしさは筆舌に尽くしがたいという。
それは断食をする前は、ほとんど毎日高級レストランに通っていた人でさえそう思うそうだ。
 その気持ちは非常によくわかる。

 ご飯がおいしいなんて大したことではないと思う人もいるかもしれない。
ところがである、食べるものが本当においしいと思えることは、人間の幸福のためには絶対に必要な要素だと思うようになった。
幸福の基礎、基本だとさえ今は思う。かほどさようにご飯がおいしいと思うようになった。

 どんなにお金があっても、どんなにいい家族に恵まれていても、どんなにいい仕事を持っていても、どんなに高級な料理を食べていても、毎日食べるご飯を「本当に、腹の底から」うまいと思って食べられなかったら、その人は真の意味では幸福ではないと、今の僕は思うようになった。
かほどさようにご飯がおいしいと思うようになった。

 それと僕がこれほど健康食にこだわるのは、健康の維持のためにプラシーボ効果が働くのを狙っているからでもある。
こんなに体にいいことをしているのだから、病気になるわけがない、という自信が潜在意識にしみこみ、それが健康という現実となって実を結ぶということを狙っている。
なぜなら、この現実世界で起こっていることはすべて自分の意識が作っているからである。(またこういう事を書くと、○○という声が聞こえてきそうだが[(笑)])

 いずれにしても、とても面白い体験をしていると云う事だけは確実である。
 
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なせば成る

2016-06-01 20:38:37 | 日記
 「なせば成る なさねばならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり」

 こう述べたのは日本史の中でも僕の好きな人物の5本の指には入るだろう人、上杉鷹山である。

 なぜいきなりこんなことを書いたかというと、あれほどおそらく一生できないだろうと思っていた一日一食の生活が単発的にではあるが、結構簡単にできたからだ。
実は今日も一日一食で過ごした。それ以外の日はほぼ毎日一日1.5食である。

 前の自分なら絶対無理だと思っていた。
ところが、たぶん僕の中で健康でいたい、という思いが人一倍強いのだろう、ムラキテルミさんや石原医師の本を読んで、これはおそらく本当の事だと直感で感じ、実際にやってみたらなんと結構簡単にできたのだ。

 たぶん、今まで絶対にできないと思っていたのは、「常識」の壁があったからだろうと思う。
1日3食食べなければ人間は健康を損なう、力が出ない、病気になる、などという常識が自分の中で無意識のうちに「できるわけがない」という見えない壁を作っていたに違いない。

 僕はたぶんこのことだけでなく、他の事も同じなのではないか、とふと思った。

 できるわけがない、という親や世間から叩き込まれた常識が実体のない、見えない心理的な壁を作って本当にできなくさせてきたのだろう。
この世で大事をなす人というのは、おそらく子供のころからそういう常識というものを信じない気質を持っているのではないかと思う。ある意味特殊気質だが、それが「大物」の大物たるゆえんなのではないか。

 あれからムラキさんや石原医師の本を読んで、ますます彼らの言っていることがおそらくは真実であろうと思うようになってきている。

 癌というものが認識されるようになってきてから、医者の数も増え、医学も考えられないほど進歩してきた。
それにもかかわらずそれをあざ笑うように、がんで死んでいく人の数は大幅に増えている。
 食品添加物や日本人の食事が欧米化してきた事が原因だともいわれる。

 しかし、それだけだろうか?
西洋医学というものがいまだに癌の本質というものをつかみ切れていない、という事もあるのではないか。

 今回彼らの本を読んでその思いがますます強くなってきた。
前回のムラキさんの映像(パート2)の中で、石原医師に出会ってなかったら私は今でも「がんと闘っていた」のではないかと思います、というものがあった。
これはある意味、事の核心をついた言葉だと思う。

 西洋医学ではがんは「異物」であり戦う対象になっている。
だから手術で切り取り、抗がん剤という劇薬で戦う。

 一方、東洋医学ではがんはがんの役目を背負っているという。(もしかしたらこれは石原医師やその他断食療法を提唱する医師たちの仮説かもしれないが)
東洋医学ではがんは「血の汚れ」から生じるという。がんだけではなく、万病はこの血の汚れから生ずるとされている。

 なぜ血が汚れるかというと、その原因となる体に有害なもの(揚げ物や赤身の肉などや、その他高脂肪のもの)を食べることで、腸内が汚れるからだという。
僕も耳学問なのだが、日本では何十年も前に血は骨髄でつくられるのではなく腸管内で作られる、という学説を発表した人がいる。(千島学説)
この学説は西洋医学で説くこととは違っているため、当時まったく相手にされなかったらしい。
ところがこれが最近再び注目され始めているらしい。

 この学説はくしくも東洋医学の伝統的な考え方と一致しており、石原医師によれば、人間というのは長年の悪い食生活によって食べたものが腸内にたまりそれが宿便として残っているらしい。健康な人でも2~4キロはあるという。

 これが腸内で作られる血の質を悪くして、それが全身に回ってさまざまな病気の原因を作るという。
なので、がんを治したいのであればまず腸の中をきれいにしなければならない。
ただ、1日3食始終食べていてはそれができないらしい。

 なぜかというと、人間の体は吸収と排泄を同時にできないからだという。
本来は食べた回数だけの大便が出なければならないらしい。
 ところが、始終食べているため、その間排泄のほうはおろそかになり結果、悪いものが宿便として腸内にたまっていく。
しかも食べているものが体に悪いため、よけい汚れていく。
 それによってつくられる血が汚れて、体内を巡りやがてさまざまな病気を作っていく。がんもその一つだという。

 だから、がんを切って取り除くだけでは何の解決にもならず、まずは食生活を変えて腸を浄化しなければならない。
癌を切ったり、抗がん剤という健康な細胞にもダメージを与える劇薬で癌を治そうとするのは、いかにも表に現れた「症状」だけに焦点を当てて病を治そうとする西洋医学らしい解決方法である。

 これはいわばモグラたたきをしているようなものだから、叩いても叩いても(切除)次から次と出てくる(再発、転移)。
肝心の親モグラそのものを退治しなければ本当の治癒という事にはならないのではないか。

 さて、がんには癌の役目があるという言葉を述べたが、それは癌というのは上述した経緯から発生するため、それが体全体に拡がるまえに一か所に集めて死に至るのを寸前で防いでいるのだという。つまり、がんというのは体の免疫システムの最終警告であり、はやく不健全な食生活を何とかしろという最後の叫びのようなものだという。

 先ほども述べたように、がん細胞というのは表に現れた症状に過ぎないため、それを生み出している元をたださなければならない。
それさえただせば、このムラキさんのようにたとえ末期の患者でも、驚異的な自然治癒力が働いて治癒してしまう。
 ほんとうに驚異的な力を持っている、人間の自然治癒力というのは。

 今癌と闘病している人もいるかもしれないため、あまり怖がらせたくないので詳しくは書かないが、本を読んでいるうちに抗がん剤というのはほんとうに恐ろしいと思った。
そもそも髪の毛が抜けたり、爪がはがれたりするものを「薬」と考えてもいいものだろうか、これこそ常識というものを働かせて、自分の頭で考えてみれば、まてよなにかおかしい、と感じないだろうか。

 抗がん剤というのはまさに対症療法のネガティブな意味での極地だと思った。
対症療法というのは、緊急の病気、たとえば骨折とか出血とか、心不全とかそういうその症状をとりあえず緊急に何とかしないと命にかかわるという場合にのみ本当の効果を発揮する。
しかし、生活習慣病、慢性病には逆に有害である場合が多い。

 癌は自然治癒力では治せない、だからそれと闘わなければならない。これもあたかも金科玉条の如く小さい時から頭に叩き込まれてきたこのましくない「常識」なのではないか、そしてその「常識」の壁が癌の真の治癒を妨げている、と僕は思うようになった。

 考えてみれば、人間と、食生活が人間化したペットにのみがんが多くみられる、という事実自体が何かを語っている。
もちろん、石原氏もいっているように彼の治療法を実行すればみんながみんなたすかるというわけではないだろう。
しかし、少なくとも試す価値はある、というのが僕の考えである。

 おもうに、物事に先入観が少なく、子供のように素直な人のほうがこの驚異的な自然治癒力を発揮しやすいのではないか。
なぜなら、薬にはプラシーボ効果というのがあり、素直に信じる人のほうが効きが良い、というのは科学的な実験でも証明されている。
もともとある驚異的な自然治癒力と、素直にそれを信じる力、それがかみあったとき「常識の壁」を溶かして、まさに現代医学では考えられないことが当たり前のように起こっているのだろう。
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