先日、サイクリング中に偶然あの夏目漱石の晩年の邸宅があった場所、別名漱石山房にでくわした。
それと知らせる立て看板を見たときは驚きとうれしさのあまりおもわず声が出た。なにしろ、漱石がここに住んでいたのはもうずいぶんと昔の話である。木造の家だし、もうその場所はわからなくなっていて実際に行くことは絶対ないと思っていたからだ。
僕がこれほどの喜びに満たされたのは、勿論漱石が住んでいた場所であるからというのもあるが、それ以上に昔心酔していた芥川が学生時代(まだ作家になる前)にここに足しげく通っていた場所であり、彼がこの家での出来事について書いていた文章を知っていたからでもある。
昔のことを思い出す時は、何かこう夢の中の出来事のように思うことが多いが、僕の中でもこの場所というのはそのような場所になっていた。そこに偶然出くわしたのである。
東京をぶらぶらしていると結構こういう歴史的に重要な場所に立て看板が立っていて、僕が見た中ではあの西郷隆盛が官軍を率いて江戸に攻め込もうとするときに、勝海舟と会談をした場所や、森鴎外の住んでいた場所、滝沢馬琴だったろうか、名前は忘れてしまったが江戸時代の戯作者ゆかりの場所などがある。
日本では家の素材が木造であるのと、そもそも古い家を大事にして100年以上の長期にわたって住むという文化習慣がないので、そんなに古い建物で、しかも今でも人が住んでいる家というのは残っていない。これがイギリスだと数百年前の家がいまだに残っていて、しかもそこに今でも人が住んでいるという場所が数多くある。
僕がこの目で見た中では進化論の提唱者であるチャールズ・ダーウィンの住んでいた家や、たまたま僕が住んでいた家の近く(ほんの数十メートル先)にあの「威風堂々」の作曲者であるエドワード・エルガーの家などがあったのをおぼえている。ああ、そうそう、漱石のイギリス留学当時の家もまだ残っていて、そこに行ったこともある。そこは今は漱石の記念館のようなものになっている。
そんな偶然があったので、今回は芥川がのこした漱石山房についての文章を載せてみたい。長いので全文は紹介できないと思うがなるべくその雰囲気を伝えられるようにしたい。
『夜寒の細い往来を爪先上がりに上がっていくと、古ぼけた板屋根の門の前へ出る。門には電灯がともっているが、柱に掲げた標札の如きは、殆ど有無さへも判然としない。門をくぐると砂利が敷いてあって、その又砂利の上には庭樹の落葉が紛々として乱れている。
~中略~
硝子戸から客間を覗いてみると、雨漏りの痕と鼠の食った穴とが、白い紙張りの天井に班々とまだ残っている。が、十畳の座敷には、赤い五羽鶴の毯(たん)が敷いてあるから、畳の古ぼけだけは分明ではない。この客間の西側(玄関より)には、更紗の唐紙が二枚あって、その一枚の上に古色を帯びた壁掛けが一つ下がっている。
麻の地に黄色い百合のような花を縫いとったのは、津田清風氏か何かの図案らしい。この唐紙の左右の壁際には、あまり上等でない硝子戸の木箱があって、その何段かの棚の上にはぎっしり洋書がつまっている。それから廊下に接した南側には、殺風景な鉄格子の西洋窓の前に大きな紫檀の机を据えて、その上に硯や筆立てが、紙絹(しけん)の類や法帖といっしょに、存外行儀よく並べてある。
その窓を剰(あま)した南側の壁と向こうの北側の壁とには、殆ど軸の佳(か)かっていなかったことがない。蔵沢(ぞうたく)の墨竹が黄興(こうこう)の「文章千古事」と挨拶をしている事もある。木庵の「花開万国春」が呉昌蹟(ごしょうせき)の木蓮と鉢合わせをしている事もある。が、客間を飾っている書画はひとりこれらの軸ばかりではない。
西側の壁には安井曽太郎の油絵と風景画が、東側の壁には斎藤与里氏の油絵の艸花(くさばな)が、さうして又北側の壁には明月禅師の無弦琴と云う艸書(そうしょ)の横物が、いずれも額になって佳(か)かっている。その額の下や軸の前に、或いは銅瓶(どうへい)に梅もどきが、或いは青磁に菊の花がその時々で投げ込んであるのは、無論奥さんの風流に相違あるまい。
もし先客がなかったなら、この客間を覗いた眼を更に次の間へ転じなければならぬ。次の間といっても客間の東側には、唐紙も何もないのだから、実は一つ座敷も同じことである。唯此処は板敷で、中央に拡げた方一間(ほういっけん)あまりの古絨毯の外には、一枚の畳も敷いてはない。
さうして東と北の二方の壁には、新古和漢洋の書物を詰めた、無暗に大きな書棚が並んでいる。書物はそれでも詰まりきらないのかぢかに下の床の上へ積んである数も少なくない。
その上やはり南側の窓際に置いた机の上にも、軸だの法帖だの画集だのが雑然と、うづたかく盛り上がっている。だから中央に敷いた古絨毯も、四方に並べてある書物のおかげで、派手なるべき赤い色が僅かばかりしか見えていない。しかもそのまん中には小さい紫檀の机があって、その又机の向こうには座布団が二枚重ねてある。
銅印が一つ、石印が二つ三つ、ペン皿に代えた竹の茶箕(ちゃき)、その中の万年筆、それから玉の文鎮を置いた一綴りの原稿用紙 ── 机の上にはこの外に老眼鏡が載せてある事も珍しくない。その真上には電灯が煌々(こうこう)と光を放っている。傍らには瀬戸火鉢の鉄瓶が虫の啼くように沸(たぎ)っている。もし夜寒が甚だしければ、少し離れた瓦斯暖炉にも赤々と火が動いている。
さうしてその机の後(うしろ)、二枚重ねた座布団の上には、何処(どこ)か獅子を想わせる、背の低い半白(はんばく)の老人が、或いは手紙の筆を走らせたり、或いは唐本の詩集を翻したりしながら、端然と独り坐っている。......
漱石山房の秋の夜は、かう云う蕭条(しょうじょう)たるものであった。』
この文章は一種のルポルタージュのようになっていて、現在形で書かれた文章によって実際に読者が芥川といっしょに漱石山房を訪れているような感覚に引き込まれていく。淡々と目に映ったものを描写しただけの文章だが、明治の文人の書斎というものがまるで映像を見るような感覚で目の前に見えてくる。最後の「さうしてその机の」から最後までの文章は、おそらく芥川が実際に見たものではなく彼の想像から描かれたものだと思うが、この辺がやはり作家らしいとおもう、客観記述からすでに「物語」の世界へ入り始めている。
冒頭部分に、天井に鼠の食った穴とか雨漏りの痕とかがたくさんあるという描写や、末尾の「端然と独り坐っている」「蕭条たるものであった」という描写にも顕れているように、どことなくわびさびしい、枯れた、寂漠としたイメージがこの文章全体をおおっていてそれがひとつの通奏低音のようなものになっている。そしてそれが芥川の眼を通してみた漱石であり、もっといえばそれが芥川自身が抱く芸術家一般の「創作」というものを著しているような気がする。
僕はこの文章全体にただようこの厳粛な寂寥感が好きで、単純な客観描写のように見えながら、ある種の風格の高さ、抑制された威厳のようなものが全体を統一していて、あたかも古美術の名品を見ているかのようである。
結局自分が実際漱石山房の跡地に立った時の感動はすべてここから来ているといっていい。ここは現在記念館になっていることもわかり、このコロナ騒動が終われば開館するそうなのでぜひ後日再訪してみたい。