気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

私の養生法

2014-07-25 01:31:16 | 日記
僕は健康には昔から関心を持ってきた。
理由はわからない。
健康オ〇クと一時は言ったこともあるが、いまは健康マニアと呼ぶことにしている。

 タバコは15の時遊びですって、気分が悪くなり嘔吐して熱が出たのでやめた。タバコはまぁ、自殺行為といっていい。
僕は家族ががんで闘病している姿を見ているので、たばこを吸っている人を見ると、「私はがんになりたい」と言っているのと同じなわけで、とうていそんな人の気がしれない。
たばこを吸っている人に辞めさせる一番いい方法は、癌で闘病している人のドキュメンタリーでも見せるのが一番いいだろう。自分がやっていることがどれほど恐ろしいことかわかるはずだ。
 それらの人にとっては、たとえば原発賛成派の人の原発事故に対する姿勢と同じで、「自分や家族が実際に」その被害を受けて症状が出てみないかぎり人ごと、あるいは人ごとであってほしいと思っているだけなのであろう。

 酒は…これは若いころは無茶もした。
飲みすぎて路上で寝たことが2回ほどある、幸い友達がそばにいたので助けてくれたが。
 僕は寝つきが悪いので、以前外で働いていた時は朝が早い仕事をしていたため、どうしても眠るために寝酒をしていた。

 その時も「健康を考えて」ワインを主に飲んでいたが、ワイングラス4~5杯重ねてから寝ていたので、身体には悪かったに違いない。
今は、朝早く起きる必要はないので寝れなければ起きて仕事でもしていればいいのでそんなことはしてない。グラス2杯ほどである。
グラス2杯ぐらいは体にいいことが統計的に証明されているので実行している。

 今はいろんなことをしている。
 玉ねぎの皮はふつう、捨ててしまうと思う。
でもそれはもったいないのだ。

 以前も書いたように、我々の体には長寿遺伝子というものがある。
ところがほとんどすべての人は(95%ぐらい)その遺伝子が活動しておらず眠ったままだ。
これを活動させるには25%ほどのカロリー制限か、定期的な断食などが必要だといわれる。

 断食はできる人とできない人がいるし、25%ものカロリー制限はそんなに簡単なことではない。だからこそ5%ぐらいの人の体の中でしか活動していないのだ。
ではどうすればいいかというと、100%ブドウジュースかブドウを皮ごと食べる、赤ワインを一日2杯ぐらい、玉ねぎの皮を摂取すること、ナッツやアーモンドを皮ごと食べると活性化するかもしれないという。
 僕は最近、食塩のついてない皮付きのアーモンドをスーパーで買ってきて食べている。

 皮付きということろがミソで、玉ねぎにしろ、ナッツ、アーモンドにしろ、リンゴにしろ、皮のところに最も体にいい成分があるという。

 ところが玉ねぎの皮は調理のしようがない。
でも調理できなくてもお茶にして飲むという手があるし、サプリメントも発売されている。
 僕がもっぱらやっているのは、お湯で煎じる方法だ。



 このようにして土瓶に皮と水を入れて1時間ほど煎じて、一日1杯ほど飲んでいる。

 もう一つの健康法は、またまた玉ねぎとショウガを使ったもの。
玉ねぎとショウガをざく切りにして、黒酢に1週間ほどつけて一日大さじ2杯ほど飲んでいる。



 これに加えて(笑)オリーブオイル(できれば無農薬・オーガニック)を一日大さじ1杯いただいている。
これはアメリカの研究で証明された方法で、心臓病を予防する効果があるという。

 このほかにも定番であるケフィアヨーグルトにラブレ菌を入れて発酵させて愛犬とともに食べている。もちろん別々の皿でだが。
ほかにもやりたいことはあるのだが、どうしても財布と相談しなければいけないので、あきらめなければならないものも多い。

 僕は医者嫌いなうえに、自分の母親を明らかな医者の誤診で失った。
その経験から、自分の命を海のものとも山のものともしれない他人(医者)にゆだねるということ自体が大きなリスクだと思うようになった。
 ただし、もちろん名医もいるだろう。いるにしても、よほど普段から情報を集めてでもいない限り、どの病院にいるかなんてわからない。
また、世間で既に有名になっている医者にはそう簡単にはかかれないかもしれない。

 それと、もっと根源的なこととして、僕は西洋医学はあくまでも対症療法であり、病気を発生させた根本・本質的原因を治療するものではない、という考えを持っている。
むしろ、病気の本質的根本原因を治療することによりフォーカスしている治療法は東洋医学だと思っている。
どちらが優れているかということを言っているのではない、役割分担が重なる部分を持ちながらも、そのアプローチの仕方、むずかしくいえば哲学が違うとおもう。

 西洋医学というのはだから、発病してからの医学であり、一方東洋医学というのは「未病」という漢方の言葉にもあるように、発病させないための医学であり、発病してしまった場合は、症状をいやすだけでなく、その症状を生み出しているもっと根源的な「本質」、いいかえれば、身体全体の健康を維持・制御しているメカニズムの「ゆがみ」をいやしていく医学だと思う。(このことは西洋医学ではまだその全体像をとらえられておらず、ようやくその端緒についたばかりだというのが僕の印象)
 このことから、僕は発病してしまってからあたふたするのではなく、まず発病させないということに注力したいので、東洋医学や自然療法により強い関心を持っている。
僕の自然療法に対する強い関心とその実践は、すべてこの考えから生まれている。

 自分のみは自分で守ることがまず肝要である。
自分の命を、どれほどの技能・経験を持っているかわからない人にゆだねるような状態に、まずならないことが大事だと思う。
 そして普段から予防に心掛けて、それでも病気になったら、そのときは医者に(よき医者にあたるように幸運を祈りながら)お任せするしかない。

 徳川家康も健康には気を使っていて、自分で漢方薬を調合して飲んでいたという。
だからこそ人間50年といわれていたあの時代に、70有余年という長寿を全うできたのだろう。
彼は知っていたのだ、天下をとれるかどうかは、秀吉よりも長く生きるかどうかにかかっていると。

 僕の好きな五木寛之も医者嫌いで知られている。
レントゲンを最後にとったのが、大学入試の時だという!
 そして彼も、健康法に関しては人並み外れた知識を持ち、それを実践している。おかげで80歳を優に超える今も、歯医者以外は一度も医者にかかっていないという。
おそるべし!である。

 そしてそれと同時に(たぶんどれだけ生きるか以上に)大切なのが、人生の質 Quality of Lifeだろう。
僕はこれには決まった答えはないと思う。
 なぜならそれはその人その人それぞれの中に独自のものが刻まれているはずだからだ。

 僕の母は抗がん剤の副作用に耐えきれず、途中から抗がん剤を飲まなくなった。
僕は飲んでほしかったが、その副作用のつらさはあくまで母にしかわからない。それを第三者が飲めと強要できるものではないから、それを受け入れた。
母も覚悟の上で決めたことだろう。

 たとえ少しだけ長く生きることができたとしても、それが毎日不快な嘔吐感やその他の苦しみとともにある毎日であれば……
まさにQuality of Life人生の質の崩壊である。

 ひとつだけいえることがあるとすれば、それはどれだけ個々の人が「自分自身に、そして自分の家族に誠実に正直になれるか」ということじゃないだろうか。
抽象的になって申し訳ないけど…
 
 


 

 
 
  
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このすさまじいコントラスト

2014-07-19 00:24:22 | 日記

 マレーシア航空の飛行機が撃墜された。
親ロ派がやった可能性がきわめて高いだろう。

 しかし、マレーシア航空はなぜあの空域を飛んでいたのか…
親ロ派はそれ以前にもウクライナ空軍の航空機を何機も撃ち落していた。いくら1万メートル以上なら飛んでもいいといわれていたとしても、万が一間違ってということもあるのは想定していなければいけないはず。
 つい数か月前にもインド洋でマレーシア航空の飛行機が「消滅」した。今でもどこにあるかわからない。
いったいこの航空会社はどんな経営をしているのだろう?迂回すればそれだけ時間もかかるし、燃料も消費する、だから危険な空域でも飛ばしていたのか、と思いたくもなる。

 それにしてもこれでプーチン、ロシアの立場はかなり悪くなるだろう。
プーチン、この男は相当の悪党である。ロシアの指導者としてはスターリン以来の大悪党である。
表向きは停戦を支持する、ウクライナの新大統領を認めるといいながら、裏では親ロ派に最新の武器を供給し、ロシア軍人まで指導役として送っている。
二つの顔を使い分ける男。

 今日家に荷物を届けに来た郵便局の人は素晴らしい人柄の人だった。善良な魂を持っている人だということは眼を見ればすぐにわかった。
ああいう人もいれば、殺しあっている人もいる。
 ウクライナはこの紛争がある前は、みんなごく普通に暮らしていた。ウクライナ人もロシア系住民も普通に溶け込みあって暮らしていた。それが今は殺し合っている。
ボスニア紛争の時も、紛争が勃発する前はみな同じ村で普通に挨拶をし、仕事をしていたという。ところが数日前まで微笑んで挨拶していた住民同士が、紛争勃発と同時に殺し合いになった。

 イスラエルも、たぶん、ユダヤ教もイスラム教もなければ、普通に挨拶をし、一緒に仕事をしながら暮らしていたに違いない。
それが現実には終わることなき暴力の連鎖。

 日本にも韓国、中国と言えば、何の理由もなく毒々しい言葉を吐く人がいる。
ほとんど動物的な反応。我々の血の中には、中国の血も朝鮮の血も(とりわけ朝鮮の血は)濃厚に流れているのに。
いったいこれはなんなのか。
 愛国心も高貴な血を引く人物への忠誠心も、それを奥深くにまで突き詰めてみれば、すべては自我へとつながっている。

 Self…20世紀最大のサイキック、エドガー・ケイシーは人間の最大の問題はSelf(自己、自我)だといった。

 人間はこの暴力のサイクルを永遠に逃れられないのだろうか。
なぜ『やりかえさなければならない』のか。
当たり前だろうという人がほとんどだろう、しかし、「なぜ」それがあたりまえなのか。
本当に考えたことがるのだろうか。

 恐ろしい残虐な犯罪の被害者の遺族は、ほぼ例外なく口をそろえて「極刑を望む」という。
極刑を下せば死んだ者はかえってくるのだろうか。自分の気が済む、溜飲が下がるというだけで、『なぜ、自分もまた』人の命を奪うという、恐ろしくも残虐なことをすることをあたりまえと思うのだろうか。(現在の日本の死刑手段である絞首刑は、かなり残虐な死刑執行方法だ、その死因は首や脊椎の骨折である。欧米では薬を使ってなるべく苦痛のないような方法をとるところが多い)

 それは「なぜ」か?

 もしかしたら我々はそれを学ぶために、何回も何回も、このおどろおどろしい悲喜劇を繰り返しに生まれ変わっているのか。
 


 
 

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白日夢状態

2014-07-11 01:24:45 | 旅行
 僕の最も苦手とする夏がやってきた。
昼間はほとんど頭も働かず、白日夢状態である。眼の焦点も定まらず、若年性アルツハイマーになったのではないかとさえ思うほど。
日差しが弱くなる夕方か夜になってようやく外に出るありさま。
まるで夜光虫のようだ。

 今日あたりから我慢してきた冷房をつけざるを得ない。
あぁ、夏だけでもカナダとかアラスカで過ごすことはできないだろうか。
彼の地であれば、夏でも冷房いらず、ずっと長そでのシャツ1枚で過ごせるし、日本のようにじめじめしていない。ちょうど向こうの夏は日本でいえば5月の上旬ぐらいの気候だろうか。
 おまけに北半球の高いところにあるので、夏の日没は夜の10時ぐらい。アラスカならもっと遅いだろう。場所によっては一日中明るいところもあるだろう。なので一日を有効に使える。

 自宅で仕事をしているので、そんな暮らしをやろうと思えばできるが、ペットがいるので…いっそペットも連れて行こうかな。
向こうで中古のキャンピングカーでも買って、それで移動しながら暮らすなんてのもいい。実際、向こうではそうやって移動しながら生活している人もいる。
向こうのキャンピングカーは日本で見かけるような小さいものではなく、バス1台分か電車1両分ぐらいの大きさなので、キッチンもあるし、シャワーもトイレもベッドルームもある。まさに動く家である。

 そうやって仕事をしながらカナダやアラスカの大自然の写真をとりたい。星野さんのように。
もちろん銃の免許を取る必要はあるだろう。熊やクーガー(豹)、狼がいるから。星野さんのような最後は嫌だ。
僕は何度かカナダの山の中で釣りをしたことがあるが、岸からつったことはない。後ろから襲われる危険があるから。

 いつもボートの上で釣りをし、昼食もボートの上で食べ、休憩もボートの上でとった。
ロッジにかえるときだけは一人で森の中を歩かざるを得なかった。もちろん、周りに細心の注意を払い、冷や汗をかきながら。
人の手がほとんど入っていない森の中を歩いたことがあるだろうか。想像以上にうっそうとしていて、はっきり言って薄気味悪い。生きて立っている木と、死んで倒れて朽ちかけている木がほぼ半々ぐらいなのだ…非常に独特の雰囲気を醸し出している。
 あぁ、カナダに行きたい。とうていこの世のものとは思えないあの風景の中に入って行きたい。

 時速100Km以上のスピードで運転していても、3~4時間はずっと同じ森の中を走っていて、そのかんほんの数回ほどしか対向車とすれ違わない、左右に立っている木は高さ40メートルはあろうかと思うほどの針葉樹林、そうかと思えば、広大にひらけた視界に入ってくるエメラルド色の湖や川、そんなところに入っていく感覚。
冬になれば、そういうところでエンジンが故障してそのまま凍死する人もいる。そんな世界。
 まるで超巨大な屏風のようにハイウェイに沿ってそびえたつ断崖絶壁。それらの絶壁は標高2000メートルぐらいはゆうにあるだろう。その絶壁の底を切り刻むようにのびるハイウェイを何時間も走ったこともある。

 できればそんなところで野垂れ死にたい、などという思いもよぎる。
僕は旅の途中で死にたかった芭蕉の気持ちがよくわかる。彼のようにまだ本気でそのような旅に出る覚悟はないけど。
ただ実際には大陸の自然の中で死ぬのは無理だろう。あまりにも周りの自然のスケールの大きさ、存在感が圧倒的すぎるからだ。それらへの畏怖の念が死への意思をしのいでしまうにちがいない。

空恐ろしくなるほど美しいあの大自然と再び対面したい…あぁ、カナダ。

 
 



 

 


 
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