気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

The answer is blowing in the wind for...2500years

2019-08-26 08:39:59 | 日記

 江の島神社

 

 関東に住んでもう長いが、江の島に行ったのは初めて。
一緒に行ったのは同僚で、最近できた友である。年はまだ35歳くらいで、世代が違うと友情が芽生えにくい日本では珍しいケースである。
 彼を誘ったのは彼も写真を撮ることが比較的好きだと聞いたからだ。ただ、彼は僕と違って電車の写真を撮るのが好きらしい。撮る対象が違うので多少の迷いはあったが、まぁ、カメラを持って物を撮るといういう共通項があるので一緒に楽しめるのではないかと思い誘ってみた。もちろん、それにくわえて日ごろ彼の性格に対して好印象を持っていたこともある。

 いってみてそれなりに楽しかった。
彼は江ノ電の写真を撮り、僕は八幡宮や江の島神社の写真を中心にとった。  
 今回行ってみて印象に残ったことのひとつに、おやじパワーの存在感である。

 江ノ電を撮っているときに見た何人かの高齢者(そういうと怒られるだろうが)のサーファーや、やはり高齢者の撮り鉄(電車の写真が好きな人)の姿を見て、まさに少子高齢化の進むこの国らしい光景だと思ったし、また、太陽のような笑顔を浮かべながらサーフボードをわきに抱えて歩く彼らを見て、何か頼もしささえ覚えた。

 

江の島神社

 

  

 時系列的にはその前なのだが、江ノ電の鎌倉高校前というところがあり、そこからすぐ近くの踏切が江ノ電の有名な撮影スポットらしく、すでに多くの人々が陣取っていた。面白いことに大部分が中国人とみられる人々だった。このあたりを舞台にした日本のアニメが中国で人気らしく、それでらしい。 
 彼はここからの撮影を楽しみにしていたのだが、あまりに人が多すぎてあきらめたようだ。

 僕から言わせるとあのぐらいの人であきらめるのかな?という感じだった。
寺社の写真だったらあのくらいの混雑はよくあることで、それでもなんとか潜り込んで最良のスポットを探して写すもの。
 それにしても周りから聞こえるのはほぼ中国語ばかり。実は江の島も中国人観光客と思しき人々がたくさんいて、ほんとうにあらためて中国マネーの大きさを感じた。
日本の保守層の皆さん、中国を怒らせたらあきまへんで、わしら食うていけまへん(笑)


鶴岡八幡宮

 

 その後、鶴岡八幡宮にいき源平池で満開の蓮の花を見た。いままで中開きの蓮の花は見たことはあるが、このように満開の花を見たのは初めてだった。それもこの一輪だけが残っていた。まるで僕らが来るのを待っていたかのように。僕は蓮の花が好きである。理由はわからない。ただ、好きである。

 平家も滅び、源氏も滅び、北条も滅び、足利も滅び、織田も、豊臣も、徳川も滅びた、そして、明治政府もみずから自滅するように滅びた(1945年の敗戦)。この世に未来永劫存在しうるものはない。これからも同じことが繰り返されるだろう。そうしているあいだにも毎年花は、咲き、散り、また咲きつづける。八幡宮の倒れた大イチョウももうそのあとから生まれた木がすくすくと育ち今では立派な若木になっている。その若木も数百年後には…また倒れ、そのあとからはまた若木がすくすくと育ち始める、そしてその若木もまた…

 

 

 

 鶴岡八幡宮



 そして一通り巡った後、この友とは鎌倉で別れそれぞれの道へ。

 

 

 湯島聖堂

 

 それから一週間後の今日、湯島聖堂を訪れた。
ここは前回の江の島と同じく、関東暮らしの長い僕も初めて訪れるところ。
 そしてこの場所で一番先に思い出すのが祖父のことだ。祖父は一生を学問にささげた人で、晩年上京した時に一緒に同行した叔母にどこに行きたいかと問われて、湯島聖堂に行きたいと答えたという。今思うといかにも祖父らしい願いだと思う。

 祖父は若い時に関東に暮らしたことがあり、この場所には多分きたことがあるだろう。それにもかかわらず、晩年になってもどこに行きたいかと問われて湯島聖堂に行きたいと答えたという祖父に…微笑を禁じ得ない。

 湯島聖堂といえば論語、論語といえば孔子である。

 


 孔子像

  この孔子像の前で撮影していると、真後ろの石段に座っている白人の男性がいた。何をしているのかと思いきや、この像を写生していた。
この像を写生するということは、アジアの歴史、文化に対して相当造詣の深い人ではないかと勝手に想像した。
 仏教もそうだが、論語も僕らが学校で習うテキストはみな難しい漢語であり、そういうものに抵抗のない人はいいだろうが、僕のようにそれだけでアレルギー反応を起こしてしまう人間とっては、たぶん、成人になってあらためてアジアの生んだこの二人の大巨人の思想に興味を持つまでは縁が遠い人も少なからずいると思う。

 それは非常にもったいない。
僕はもうずっと前だが、NHKの番組でこの論語についてある学者(坂田 新 先生だったと思う)が解釈しながら語るものがあってそれをたまたま見ていたことがある。
 最初は何だあの論語か、と思いながら聞いていたのだが、聞いているうちにしらずしらずひき込まれた。何に引き込まれたか?それは論語を通じて見えてくる孔子というひとりの人格の持つ美しさである。

 そう、ちょうど同じころインドにいたもう一人の巨人、ブッダのことを書き記した原始仏教経典を通じて伝わってくる、ブッダというひとりの人格の持つ精神の美しさに心動かされる、それとおなじ体験だ。 

 残念ながら、それ以降いつかは論語全体を丹念に読んでいこうと思っていたのにもかかわらず、まだそれは実現していない……
この、我々アジア人にとっては聖書にも匹敵するような大著をいまだに丹念に読んでいないというのは実はかなり恥ずかしいことなのかもしれない。
 今はもう少し時間をとって、このかつての僕の心の琴線に触れてきた孔子という人をもう一度よく知りたい、と思うようになっている。それは僕の知識欲からというよりも、美しいものに触れたい、感動したい、それによって自分の人格を少しでもただしたいという想いでからである。

 孔子のことばが小難しい漢語になっているのはわかる、そもそも孔子は中国人だからだ。ただ、なぜいまだに漢語のテキストを後生大事にありがたがって読み続けているのかがわからない。なぜ、わかりやすい邦訳を読み、その「読み方」よりもはるかに重要な「内容」により重点を置いた教育をしないのか、僕にはわからない。いや、わかるのだがわかりたくない、というのが本音である。

 

 

湯島聖堂内

 

 

  ブッダや孔子のことを考えていると、ちょうど永井荷風の文章に「倦怠」と題されたものがあると記憶しているのだが、その内容がいまよみがえってきた。
 それは2500年前からブッダや孔子、そしてキリストが人の守るべき道、教えを説いてきたにもかかわらず、われわれ人間のその後の歴史をみると彼らの教えは全く生きてない、と嘆いている文章だと記憶している。
 今問題になっている日韓関係のことを思うにつけても、荷風のあの文章が僕の中でよみがえってくる。

 人に被害を加えたのなら、そしてその人に詫びず、また、償っていないのなら、その人の前にいき詫び、できうる限りの償いをする、それが人の道であり、法の解釈などやメンツ、プライドなどという矮小なことにとらわれて人の道を誤ってはならない、という孔子やブッダ、キリストが今生きていたなら当然そう教えたであろうことがあれから2500年たった今でもあいかわらずできないわれわれがいる。
 荷風が数十年前についたため息を、真の良心を持つものは今でもつかなければならない。

 もちろんどのくらいの被害を与えたのかいまではもう正確にはわからなくなっているかもしれない。(その事実そのものを否定するものは論外として)
それならば、国際的な検証委員会を作ってもらい委員の選択なども全部当事国以外の国の人々で行い、検証すればいい。『なぜ』江戸の敵を長崎で討つようにして、全く関係のない分野である貿易上のペナルティをかけて火に油を注ぐ必要があるのか。

 韓国がGSOMIAから手を引いたことは確かに良くなかった。ただし、そのことを我が国は非難できないだろう。なぜなら、そもそも徴用工問題に対して全然関係のない貿易問題にすり替えるような感情的なことを最初にやったのは日本なのだから。

 日本の政策中枢部にいる人々は韓国がGSOMIAから手を引くとは予想していなかったような印象を受ける。それをやれば韓国はアメリカから強い批判を受けるし、なによりも、韓国自身の防衛も弱体化するからだ。それを重々承知の上でそれだけのリスクをとって韓国はそれをやった。つまり、それだけ『本気だ』ということだろう。
 「やられた」「いややってない」といった低いレベルの感情論争を、よりにもよって国家レベルの中枢にいる人々がやってはいけない。

2500年間のあいだ儒者、仏教徒たちが死に物狂いで学び、修行し、それを教え諭してきたあの努力は、あれはいったい何だったのか…この2500年という歳月は無駄だったのか…この長い年月の間書かれてきたおびただしい聖典の数々、建設されてきたおびただしい寺院、聖堂の数々、それらはまったく無駄だったのか…

 The answer my friend is blowing in the wind......
 

 

 

湯島聖堂
 

 


 

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確信的楽天主義を通す

2019-08-12 04:52:08 | 日記

 

 今日は同じ信仰を持つ友と一緒に参拝をした。
彼はすこぶる善人なのだが、処世上手な人ではないのでいろいろと苦労している。
しかし、僕にできることは限られているし、また、僕が何かしてやることはかえって彼のためにはマイナスになることがわかっているので、僕はとにかく遠くから見守ることにしている。

 彼を見ていると、やはり人生というのはよくできたトレーニング場だと思う。どうしても自分の足で這い上がらなければならないような状況がなければ人間は向上しない。それはたぶん、あの世では肉体がないため(つまりブッダの云う老いや死、病苦、人間関係苦などがなく)自分を追い込むことができず、やはり自分の魂の向上のためにはこの世に生まれてこざるを得ないんだろうなと改めて思う。

 そういう僕自身も修行場でトレーニング中なので偉そうなことは言えないのだが、彼よりは数歩だけ前を歩んでいるつもりなので、とにかく歯に衣着せずいうべきことは言うようにしている。彼の素晴らしいところは、そういう僕のことばに対して今まで一度も逆切れしたことがないということだ。つまり、「器」がおおきくやわらかい。


 今僕のほうが数歩先を歩んでいるつもりと書いたが、それは魂のある一つの部分、一面だけであって、実は本当のもっと広い意味での魂の全体的な質という点では、かれのほうが進んでいる面があることにも気づいている。

 さて、腎臓結石の手術をした同僚だが、自分自身でも絶好調と豪語するくらいに順調に回復している。
ただ、僕から見て心配な点がやはりある。それはあらゆる病の根源である「食」と「生活習慣」を正そうという自覚そのものがないことだ。
僕がこれからは食生活を見直さなければなりませんね、というと、いやぁ、それは若いころの食生活のせいでこうなったので今は全く問題ない、先生もそういってる、という返事だった。

 僕はこれを聞いて、たぶんまた再発するだろうと思った。
人間の欲に対する執着というものはすさまじい、とにかくあらゆる言い訳、理由を作って現状を是認する。是認してとにかく楽、欲を満たそうとする。
彼は心臓も悪いのだが、喫煙も辞める意思は全くないようだ。
 この、人間にとって最も大切なものである健康を犠牲にしてでも、腹を切られようが、死や病苦の恐怖があろうが、目の前にある楽、欲の充足を選ぶという多くの人に見られる心理は僕の眼にはとてもとても興味深い。

 健康といえば、今健康診断の時期で僕も受けた。
血圧は「至適」(最高の結果)という結果だった。前にも書いたが、以前の僕は血圧そのものは高くないのだが、上と下の血圧の差が狭く、このままいくと心筋梗塞の危険があるということを知り、自分の食生活を変えることでそれを治した。 
 具体的には運動量を大きく増やし(体重が14kgほど減少)、油物や肉(どうしても食べたくなった時だけ少量の鶏肉と魚肉を取るだけ)をほぼやめ、大好きなつけ麺を食べる回数を減らし、玄米菜食中心に変えたことで実現できた。おもしろいほど上と下の血圧差が正常になった。薬は一切使ってない。

 僕はこの経験で、人間の健康は、あの中国のことば「医食同源」にもあるように、普段食べているもので決まるということを体験的に確信した。
そして、これもまた有名な東洋医学のことば、万病一元血の汚れより生ず、ということばも完全に腑に落ちる。なぜなら、食べるものが消化され、消化されたものが血液を作っていくからだ。

 ただし、そういう僕も今一つの懸念点はある。
そう、糖尿病である。ヘモグロビンの値が基準値内ではあるものの、かなり上のほうなのだ。思い当たることはある。2年前くらいだろうか、そのころから甘いパン類を食べすぎた時期があった。砂糖と今よく言われているグルテンという、健康に良くない2大要素を取りすぎていたからだ。

 このグルテンだが、調べてみるとライ麦パンがいいということが分かったので、しばらく食べていたのだが……これが酸味が強くて…さすがの僕も挫折してしまった。あれほど好きだった肉類、とんかつ、ケーキ菓子、ラーメン類を短期間にほぼやめたほどの意志力を持つ僕がである。なのでせめて甘いものを少なくするようにしている。
 これも甘党な僕にとって大変な努力と我慢を必要とすることだが、かなり健闘していると思っている。
なので今度の健康診断での結果を興味深く待っているところだ。

 実はこのヘモグロビン値の上昇で健康診断の担当医に心配している旨話したところ、あ、まだ基準値に入っているので大丈夫ですよ、との返事だった。
僕はそれを聞いて、人間の健康に携わる者のことばとしてはかなりふさわしくない言葉だと思った。
基準値に入っていても、それが上昇しているということはそこには何か原因があるはずであり、それを探って是正しなければ深刻な病に発展するという風に論理の筋道が組み立てられないことに軽いショックを受けた。

 糖尿病になれば、血糖値を下げる薬があるからいいということなのだろうか????
人間の体は機械やグラフではない。この中に納まっていれば大丈夫という風に単純に機械的にとらえては何か大事なことを見誤る。たとえわずかな変化でも、その変化をもたらした裏側に将来致命的な結果をもたらしかねない原因がある、という風に「読んで」いかなければいけないのではないか。
 
 もちろん、健康診断という一度に多数の人々を見なければならない場合、一人ひとり丁寧な説明はできないかもしれない。しかし医者というのは人の命を預かっている存在だ。そのことへの責任の重さということを自覚してほしい。

 おもうに、現在の人間が味わっている病苦の原因の大部分がたべるものを「うまくする」ことから生まれていることに思い当たる。それにくわえて、大量生産大量消費をかのうにする保存料や農薬、添加物といったものも大きな影響を与えている。 
それは生のものをそのまま食べている野生動物や、ジャングルのようなところで原始的な生活をしている部族の人々には、現在の文明人を苦しめているさまざまな慢性病がないということでもわかる。

 終身雇用も年金ももう頼れなくなっている現在に生きる我々にとって、最後の頼りの綱は健康しかない。
それがもたらす人生の実りを味わいながら、それに感謝の心をもち、なおかつ、悩んでも仕方がないこと(自分でコントロールできないこと)を考えず、健康の維持や自分の心の成長のようにコントロールできることにのみ意識を向けて、子供のように無心で生きていく、というのが僕の思い描く理想である。
 

 

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Kyuhee Park 珠玉の演奏

2019-08-05 02:57:14 | 音楽

Kyuhee Park. 'Un Sueño en la Floresta' de Agustín Barrios

 

 この非常に優れたギタリストの存在には実は数年前から気付いていた。
きのう、今日彼女の演奏を見、聞き返してみて、改めてその非凡さ、というか現在の世界に存在しているギタリストのなかでも10本の指には確実に入ってくる力を持ったギタリストだと感じる。  

 歴史に残る名曲と屈指の名演奏家、このような組み合わせにはそうそう出会うものではないが、この動画などはその幸運な典型例である。
しかも、それがわが日本から出て来たという事実。(名前は韓国名だが完璧な日本語を話すので日本生まれの日本育ちだろう〔のちに韓国生まれで日本と韓国の両方で育ったということが分かった。〕)
 
 それにしてもこの曲の持つ叙情性、豊かな感情量と繊細さ……僕が心から心服、尊敬するAgustin Barrios(正確な発音がわからないので原語で書きます)の手によるものだが、あらためて名曲だと思う。あたかも一人の女性の全人生をこの小さな1曲のなかに凝縮しきったかのような、そして、演奏しながらその女性になり切って見事に演じる名女優のような彼女の演奏。

 このような曲を十全に演奏するには、すくなくとも4,50年は生きてきた人でなければならないはず。しかし、彼女は見るところまだ若い。
ここが天才の天才たるゆえんなのかもしれない、自分の実人生での経験が未熟でも、作曲者がその曲に込めたものをほぼ直感的に感じ取り、それをあたかも自分が経験し、知っているかのように感じ取り、再現できる。その解釈力、感受力の説明不能な、不思議なまでの深さ。 
 そう、まるでBarriosのその人の魂が乗り移ったかのような迫真性。そしてそれを可能にする彼女のこの作品に対する心からの誠実さ、devotion、そのすべてがこの演奏に十全に凝縮している。

 「うまく」弾ける人はいるだろう、テクニックも彼女の上を行く人もいるかもしれない、しかし、ここで彼女がみせている誠意、献身、まごころ…の純度の高さにおいて、彼女の右に出るものはたぶんいないだろうと思う。芸術とそれを創造、表現するものの人間的本質がどれだけ大切であるか、それを教えてくれるようなとても貴重な演奏、映像である。

より音質のいい演奏 https://www.youtube.com/watch?v=fU-RJD9qRlU

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