僕のブログのアクセス記録を見ていると、2年ほど前に書いたルノワールに関する記事を見ている人が多いことに気づいた。
今読んでみてあれはもう2年も前の事だったのかと思う。
実は今開かれているはずのルノワール展にも行ったのだが、そこでもこの作品は来ていた。
「あぁ、また会ったね」
まるで旧友にでもあったかのような気持ちだった。
やはりいいものはいい。
ルノワールというとどうしてもあの上流階級の人々のパーティーを描いた絵が有名すぎてすぐに思い浮かぶのだが、今回もやはりこのひとの本領は人物画ではなく、風景画にあるという印象を持った。
彼の作品はもう問題なく素晴らしいのだが、それよりもやはり今回も僕の気を引いたのは彼が残したといわれる言葉だった。
正確な引用はできないが、たしか、【この世には悲惨な事や残酷なことが多すぎる、もうそんなものはたくさんだ、だから私は美しいものを描きたいのだ】とかいうものである。
これをよんで、日本が生んだ世界のアニメーター宮崎駿氏の言葉と反響してくるのを感じた。
ユーチューブにアップされていた外国人の映像に出ていた言葉なので、英語であり日本語の原文はわからないのだが、たしか、【私がアニメーションを作るのは、人々がこの世のSharp reality峻厳な現実?を、たとえひとときでも忘れて夢を見てほしいからである】とかなんとかいう言葉だ。
おもえば漱石の草枕のあの有名な冒頭の言葉も同じようなことを述べている。
確かにこれは芸術作品の重要な役目であることは間違いない。
昔の人々が中国や日本の高名な画家が描いた水墨画を掛け軸にして床の間に飾り、ときおり夢の中に入っていったのも、芸術作品にその役目を果たしてもらいたかったからだろう。
それはもちろん音楽でも同じで、ゴールドベルグ変奏曲のあのアリアの部分も、とりわけグールドの弾いたアリアは、『その世界』に聴くものをいざなってくれる。
たとえ物理的時間にしてみれば、どんなに短い時間でも、『あの世界』は、この世(Sharp reality)に生きるものにとってたとえようもない桃源郷であり、たとえようもなく純Pureであり、たとえようもなく透き通っていて、それはもうたとえようもなく美しい。よくクラシック音楽の演奏家が、演奏中に恍惚、感極まった表情を浮かべているのを見るが、それはまさに『あの世界』にリアルタイムで入っている人の表情そのものである。(例えばこの映像の4分50秒あたりでグールドが浮かべている表情、4分30秒あたりから聞いてほしい https://www.youtube.com/watch?v=U0VsTnuipEE これなどを聴いていると、ベートーベンという人がいかにすぐれた芸術、美の紡ぎ手、創造主であったかということが感じ取れる。)
それはすぐれた芸術によってのみ表現可能なものであり、この世的な、つまり、濁った、作為的な人造物では絶対に表現、到達不可能な世界である。
僕には残念ながらそういうものを創造する力はなさそうだが、もし『仮に可能ならば』写真でそういうものを撮ってみたい、という思いはある。
だがそれは、あまりにも遠い、はるかかなたにのぞむ、まさに夢のような望みである。
今読んでみてあれはもう2年も前の事だったのかと思う。
実は今開かれているはずのルノワール展にも行ったのだが、そこでもこの作品は来ていた。
「あぁ、また会ったね」
まるで旧友にでもあったかのような気持ちだった。
やはりいいものはいい。
ルノワールというとどうしてもあの上流階級の人々のパーティーを描いた絵が有名すぎてすぐに思い浮かぶのだが、今回もやはりこのひとの本領は人物画ではなく、風景画にあるという印象を持った。
彼の作品はもう問題なく素晴らしいのだが、それよりもやはり今回も僕の気を引いたのは彼が残したといわれる言葉だった。
正確な引用はできないが、たしか、【この世には悲惨な事や残酷なことが多すぎる、もうそんなものはたくさんだ、だから私は美しいものを描きたいのだ】とかいうものである。
これをよんで、日本が生んだ世界のアニメーター宮崎駿氏の言葉と反響してくるのを感じた。
ユーチューブにアップされていた外国人の映像に出ていた言葉なので、英語であり日本語の原文はわからないのだが、たしか、【私がアニメーションを作るのは、人々がこの世のSharp reality峻厳な現実?を、たとえひとときでも忘れて夢を見てほしいからである】とかなんとかいう言葉だ。
おもえば漱石の草枕のあの有名な冒頭の言葉も同じようなことを述べている。
確かにこれは芸術作品の重要な役目であることは間違いない。
昔の人々が中国や日本の高名な画家が描いた水墨画を掛け軸にして床の間に飾り、ときおり夢の中に入っていったのも、芸術作品にその役目を果たしてもらいたかったからだろう。
それはもちろん音楽でも同じで、ゴールドベルグ変奏曲のあのアリアの部分も、とりわけグールドの弾いたアリアは、『その世界』に聴くものをいざなってくれる。
たとえ物理的時間にしてみれば、どんなに短い時間でも、『あの世界』は、この世(Sharp reality)に生きるものにとってたとえようもない桃源郷であり、たとえようもなく純Pureであり、たとえようもなく透き通っていて、それはもうたとえようもなく美しい。よくクラシック音楽の演奏家が、演奏中に恍惚、感極まった表情を浮かべているのを見るが、それはまさに『あの世界』にリアルタイムで入っている人の表情そのものである。(例えばこの映像の4分50秒あたりでグールドが浮かべている表情、4分30秒あたりから聞いてほしい https://www.youtube.com/watch?v=U0VsTnuipEE これなどを聴いていると、ベートーベンという人がいかにすぐれた芸術、美の紡ぎ手、創造主であったかということが感じ取れる。)
それはすぐれた芸術によってのみ表現可能なものであり、この世的な、つまり、濁った、作為的な人造物では絶対に表現、到達不可能な世界である。
僕には残念ながらそういうものを創造する力はなさそうだが、もし『仮に可能ならば』写真でそういうものを撮ってみたい、という思いはある。
だがそれは、あまりにも遠い、はるかかなたにのぞむ、まさに夢のような望みである。