気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

南果歩のこと

2017-10-09 22:34:07 | 日記
 今日は久しぶりにゆみを連れて昭和記念公園に行った。
祭日ということもあり大変な人出だった。

 ゆみの運動不足を解消するためにもとにかく歩かせたかった。
途中で、小走りを始めた姿を見たときはうれしかった。

 さて、話題は変わって、女優の南果歩が「ピンクリボンシンポジウム2017」(日本対がん協会、朝日新聞社主催)で発言した内容が波紋を呼んでいる。
現在彼女は乳がんを患っているのだが、抗がん剤治療をやめて代替え療法を行っているということを話したらしい。

 この発言が問題視されているらしいのだ。
要は、影響力のある人が公衆の前でこのようなことを言うと、「一般人に影響力のある著名人が、科学的根拠のない治療法を発信するのは、受け止める人が信じる可能性もあり危険だ。」とYahooニュースには書いてあった。

 僕はこれを読んで何かおかしくないかと思った。
まだ未成年の前で話したのならともかく、この講演会を聞きに来ているのはほぼすべてが立派な大人だろう。
大人として十分な判断力を持っているはずだ。

 仮に南果歩のファンで乳がんの患者がいたとしても、そんなに簡単にまねをするだろうか?
生きるか死ぬかの問題である、その人だけでなくその人の家族にも大きな影響を与える重要な問題だ。そういう問題を自分が好きな女優が代替え療法を行っていると聞いたからと言って、単純にまねをするだろうか。

 この記事を書いた記者は、この講演を聞きに来ている人を子ども扱いしている。
それに加えて、おそらくは製薬業界などのスポンサーの意向に沿った記事しか書けないからかもしれない。
 マスコミが必ずしも真実を報道しないということは、原発事故以来自明のことである。

 それと科学的根拠がない云々だが、そもそも代替え療法を行う人が通常の療法を行う人に比べて圧倒的に少ないわけで、そういう状況で客観的で科学的公正さを保った実験データを集められるはずがない。
 科学的な公平さを保った実験ができないのだから、「根拠がない」のは当たり前である。

 科学的根拠を得られるような環境にないにもかかわらず、代替え療法が効果がないと断定するのは、論理的に破綻してはいないだろうか。
治療効果がないと断定するには、科学的根拠を得られるような状況を作り、その結果、通常の治療を受けた場合と比べて効果がなかった、と結論付けなければならない。

 いいかえれば、科学的、客観的に正確な比較ができる実験をやりもせずに、結論を無理やり主観的に作り出しているわけで、これこそ『非科学的な態度』であろう。

 ゲルソン博士が、まだペニシリンが開発される前、いわゆる通常の療法を受けても全く治らなかった結核患者を、たしか450人という人数だったと思うが、彼の考案した代替え療法で治療した結果、99%(残りの1%も2年後に完治した)の患者が完全に治癒したという。
 こういうデータはどうなるのだろう、握りつぶされているのだろうか。


 記事を読むと、南さんが飲むはずだった抗がん剤は髪の毛が抜けていくものもあったという。
彼女は女優である。髪の毛が抜けるという副作用を心理的に受け入れられなかったとしても、それは自然なことではないか。
 そうまでしてもいきたいという人と、そこまでして生きたくはない、と考える人がいるのは自然だし、ましてや、見た目というものが重視される職業についている人であれば、後者のほうに傾いたとしても無理はない。

 通常の療法を受けるか、代替え療法を受けるか、という問題は単純にどちらが効果があるか、という問題だけではない。
これはその人の「生き方…死に方」の選択の問題でもある。そういう微妙な問題に、第三者がどこまで介入していいのか、という難しい問題がある。
 何はともあれ生きたい、生きなければならない、という人と、人間的な尊厳を保ったまま生きたい(死にたい)と思う人と…その人が置かれている立場や人生観、価値観によっていろんな考えがあるのは当然だし、それでいいはずだ。

 しかも彼女は、『「標準治療というのはデータに基づいた揺るぎないものだと、重々承知しています。(抗がん剤を止めたのは)個人的な決断です」と話し、あくまでも個人の決断で、万人に当てはまるわけではないということを強調したとも書かれている。』とまで述べている。
 ここまで断っていれば何の問題もない。

 ここまで言われてそれでも代替え療法を選択するのであれば、それはその人の責任であり、もっといえば、それはその人の選択の自由である。南を非難するには当たらないし、ここで南を非難することは、ひいては、その人の人生(生き方…死に方)の選択の権利を奪うことになる。他人がそこまで干渉する権利があるのだろうか。
 僕はないと思う。

 この記事を目にして以来、ずっとそんなことを考えていた。
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西行

2017-10-02 21:34:59 | 文学
 とう人も思ひ絶えたる山里の
           さびしさなくばすみ憂からまし


 『~特に右(上の歌のこと)の歌は西行の孤独感の深さを歌ったもので、この山里の庵に自分を訪ねてくる人もいないと観念しきった孤独な境界にあっては、さびしさこそが慰めであって、そのさびしさがなかったらここも住み憂いことであろうというのです。
 兼好法師も「徒然草」で[まぎるる方なく、ただひとりあるのみぞよき]といっていますが、こういう深く人生を生きた人たちが向き合ったさびしさ、無常観には現代に生きる我々にはとても思い及ばない醒めきった凄みを感じます。


 『』内は元首相の細川護熙氏の言葉である。
 この西行の歌と細川氏の解説は、ずいぶん前に発行された平凡社の「別冊太陽」に載っているものだ。

 この本には作家も含めてほかにも名だたる人々の解説が載っているが、そのどれもほとんど僕の心に残っていないにもかかわらず、この細川氏の解説だけは楔のようにしっかりと今でも僕の胸に刻まれている。それほどまでに鋭い…と思った。
 とくに「こういう深く人生を生きた人たちが向き合ったさびしさ、無常観には現代に生きる我々にはとても思い及ばない醒めきった凄みを感じます。」という部分は、「人生」というものを真に知悉した人でなければ書けない言葉であろう。

 いや、実は僕が初めてこの西行の歌と解説を読んだときには感じ取れなかったものを、今の僕は感じている。
つまり、初めて書店でこの雑誌を手に取った時から、今までの何年という時間が経過する間に、僕自身の立ち位置も変わった、ということだろうと思う。
 以前の僕はこの言葉の上を上滑りして読んでいただけだった。

 しかし今は…この細川氏のいう「西行の凄み」というものが、僕の心眼に〈見える〉気がする。

 僕はある芸術を違うジャンルの芸術と比べてみることがよくあるのだが、この歌を音楽でいうならバッハの The art of fuge フーガの技法を思い浮かべる。
グールドがバッハの作品の中でも白眉であるといった作品だ。

 いや、もっとわかりやすい対比はやはり小津安二郎の作品かもしれない。
あのどこにでもあるホームドラマのなかにそれとなくつつみこんだ「醒めきった凄み」…

 いずれにしても、今改めてこの歌と細川氏の解説を読んでみて、僕は日本の和歌というものの、いや西行の芸術のもつ「深度」のあなどりがたさを見せつけられたような気がする。

 
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