気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

宴が終わって

2014-06-26 17:03:11 | 日記
 ワールドカップで日本の敗退が決まった。
ワールドカップは30年ぐらい前からずっと見ている。まだ日本ではサッカーはマイナーなスポーツだったころだ。
マラドーナの伝説になったあの有名な5人抜き(ディフェンダーを一人で5人抜いてゴールを決めたプレイ)もリアルタイムで見たひとりである。

 今回は日本の弱さが際立って見えた。
よく言われるすぐれたストライカー(シュートを決める人)がいないこと、それにくわえて、個人の技術も南米や欧州の選手に比べるとかなり劣っていることが分かった。

 とくに、ドリブルで相手のディフェンダー(守備の人)をぬいてゴールを決められないシーンが多かった。
ドリブルで抜くだけの技術がないのだろう。だから、苦し紛れにロングシュートを打ったり、パスで逃げたりすることがほとんどだった。
そのため、すぐに相手にボールを奪われれてカウンター攻撃を受ける。
唯一まぁまぁの技術を持っているなと思ったのが、本田だけだった。

 野球に例えると、今の日本チームと欧州、南米のチームとのレベルの差は、プロ野球と大学野球ぐらいの差があると思う。
しかしそれも無理はない。日本でプロリーグができたのがせいぜい20~30年ぐらい前でしょう。欧州や南米は正確には知らないけど、たぶん100~150年以上の歴史があると思う。これで簡単に勝てたら彼らが泣いてしまう。

 日本の野球はいまや世界最高水準であることは証明されている。
しかしそこまで行くには、やはり100年ぐらいはかかっているのではないか。野球が日本に伝わったのが明治初期、すでに第二次大戦まえにはプロ野球ができていた。
 まず競技人口が大きくならなければならない。そうなれば自然とその中から優れた才能を持った選手が出てくる。

 僕はオランダかドイツが優勝するのではないか、と予想している。
まだブラジルの試合を見てないので彼らがどれだけつよいのかわからないので、自信はないが。
 
 話は変わって、僕はここ数日体調を壊して寝込んでいた。
思ったのは、一人暮らしの人間にとってやはり病気が一番脅威だということだ。
 一番困るのが食事である。

 まだ僕の場合はコンビニや弁当やが近くにあるのでいい。
これが遠い所に住んでいる人は、本当に大変だろうと思う。
 この年齢になると、ちょっと熱が出たりすると死を意識する。

 ただ、やはり思うのは犬のこと。
自分が死んだからこの子はどうするのか、と思う。
 そう思うと体調管理はしっかりしなければいけない。

 そして、今度あたらしい犬と一緒に住むとしても、子犬は無理かもしれないなと思う。
僕が最後まで生きているという保証がないからだ。なので、今度もし新しい子をもらうとすれば、飼い主に捨てられた犬になるのではないかと思う。

 そういえば、人間には長寿遺伝子というのがあるらしい。
しかし95%の人はこの遺伝子が働いてないという。
 この遺伝子を働かせるには、空腹状態をある一定期間継続的に経験しなければいけないという。

 なぜ空腹状態にならなければ活性化しないかということを考えてみると、これは勝手な僕の推論だが、人間がまだ野生動物だった時代、獲物が取れずに長期間何も食べられなくなった時に、
自分の生命を守るためにこの遺伝子が活性化するような仕組みができたのではないか。そうやって飢えをしのいで、次の獲物が取れるまで生命が持つようにしたのではないだろうか。

 Youtubeによれば、月に1回、3日間の断食をするとこの遺伝子が活性化するという。ユーチューブで「長寿遺伝子」と入力して検索すると出てくる。
ジュースだけで過ごすらしい。あるいは、リンゴだけで断食するというのもある。やってみると結構できるというけどどうなのだろう。

 おもえば、ブッダも若いころは断食をし、悟りをえたのちも生涯粗食を通した。
そのおかげで紀元前500年という大昔に、多分当時の平均寿命というのは30~40歳ぐらい(日本の縄文時代の寿命が30歳ぐらいだったというから)だったのではないか、85歳という驚異的な長寿を全うした!

 ヨガや仏教の行者で早死にしたという人はあまり聞いたことがない。
彼らは断食のほかに、瞑想をやる。瞑想中は特殊な呼吸をするので、それが体にいいことはわかっている。
 それに加えて、彼らは赤身の肉は食べないし。赤身の肉はがんや心臓病の原因になることはここ最近の研究でわかってきている。

 また、25%のカロリー制限をするとこの遺伝子が働き始めることも分かっている。
断食が無理でも、粗食にすればいい。たぶん玄米、菜食をベースにした食事が一番いいと思う。
また、赤ワインやブドウジュース、玉ねぎの皮、やピーナッツの皮の部分もいいらしい。
ただ、玉ねぎの皮などは調理できないので、粉末にしてお茶にしたものや、サプリメントにしたものも売られている。ネットで探せばすぐに出てくる。

 3日は無理でも、せめて1日だけ朝起きてから寝るまでジュースだけで過ごしてみようかなと思う。
とまぁ、とりとめのないことを書いてみた。
 いやぁしかし苦しかった、今回の風邪は。

 ちなみに、この長寿遺伝子を活性化させるための成分が一番入っているといわれている岡山県産のブドウ、ピオーネのジュースがお勧めです(^^)
楽天で僕はもう買いました。
ピオーネのジュース http://item.rakuten.co.jp/kagetsu/50228_360_kyo/




 

 

 

 
 
 



 

 
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老年期と孤独

2014-06-16 00:46:47 | 文学
 多くの人にとって老後の最大の心配はお金だが、先々どうなるかは誰にも分からない。もし、長生きしすぎて一文無しになったら、知人や周りの人にたかるが、どうにもならないと「野垂れ死にを覚悟するしかない」と言う。そして、死ぬまで働くことを勧める。お金にならなくても、何か人の役に立つことをする。
 老人になると孤独は避けられない。だから、老人の仕事は「孤独に耐えること。そして、孤独だけがもたらす時間の中で自分を発見する」こと。「孤独と絶望こそ、人生の最後に充分味わうべき境地」で、その究極を体験しないと「たぶん人間として完成しない」。そうやって自分の人生を再編集するために、老後の時間はあるのだろう。

「」内の文章だけが曽野綾子の言葉です。「老いの才覚」 曽野綾子


 曽野綾子の文章は10代の中ごろからよく読んだ覚えがある。
あのころ、ちょうど僕の中で「善」「悪」という問題が大きなウェイトを占め始めていて、自然、キリスト教作家であるこの人の作品にひかれていった。

 ある時期まで来ると、この人の文章から、なにか一段高いところから読者を見下ろすような雰囲気、臭いを感じ始めてきて、少しづつはなれていったのを覚えている。
それは宗教というものをバックグランドに持つ作家だからなのかとも思ったが、同じキリスト教作家である遠藤周作の作品を読んだときはそのようなにおいはみじんも感じなかった。

 やはり、そういうもの(宗教的バックグランド)とは無縁のところからきているのだろうと僕は感じる。
だが、そうはいっても、この人の文章は今読んでも、おもわず首肯せざるを得ないような、なにか洞察の鋭さ精確さを持っているような気がする。

 とくに『「孤独と絶望こそ人生の最後に充分味わうべき境地」で、その究極を体験しないと「たぶん人間として完成しない」。そうやって自分の人生を再編集するために、老後の時間はあるのだろう。』
 という言葉は、深くしみこんでくる。

  それにしてもこの「味わう」という言葉遣いの中に、なんとも言えない滋味がにじみ出ている。
そう、ここにはなにがしかの肯定感がある。
 「晩年になったら、人生にイエスと言えるようにならなければならない」
といったのは、敬愛する作家ヘルマン・ヘッセだった。

 この言葉は裏を返せば、何千かい、何万回、No!と叫んできたことのあかしでもあるだろう。
彼のような理想主義者であれば当然のこと。しかし、そんな彼でさえ、最後は人生にイエスと言えるようにならなければならない、といった。
 その背景にはやはり、神、そういうのが不適切であれば、この宇宙を作ったエネルギーとでも言えるだろうか、自分もその中の一部である以上、それを包み込んでいる「全体」を否定したまま死んではいけない、ということなのかもしれない。それは何となれば、自分自身を否定することと同じことだから。

 この世のありとあらゆるもの、清濁、美醜、善悪、正邪、条理不条理、すべてをありのままで「よし」としなければならない。
創造主の前では、否定すべきものなど何もないのだから。
よって、二元論的な対立構造でみる段階の「向こう側」に行かなければならないということ…ではないか
 
 と、ここまで書いてきたとき、やはりどうしてもレンブラントの最晩年の自画像が目に浮かんでしまう。

 そのNoからYesへ至るまでの過程を経験できるのが、「老年期の孤独」なのではないか。
僕は最近そんな風に考えている。 



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何か夢中になれるものを

2014-06-05 23:52:52 | 写真
レンブラントの妻、サスキア
 

パステル画教室というのをときどき受講している。
僕は絵を見るのは好きだが、かくほうは苦手である。

 この教室も絵が好きな友達がいなければたぶん受講していなかったに違いない。
それは僕の人生にとって大変な損失だっただろう。

 以前、やはり同じ友達とピアノを習ったことがあるのだが、才能のなさはいかんともしがたく、途中で挫折(自主的な退校)を余儀なくされた。
その時は、もうどうにもこうにもならない、という感じだった。右手と左手がどうしても一緒に動いてしまうのだ。
 大人になってから楽器を習っても弾けるようになれるなんて嘘だとわかった(笑)

 もちろん、個人差はあるだろう。
実際、僕よりも後に入った未経験(本人いわく、僕は信用してない)だったひとが、みるみる上達してあっという間にぺらぺらと弾けるようになっていくのを目の当たりにしたときは、
モーツァルトを羨望と嫉妬の眼で見たサリエリの心境がよくわかった(笑)

 このパステル画教室もそうなるのかな、という不安がずっとあった。
でも、今回はピアノの時と違って、うまくなれるかどうかは知らないが、少なくとも「楽しめる」という実感を得ている。
うまくなれるかどうかなんて関係ない、楽しいのだから、とさえ思っている。




 描いている間はあらゆる不安や恐怖が消え去るのだ。
よく精神療法の一つとして昔から絵をかくといいといわれている理由がよくわかった。

 描いている間は心が真っ白になる。
様々な色、とくに、突拍子もない色を混ぜるように先生に言われて、やってみると実際狙った微妙な色が出来上がるのを目の当たりにした時の驚きと喜びはなんとも言えない。
これはほんとうに精妙かつ熟練のクラフトマンシップ(職人気質)が要求される世界だなということも理解できた。

 そして、一番目から鱗だったのは、絵は「線」で描くのではなく「色」で描くのだということだろうか。
学校で習ったのはまず線で輪郭を描いて、その中に色を塗るということだった。
 しかし、僕が今回きづいた描き方は、ものを自分の目に見えるように「正確に」描くということ。

 考えてみれば当然かもしれない。
幾何学的な物質ならともかく、自然物や人間の顔に「線」などあるはずはない。あるのは陰影と色の違いだけである。
それを大雑把にとらえて「線」と認識しているにすぎないのだから。

 僕の先生は印象派的な絵をかくので余計そう思うのかもしれない。
いずれにしても、今はさまざまな「色」の織り成す世界に完全に魅了されている。

 
 


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