気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

yokohama on 4.29.2019 start using Nikon D7100

2019-04-30 16:23:50 | 日記


とある洋館 D7100にて




とある洋館で




これもとある洋館で





有名なフェリス女学院、教会をイメージしたすばらしいデザイン。





カトリック山手教会、中に入ると数人の敬虔な信者が祈りをささげていた。
あまりにも静かでシャッター音を立てることさえはばかるほどであり、中の写真は1枚だけ撮って辞めた。





山手教会の聖堂横にあった建物の扉。画像加工済み。





横浜市イギリス館の門にはまっていた装飾





山手教会の門柱





山手聖公会、外国の建築家(名前は失念)の設計。地味だがどこかお城を模していて、かなり冒険的なデザインではないか。






 以上がNikon D7100のデビュー写真です。使い勝手はD90よりも少し重くなった程度でほぼ変わりはない。画像はD90とくらべても僕の眼にはあまり変わったとは思えない……ブログにアップするぐらいならもう10数年前のカメラでも十分な性能を持っているのではないかと思う。
 いずれにしても、楽しかった。


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新緑とこれからの時代

2019-04-22 16:43:27 | 日記
 
 
 最近とみに昭和記念公園に出没している。
理由は犬の散歩である。最近は本当に東南アジア系の人を多くみかける。この公園は観光客はほぼ来ないので、彼らは観光客ではなくたぶん日本に住んで働いている人々だろう。
 
 日本の社会環境の変化を反映しているようで興味深い。
その中のある一組のカップルはゆみ(犬)を見て触ってもいいかといってきた。その表情はまさに善人そのものだった。
 みんなとても善良な人々に見える。こういう人々にはぜひ日本に住み着いてもらって、少子高齢化で国家が空洞化しているこの国の経済、社会保障を活性化してほしい。もはやそれなくしてこの国の将来はない。
 
 さて、カメラだがついに購入した。
今まで持っていた同じメーカーであるニコンのD7100である。2013年に発売された機種で、もう製造していない。そう、中古である。
 中古といってもその状態は非常に良く、おそらく前の持ち主はほとんど使ってないか、使っても数か月ぐらいしか使ってないだろう、と思うほどの状態だ。
 
 画素数も約2400万画素で現在出ている最新の中級機と同じである。僕が持っていたD90の画素数の2倍以上。それで約39000円(D90を買った時の値段はレンズ付きだったが約13万円ぐらいだったと記憶している、ボディーだけでも10万円ぐらいはしたと思う)
 たぶん、D7100が発売された時の値段はこれの2倍を優に上回る価格だったのではないかと思う。かなりいい買い物をしたと自分では思っている。僕のようなレベルのアマチュアカメラマンには十分すぎるほどのカメラだ。
 
 そしてさらにうれしいことに、僕のD90はその店で約8000円で売れた!最悪ただで引き取ってもらってもいいとさえ思っていたのでありがたかった。
 僕はこの経験で、1眼レフカメラというのは一種の財産なのだと思った。
 
 まだこのカメラは使っていない。早く使ってみたくて腕が鳴っている。
 
 
 さて、話は変わって最近大手企業が45歳以上の早期退職かそれが嫌なら配置転換を募っているというニュースをよく目にする。僕の大学時代のかつての知人も結構名の知れた大学を出て、一流企業である富士通に入社した。その富士通も業績不振でこの45歳以上の早期退職を募っているというので、彼の顔が浮かんできた。
 
 
 45歳以上というと、子供の教育費や家のローンなどで一番出費が多くなる年齢ではないか。今までは一流企業に入れば、よほどの悪質なことをせず普通に働いている限り65歳定年の年までは安泰に会社にいられた。
 そのつもりで子供の教育にお金をかけ、夢のマイホームを長いローンを組んで買った人も大勢いるだろう。
 
 
 いったいどうするのだろう…人ごとながら心配になる。今はまだ45歳以上という枠がはめられているが、おそらくだが、これからは徐々にその枠も下がっていき、ゆくゆくは年齢に関係なく本当の意味の企業の実力、社員の実力で会社に残れるかどうかが決まる時代が来るのではないか、欧米のように。
 
 
 そうなると長期にわたる人生設計ができなくなる。
そのため、今までのよう何十年にもわたる家の長期のローンなども一部の人々を除いて組めなくなるだろう。同じ理由で車や大型の白物家電などの耐久消費財などはいままでのようには売れなくなっていくにちがいない。
 
 
 高校や大学も公立はともかく、学費の高い私立に行ける人々はかなり限られてくるのではないか。
 日本の教育システムは日本独特の雇用システム(終身雇用)と一心同体といってもいいほど密接に結びついている。子供たちは小さいころから苦しい受験勉強に耐え、苦節十年少数の人々はそのかいあって一流大学に入り、卒業後は一流企業に入る。そのあとは定年まで安定した人生が約束されていた。
 
 
 そういう果実があるからこそ、あれだけの苦しい受験勉強にも耐えられるのだ。しかし、今回の一連の大手企業の動きを見て、どうもそういう流れがもう終わりかかっているように見える。どんなに受験勉強を頑張って一流企業に入っても、45歳ぐらいまでしか雇用が保証されない時代になりつつある。ということはつまり、「学歴の価値」というものがいままでの半分になってしまうということである。
 
 
 だからといって学歴社会が終わるとはもちろん思わない。たとえ人生の半分でも保障されたいと思うのが人情だから、それでもいい大学へ入るために大部分の人は一生懸命受験勉強に励むだろう。
 
 ただ、学歴の価値が半分になるということは、高校、大学の価値も半分になるということである。しかも今は少子化である。そういう時代になっても生き残れる大学はどれくらいあるのだろう…
 
 
 日本型社会システム(企業から学校教育まで一体となった終身雇用システム)が自分の人生を守ってくれなくなったらどうするのか?ユーチューブなどではだからこそ自分に付加価値をつけなければならない、と声高に説いている。
 
 
 しかし、そのようなことを言っている人々は、ごく少数の知的才能、ないしは起業家などのビジネスの才を持った人々ではないか。それを全体に当てはめるのは当然無理がある。大部分の人々は起業をする才能はないだろうし、仮に起業したとしても失敗する可能性が高い。国税庁の発表などによれば、起業した会社の5年後の生存率は約15%だという。
 
 
 では、それいがいの大多数の肝心かなめの人々はどうするのか…
むろん僕などにその答えがあるはずがない。ただ僕のようなものにも言えることは一つある。それはもう日本は今までのような豊かな国では明らかになくなるということだ。
 なぜなら、これからは国の豊かさを支える(支えてきた)中核である中産階級層の経済力が、この状況の変化に応じて総じて弱体化していくからだ。
 
 
 五木寛之の父親は戦前教師をしていた。
それが敗戦で職を失い、彼と彼の家族の人生は一変した。
その激動の人生を経た父上が我が子である五木寛之に望んだことは、手に職をつけさせることだったという。それが人の人生を最も安定させるということを肌で感じたのだろう。
 
 
 僕も実は、この最近流れてきた45歳リストラのニュースを見て真っ先に思ったことは、とにかく一番安全なのは若い時から手に職をつけるということだった。それ以外であれば公務員しかない。実際、今の学生の大部分は公務員志望だという。(これはこれで別の意味で暗澹たる気持ちになるが)ただ、みんながみんな職人になれるわけではないし、それでは世の中が成り立たない。
 
 
 では、どうすればいいのか?というこれからの日本で生きていくには非常に重要な問いが残る。
 これに完結明瞭な答えを持っている人は少ないだろう。
 
 
 しかし…結局最後には、僕の大嫌いな精神論、根性主義、というものが頭をもたげてくるのを禁じ得ない。大嫌いだが、これから来る不安定な時代を生き残れるかそうでないかを分けるとすれば、最終的にはここに行きつくのではないか…精神論、根性主義というと重くて暗いが、いいかえれば楽観力とでもいえるだろう。どんな状況になっても「何とかなる、してみせる」と思える楽観性、竹のような柔らかいしなやかな強さ。そしてありがたいことにこの種の強さは経験、体験の中から自然に身についていくものである。
 
 
 それと細かいテクニカルなことを言えば、長期にわって返さなければならないような身の丈を超える借金(その判断はもちろん難しいが、その判断が天国か地獄かを分けるだろう)を抱え込まないこと。そして、なによりも健康である。
 
 
 経済の専門家でも経済的なカウンセラーでもない僕が考えられることといえばこの程度のことしかないが、すくなくとも人生においてはある程度の経験を積んでいるつもりである。
 
 
 そして、最後に付け加えると、人生が流動化するということは、夫婦も含めて様々な家族関係も荒波にさらされることを意味する。つまり、一生が安泰だった今までには表面化しなかったことが表に現れてくる。
 その人がどんな人なのか、その人間性が本当の意味で試される時代になってくる、ということだろう。
 
 
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日々のこと

2019-04-08 04:50:23 | 日記

 

 

 年号が変わる。
正直特に思うことはない。ただ、自分もついに3つの年号を生きるのか、という感慨はある。

 それにしても、現天皇の生前退位が認められてよかった。あの御年で様々な公務をこなすのは相当お辛かっただろうと想像する。
他の仕事では定年退職というものがあるのに、皇室にだけそれがないというのはさすがに気の毒だと思っていた。

 現天皇のことを思う時、僕の胸によぎるのはやはり美智子様のことである。
ある意味、永遠の理想の女性像の一人といっていい。この想いに共感する男性は結構いるのではないか。
内面の美しさと外面の美しさが完全に調和していて、海外の王家でこれに匹敵するのはイギリスのダイアナ妃だけだろうと思う。

 ご結婚後、そのご容貌が変わるほどのご苦労をされた(であろうと推察する)が、とにかく、ある意味この世離れした人柄、人間性の良さというものがこの方ほど自然に外ににじみ出ているのは、あまり例をみない。それに加えて、文化的な要素と高貴な品格ゆえに抑制されてはいるが要所要所にはっきりと感じ取れる夫への愛。まさに永遠の女性(ひと)である。
とにかく、これからはゆっくりと、できうる限り静かに、今まではそのお立場ゆえに制限されていた人(女性)としての生を全うしてほしいとおもう。

 さて、話題は変わってカメラのことである。
今僕が使っているカメラはもう10年以上使っている。(途中、アクシデントで壊れて新しものに取り換えてもらってはいるが)
 そろそろ新しいカメラを買ってもいいかなと思い始めている。

 ぼくは肩こりがひどい体質なので、重いものを背負って撮影しているとすぐに肩が凝ってきて鉛でも背負っているかのような感覚になり、かなり苦しい。
なので小型のマイクロフォーサーズ形式のカメラがいいかなと思って、オリンパスのカメラを買おうかと思っていた。
 それでお店でこの会社のカメラを触っていると何となくしっくりとこないものがある。それは僕がこだわるシャッターを押したときの感触なのだ。

 それで僕が現在使っているニコンのカメラのコーナーに行き、シャッターを押すと「やはりいい」のだ。
これは言葉では伝えにくい。自分の意志とカメラが何の障害もなく「つながっている」感覚がある。そう、車で言えばアクセルを踏んだ時に感じるあの感覚と似ている。自分の意志と車のエンジンが何の障害もなく「つながっている」感覚である。これは僕が昔、アメリカ製の車と日本製の車を運転してみて感じた違いであり、その時に日本車の優秀さというものを感覚的に実感した。

 ニコン製のカメラには「その感覚」がある。
カメラメーカーにはその会社独自のレンズ群があり、通常その会社のカメラにはその会社のレンズしか合わないので、他社のレンズはつけられない。(サードパーティーがその会社用に作ったレンズは別だ)

 なので、もしオリンパスのカメラにすると、今まで使っていたニコンのレンズはつけられなくなるから、またレンズを一から買いそろえなければならない。それは経済的な負担を考えると避けたいところだ。そう思っていたところで、ニコン製のカメラを触っていて感じた「あの感覚」である。もうひとつペンタックスのカメラからも同様の感覚を感じるが、いま述べた理由からやはりニコン製を選ぶほうが僕にとってはいい。

(ただ、オリンパスの名誉のために付け加えると、この会社のペンシリーズのデザインは素晴らしい!とくにPen Fはそのデザイン自体がアートだと思う。ただ持っていて飾っているだけでもいいと思う)



 

 ではどんなカメラを買うかというと、最新の機種はもちろん選ばない。
理由のひとつはもちろん高いから(笑)である。一般庶民が1台40万円程するものをおいそれと買うわけにはいかないのである。

これには単に高額だからというだけではなく、やはりなぜ高額になっているかということと関係する。 
僕はカメラだけでなく、家電製品でも最新機種は買わない。なぜかというと、その値段の中にその本質的な価値+企業の利潤に加えて、期待料が入っていると思うからだ。

 最新のものだから、最先端の技術がはいっているから、すごいだろう→欲しい、という消費者の心理を織り込んだ価格になっていると思うからである。
そういう無駄な料金を払いたいと思わない。なので、通常ぼくは何を買う時でも、最新の機種から数世代前のものを選ぶことにしている。
 
 理由の二つ目は、これはもっと本質的なことなのだが、高額なカメラでとったからといって必ずしもそれに比例していい写真にはならないだろうと思うから。昔の素晴らしい写真家の写真を考えてみたらわかる。彼らは今でているコンパクトカメラといわれるカメラよりも性能的には劣っているカメラをつかって、あれだけの傑作を残している。

 カメラにこだわるよりも、ファイナルプロダクトである写真にこだわるべきだと考えるのだ。ひよっこ三文アマチュアカメラマンである僕がこんなことを言うのはおこがましいが、それはたぶん真実だろうと信じる。
 もちろん、だからといってカメラは何でもいいとは思はない。好きなカメラを使っているという自己満足感が写真を撮るという喜びを増幅することは間違いないからだ。そしてその喜びがいい写真を撮りたいという願望をさらに高め、それが結果としていい写真になるというプロセスをたどるだろう。

 ということで、いま下調べをしている最中でもうある程度のめぼしはつけている。

 

先日帰宅途中で見つけた花。人間ならば、なんで自分はこんなところで生まれたんだろう、もっと田舎の恵まれた環境に生まれたかった、と考えるだろうと思う。しかしこの花は幸せいっぱいである。そんな姿がうつくしい。
植物たちのこの姿(こころ)は僕ら人間がはるかに及ばないものを持っている。

 

 

 

 

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