気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

Canon Eos Kiss X10開封の儀とニコンへの想い

2020-03-10 03:40:25 | 写真

 

昨年買ったニコンのローンがちょうど今月で終わるので、意を決して(笑)新しいカメラを買った。
今度はCanonである。

 

 

 

機種はEos Kiss X10 Canonのカメラの中では初心者向けの一眼レフである。
腕はともかく経験の長さから言うと僕はもう初心者ではないが、どうしてこのカメラを買ったかというと、まずはデザインが気に入ったからだ。
いやデザインというよりもこの色、ホワイトが気に入った。

 

 

どうだろう、まず僕のような中年といわれる年代で、しかも男で、しかも日本人で、こういうカメラを買いたいと思う人はかなり稀なのではないだろうか。
そう、僕は変わりものなのかもしれない(笑)それは十分認識している。

 

 

 

あと、なぜいまさらエントリー機を買ったかというと、要は経済的事情である(笑)
それと軽さだ。写真を撮るときは結構歩く。そのときに重いカメラだとこれが結構こたえるのだ。
プロのカメラマンでもこのことを指摘する人は多く、僕もその例外ではない。
特に僕は肩こりがひどく、すぐに肩に鉛が入ったような感覚に苦しめられる。
そういう人間にとっては軽量のカメラはありがたい。

 

このロゴに愛着を感じる人も少なくないだろう。そう、ちょうどパソコンのappleのロゴに愛着を感じるように。

あと、これを言ったらカメラメーカーに嫌われると思うが、今のカメラはエントリー機でも風景写真を撮るだけなら、ほぼほぼ高級機と同程度の性能があるからだ。スポーツ写真や動物、子供、鉄道などの動きのある物を撮る人はやはりそれなりのカメラを買わなければいけないと思う。
ただ僕はそういう写真はほぼ撮らないのでこれで十分だと思った。
ちなみにその値段はレンズも合わせて8万円台である。

 

 

 

ストラップもつけたところ。
一つ残念なのはこの色にあうレンズ(18~55mm)がこれだけらしいのだ。
やはりこういう色のカメラを使おうとするのは僕のような変わり者だけなのだろうか、ほかのレンズはほぼ黒かキャノン独特のあの灰色というか肌色というかあのレンズだけなのだ。これが残念で仕方がない。

キャノンさんにはぜひこのカメラにあうレンズ群を作ってほしい。オーダーメイドで多少高くなってもいいから、と思っているのは実は僕だけではないのではないか。

 

 それとこれはニコンに対する僕なりの苦言なのだが、今回なぜキャノンのカメラを買ったかというと、ニコンのカメラにはエントリー機でいいものが少ないということである。そこから『僕が』感じ取れるのは、やはりニコンはわかる人だけが使ってくれればいい、やがては我々のカメラを使うようになるから、という姿勢である。

 そういう姿勢を否定するつもりはない。ないが、それはつまるところ自社のユーザーを限定していくということであろう。
レンズ交換式のカメラの場合、それぞれのメーカー独自のレンズがあって他社のレンズはアダプターを買わない限りつけられない。
それがつまりは、一度自社のカメラを買った人はずっと自社のカメラを使い続けていく傾向が強くなり、ユーザーが逃げていきずらいということで、ある意味メーカーはそれにあぐらをかいてきた面もあるのではないかと思う。

 特にニコンのような100年近い伝統があるメーカーでそのレンズ群が質、量ともに一つの資産といっていいほどのハイレベルなものを作ってきたメーカーであればよけいそう考えるのも無理はない。


 だが、だがである。それはつまるところ、ニコンも営利を追求しなければならない私企業である以上、新たなユーザーをどんどん増やさなければならないという、まぁ、資本主義の原則を無視していくことになりはしまいか。
自社のレンズしか原則的には使えないというのはたしかにユーザーの囲い込みには有利に働く。だが、同時にそれは新規のユーザーが他社のエントリー機に惹かれてそのメーカーのカメラを買ってしまった場合、逆の効果をもたらすだろう。

 そう、その新しいユーザーは当然ニコンのレンズを付けられないので(アダプターを使えばできるが、そこまでして使う人はかなり少数派であろう)そのメーカーのカメラを使い続けるだろう。ニコンさんはそこがわかっているのだろうか?と僕は思うのだ。

 キャノンはやはり新規ユーザーの獲得に力を入れてきたのだろう、エントリー機の品ぞろえは多彩である。
だからこそ、いま最もシェアの大きいメーカーはキャノンであり、それに反してニコンの営業利益が悪化しているのは広く知られている。


 確かにそういう姿勢を否定はしない。たとえば、Leicaのようにやはりわかる人が使ってくれればいい、というメーカーもあるから。
ただ、はたしてニコンにライカのようなブランド力があるのだろうか……という点で僕には不安がある。
というのも、もしそういう姿勢を貫くのならもう少しニコンにしかない個性のようなものを創造しなければならないのではないか。

 正直に言って、ニコンのカメラからはそういうものを感じないのだ。
わが社の個性はその性能である!と言いたげではある。ではその性能はそれほど傑出しているのだろうか、それほどユニークなのだろうか……

 これはニコンだけでなく、いや、カメラ業界だけでなく、車なども含めた日本の工業製品全体から感じるのだが、個性が乏しい気がするのだ。
どのメーカーもそのデザインはみんな似たり寄ったりに見える。丸っこいデザインが流行ればどのメーカーも丸っこい車を作る、カクカクした車が流行ればどのメーカーもカクカクした車を作る。ヘッドランプあたりのデザインも同様である。

 大衆車を作るメーカーならそれもいい、しかし、「わかる人だけが乗ってくれればいい」という姿勢を貫くのであれば、それではいけないのではないか、そのメーカーにしかない性能的特性(カメラであればフジフィルムなどやオリンパスなど)やデザイン上の特性(これもフジフィルムはとてもユニークだ)パソコンメーカーであればやはりアップルである。


 正直言えば、ニコンはどっちつかずなのだ。どっちつかずであるにもかかわらず、わかる人だけが使ってくれればいい、という高尚なプライドを持っておられる。
ブランド力をつけるには、ユニークでなけらばならない。ユニークであるには独自の価値観を持ちそれを貫く強さがなければならない。
あのアップル創業者、スティーブ・ジョブスがいったように、Crazy enogh to change the world. でなければならないのではないか。

 これは、空気を読むことを重視し、周りから浮き立つこと、人と違うこと、を特に嫌う文化的雰囲気の中にいる日本人には特に困難を伴うだろうとおもう。
だが、もしニコンのような姿勢を貫こうとするのであれば、それは絶対に持たなければならない。

 Leicaのように性能面では日本のカメラメーカーの後塵を拝してきたメーカーが、なぜいまだに同程度かそれ以上の性能を持つ日本製カメラの数倍の値段で売られているのか、なぜ人々が(もしかしたら日本人は特にかもしれないが)いまだにLeicaのカメラを神器のように重々しく崇め奉っているのか......
なぜ、性能面では日本車より劣る欧州製の車がいまだに高値を付けてうれているのか……

 ここのところを深く分析しないでニコンのような姿勢を貫くのは危ない、と僕は思う。
以上、ずっと愛用してきたニコンに対して辛口の苦言を呈してしまったが、それも、世界に冠たる性能を誇ってきたそしていまでも誇っているニコンに対する日本人としての思いゆえである。

Are you crazy enogh to chage the world?

スティーブ・ジョブス自身の声で語られたCM

 

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ソール・ライター展 完

2020-01-21 04:08:52 | 写真



 

 渋谷はBunkamuraで開催されているソウル・ライター展を見てきた。
一緒に行ったのはいつも美術展にはよく一緒に行く、自画像を描かせたら一流の友人である。
終わった後の感想を彼に聞いたら、さすがは彼だった、ソウル・ライターの構図の妙を見て取っていた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 例えば上の二つの写真などはその典型例である。主題であるはずの風景を大胆な切り取り方で極小化して、本来はわき役であるはずの傘や目の前の障害物を大胆に前面に浮き上がらせて主客の転倒をこころみている。さらに2枚のうちの上の写真は、赤という色を浮き上がらせて下の風景とともに強い存在感を持たせている。
 こういう構図の切り取り方は日本の浮世絵の画家がよく使った手法で、これをみて、やはり視覚芸術のセンスというものに国境も文化も関係ないのだなと思った。

 




 

 


 この写真などもまさに構図の妙をいかんなく発揮している写真だ。傘の大胆な切り取り方とその見事な配置の仕方。
そして本来なら主役であるはずのこのカップルを傘で隠すことによっておこる主客転倒の妙。さらにはいましがた恋人からもらった花束が語る物語、そして、見逃してはならないのがこの花の鮮烈な赤。全体の色が暗いので非常に引き立っている。
 これらのどれをとっても完成している。もしこれを偶然あるいているカップルを見て撮ったのだとしたら、まさに手練れの剣士並みの神業である。



 

 

 

 そして構図の妙といえばやはりこれも入るだろう。これは尼僧らしいが、大きく三角形に広がった黒いマントとその背景の白との対比、この背景はいわゆる白とびと言って写真の世界では避けなければいけないものとされている。だがライターにとってそんなことは全く関係ないかのようだ。
 ストリートフォトグラフィ(日本では一般にスナップ写真と言われているようだ)ではほんとに一瞬のチャンスをとらえなければならないので、白とびとか黒つぶれなんて気にしていられないし、実際この写真において一番大切なのは、このばっと風になびく三角形の黒と後ろの白との鮮やかな幾何学的、色彩的対比であり、色が飛んでいるとかつぶれているとかいうことはもはや枝葉末節であり無視していいことである。

 

 


 

 二人のスカートの上下の色がさかさまになっていてとてもおもしろい対比を構成している。
これがもし、彼女たちの頭部まで入った全体像だとこの色の対比のおもしろさから焦点がずれてしまい、何がテーマなのかあいまいなものになってしまう。腰から下を切り取ることによってその対比が強調されて写真としてとてもセンスのいい、粋なものになっている。

 

 

 

 

 


 そして彼の写真を特徴づけているもう一つの要素は幻想性だろうと思う。
上の写真なども多分雨と蒸気か霧のようなものがかかっていてその中にやはりここでも傘と女性のシルエットが浮き上がっていて、いかにも幻想的な雰囲気を生み出している。まるで絵画のような美しい写真だ。

 

 

 

 

 

 

 そしてこの写真も同様、おそらくはどこかカフェかレストランの中からガラス越しにとったものだろうが、この光景ををみて「あぁ、なんてきれいなんだろう!」と思う気持ち、それがうみだした一瞬のアートである。ストリートフォトグラフィーではこのように濡れたガラスや鏡を使った作品が多く、以前このブログで取り上げたヴィヴィアン・マイヤーなどもその手法の達人だったが、彼の場合、そこに幻想性というかロマンティシズムというか、そういうものを見出して表現する達人と言っていい。

 

 

 

 

 

 これなどもしかり。

 


 

 

 これも雨の日のガラス越しの光景。
幻想的であると同時に、僕などはなんともいえないノスタルジックなものを感じて、なにか記憶層の深~いところまではいっていくときのあの心地よさをあじあわせてくれる。

 

 

 

 

 

 

これなどはおそらくファッション雑誌のカメラマンだった時にとったものだと思うが、女性をダイレクトに写すのではなく,きれいな柄のついたガラス越しにとることによって生まれるなんとも言えない幻想性……

 

 

 

 

 これなどもわざと女性からピントを外し、なおかつガラス越しかガラスに反射させた顔をとることによってうまれる二重の幻想効果。お見事としか言いようがない。

 

 

 


 


 この写真などはもうファッション写真の域を越えてもう完全にアートと呼んでいいレベルに達している。これは幻想性というよりは装飾の美しさが引き立つが、顔を小さく配置し周りを取り巻く花の領域を大きくとることによって生まれる構図上の面白さも見逃せない。

 

 

 

 

 あと絶対に忘れてはならない彼の特徴は、「色」へのこだわりだろう。
この傘の赤……ちょっと言葉にするのは難しいのだが、構図の妙と相まって、周囲のモノトーンな色合いとの鮮烈なまでの対比。なんとも言いようのない味わいを醸し出している。

 

 

 

 

 

 僕らはこういう光景は実は普段無数に目にしているはず。でも、大部分の人々は気にも留めないだろうと思う。
しかし、この写真家はこういうものを宝石のように貴重なものと感じ、なおかつその美しさが最も洗練された構図に配置して瞬時に切り取る。この前面に出た赤とオレンジの美しさ、それが濡れたガラスに反射していることによって生まれる装飾的洗練と何度も述べてきた幻想性。
もはや多言はいらない、素晴らしいの一言。

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晩秋

2019-12-02 16:50:04 | 写真

 

 

 

 

 

 ようやく先週鎌倉の紅葉を撮ってきた。幸い間に合ったみたいでよかった。
 今年は明月院と円覚寺での写真が中心になった。中に入ったのは結構久しぶりで、そのため以前訪れたときにはなかったものを今回は見ることになった。
それは御朱印をもらう専用の窓口が作られていたことと、例のこのお寺の有名な撮影スポットである丸窓からの庭の風景を写す人が長蛇の列を作って順番待ちをしていたことだ。

 

 


 

 

 

 そのことで御朱印をいろいろなところでもらうことが一種のブームになっていることを知ったし、また、あの例の丸窓の写真がなにかの理由で急に有名になったのだろうということを知った。御朱印の窓口では、御朱印とは本来先祖のことを想い写経をしてそれを納める時にもらうものであるという旨のことが立て看板に書いてあった。そういうことが書いてあるということは、観光地のスタンプ感覚、ただ単に御朱印をもらえば御利益をもらえるという発想で来てもらっては困るというお寺側の意思表示だろう。
 僕はこれを読んで改めてこのお寺を見直すような気持ちになった。

 

 

 

 

 

 


 それにしてもおもうのは、この御朱印ブームにしても、あの丸窓の写真に長蛇の列ができているのを見ても、また、ユーチューブでもスピリチャル系の動画が驚くほどたくさんアップされているのを見ても、ここ10~5年来それまでとは打って変わって精神世界のことに対して関心を持つ人々が増えてきたことをはっきりと感じる。
 そのこと自体は素晴らしことだと思う。時代の潮流は変わっていることは間違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 鎌倉の街を歩きながら思ったのは、あぁ来てよかった、ということだった。またこの地にこれたことにたいする安ど感、解放感…僕にとってはこの街そのものがおおきなパワースポットである。何十年たっても変わらない街並、これからも大きくは変わっていかない街並み、宗教的浄寂…が実際に日帰りで足を延ばせる場所にあり、望めばいつでもそこに行けるという環境にいるということの幸福は言葉にできない。

 

 

 


 

 

 

 でも、このような場所とそれにかかわる趣味が生活圏内にあった事は僕にとって本当に幸いだった。

 

 


 

 

 

 

 よく坊主〇儲けとか、葬式仏教とかとかく仏教をひぼうする言葉があるが、たとえ一部にはそういう仏教徒がいるとしても、上記の明月院の但し書きにも表れているように、まじめにこころただしく精進、行に励み、ひとびとをみちびいている仏教徒も大勢いるわけであり、また、そのようなひとびとが守っている寺院、神社が存在するおかげで、魂の平安、調和を取り戻している人々は大勢いることであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 とかく日本では宗教というと、怪しいことの代名詞のようになっている観があるが、今回晩秋の鎌倉をあるいてみて、案外非常に大切な役割を果たしているのではないかということを思った。

 

 

 

 

 

 

 

 今年の紅葉撮影はこれが最初で最後だろう。北鎌倉だけの撮影になったが十分に満足した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 海外のユーチューバーの写真動画をよく見ているのだが、それらをみているとやはりいい写真に仕上げるには画像加工というのが不可欠であることを感じる。
現在僕が持っている加工ソフトはニコンのCapture NX-DとフリーソフトのGimpだけであり、たぶんこれらだけでは不十分な時が来るだろうと予測している。おそらくLiteroomやPhotoshopを使いたくなる時がもうそこまで来ているという予感がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 画像を加工していると、なにか「創っている」という気持ちになる。いままでのただ現場で撮影しただけだと、何か受動的過ぎてつまらないのだ。もちろん、構図や物象の切り取り方などにそのひとのオリジナリティーが現れるのだが、どうもそれだけでは満足できなくなってきている。

 

 

 

 

 

 

 

 やはり「なにかしたい」のだ(笑)
これからどんどん撮影が面白くなるという予感がしている。

 

 

 

 

 

 

 

 今は物事を学ぶ側にとっては本当にいい時代になった。ほぼ、ユーチューブやウェブの内容、本だけでかなり高度な技術も身に着けられるようになっている。
実は写真は特に好きだったわけではなくて、以前お付き合いしていた女性からぜひ始めて見るようにと勧められたのがきっかけだった。それが今、僕の生きがいといってもいい人生の相棒になっている。本当にいい置き土産をしてもらったと思っていて、心の底から感謝している。

 

 



 

 

 ということで、僕のカメの歩みのように遅い写真道はこれからも続いていきます。

 


 



 

 

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時空の彼方へ

2019-05-19 23:17:24 | 写真

Creating Dramatic Self Portraits (feat. Fiona Lark)

 

 冒頭の映像だが、これは僕がよく見る、そしてその腕前の確かさをこよなく尊敬するSean Tuckerという写真家、映像作家がつくった映像である。(彼のウェブサイト

この映像で彼が紹介しているのは、Fiona Larkという、たぶんまだアマチュアの写真家だ。
 この女性の写真、本当にいい。

 最近、ぼくは横浜に行きその時に見たハイキー(露出を明るめにとった写真)の写真にひどく惹かれたものだが、彼女のはそれとは正反対のローキーの白黒で、しかも、昔のレトロ風な写真に彼女自身が加工したものである。人によっていろんな感じ方はあるだろうが、僕がどちらに「より」惹かれるかといえば、やはり彼女の写真のほうだ。
よりロマンティックで神秘的、内省的で、そしてなにか「求め続ける」ようなものがあるからである。この形容は風景写真だけでなく、彼女のセルフポートレート写真にもあてはまる。
 とくに彼女のセルフポートレートのセンスは数段向こう側に突き抜けている。こうしてみてみるといいなぁ、と思うだけかもしれないが、ちょっとあれほどのものは撮れない。

 彼女が撮っているところは、イギリスのレイクディストリクト(湖水地方)といわれる風光明媚なところで、僕も一度行ったことがある。
まぁ、日本には多分あれほどの広さで、なおかつあれほどの「近代文明の手あかのほぼついてない、古代からの自然のままの景観が残された」景勝地はないだろうと思う。いま、たまたま「死」について書いたが、もし僕がもうあとわずかしかこの人生の時間が残されていないとなった時は、その時の環境さえ許せばこのレイクディストリクトをいま一度見ておきたいと思うだろう…それほどの、それほどの美しい場所である。

 彼女instagram写真(冒頭の映像では4分3秒と16分34秒あたりから)。

 

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新緑の鎌倉 2019

2019-05-07 03:15:53 | 写真

 

円覚寺

 

 

 

 

 

 鎌倉の新緑を見てきた。
ゴールデンウイーク中とあって混雑は覚悟していたが、案外それほどでもなかった。新しいカメラでの初めての鎌倉撮影だった。
円覚寺の新緑は期待通り。

 

 

 

 

 

 

円覚寺

 

 

 

 

ほとんど朽ちかけた老木からこんな新緑が!

 

 

 

 

長寿寺

 

この日は長寿寺が珍しく開門しており中に入った。
ここは足利邸のあとに尊氏の息子の基氏が寺を建てた。なかに尊氏の墓がある。
この日本史の中でもとびぬけてエキセントリックな男に思いを寄せる。
信長や秀吉のように日本史の中でそのスケールの枠を大きく突き破る人物はいるが、尊氏にはこの二人にあるような酷薄さがない。
少なくとも僕には感じられない。それに加えて、尊氏にはこの二人にはない何とも言えない人間味がある。それでいて戦の才は超一流。
しかし、この長寿寺はそんなエキセントリックな男にゆかりのある寺とは思えないほどの静謐さに包まれている。

 

 

 

 

 

 

長寿寺の庭

 

 

 

 

 

 

英勝寺

 

この日は偶然和服姿の女性がいて、さっそくモデルになっていただいた。とはいっても許可を得たわけではないが。
この寺は前にも紹介したとおり、あの太田道灌の邸宅があったところである。尊氏同様このひとも戦の名人だったが……
やはり最後があまりにも悲劇的だった。
出来すぎる男は最後は主に嫉妬され、疎まれ、畏れられ、遠ざけられるというのは古今東西よくみられる。
黒田官兵衛然り、中国史の韓信然り、彭徳懐然り、呂不韋然り、周恩来、曹操につかえていた頃の司馬懿しかり、
このなかでかろうじて殺害されずに済んだのは官兵衛と周恩来そして司馬懿だけだが(彭徳懐と呂不韋は直接手を下されたわけではないが、事実上殺されたのと同じようなものである)、それも白刃の上を素足で歩くようなきわどい、ほんとうに紙一重で命をつないだという印象である。
しかし今はこの英勝寺にしても、長寿寺にしても、そんな歴史の激流にもまれた人物にゆかりのあるところとは到底思えないほどの平和と静寂に包まれている。
 
ということで新しいカメラを使って始めて鎌倉で撮影した。前回、新しいカメラになっても古いカメラとあまり変わらない、などと書いたが、この写真を見ているとやはり何か違う、という気がする。とくに5枚目の長寿寺の庭の写真に出ている色合いのきめの細やかさ、繊細さは古いカメラでは出せなかったと思う。
とにかく天候に恵まれた本当に良い日よりでした。

 

 

 

 

 

 

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