気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

Light テート美術館展をみて

2023-08-08 01:05:48 | 

 

ターナー

湖に沈む夕日

 

 

 

 

 

 

 国立新美術館でひらかれている Light テート美術館展を見てきた。
というかターナーを見に行ってきたといっていい。美術の歴史にくわしくない人(僕も含めて)ターナーっていうとその絵を見る限り印象派なのではないかと思っているひともいると思う。でも、ターナーはモネよりも65歳も年上なのだ!印象派がはじまる約30年も前にこんな絵を描いている。芸術の世界では普通こういうことは同時期に起こることなのでとても不思議に見える。 

 


 今ターナーのいろんな絵を見ながら思ったのだが、この絵はカラーで描いた水墨画ではないか、ということ。そういうふうにとらえると、東洋の水墨画は印象派をさかのぼること数世紀、ターナーよりもはるかに前に印象派的世界を創造しているということになる。

 そうおもうと僕らアジアの美術愛好家はもうすこし東洋美術というものの偉大さについて自覚していいのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

ジョセフ・ライト オブ ダービー

トスカーナの海岸の灯台と月光

 

 

 

 

 

 

 そして今回、僕が最も興味を持ったのがこの作品、ジョセフ・ライト・オブ・ダービーという画家の作品だが、この光の扱われ方に目を奪われた。
ターナーの場合は光を心のフィルターを通してより抽象化して描いているが、この人の場合、より写実的で実際に僕らに目に見える世界に近い描き方をしている。ただ、現実の光よりも強く強調されていて、それがある種の異様な神秘性を生み出している。ただ、残念ながらこの写真ではそれがはっきりと伝わってこない。それを感じ取るには本物をみてもらうしかない……
 もしかすると僕が当日スマホで撮影した写真の方がその辺のことがよくわかるかもしれないので、下に載せておきます。もちろんこの作品は撮影が許可されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 僕がこの絵を見て驚いたのは、まるで本当に光源が絵の中にあってそこから四方八方に光が照射されているように見えることだ。もちろんそれは光源(この場合は月)の位置と、それが反射する山や港、海の位置、角度によって濃淡をつけているからであることは言うまでもない。こうやって文字に書いてしまえばそれだけのことなのだが、実際に眼の前で見ているとそんなに単純ではないようにおもえる。

 

 光がそこかしこに偏在している、その偏在の仕方が実に精緻でしかもはっきりと実体を持っていて、光の粒子の一粒一粒が見えるようなのだ。
たぶん、絵を描くうえでなにを描くのが一番難しいかというとやはり光だと思う。明白な形を持たず、そこここに偏在しているからだ。つまり、光を描くということは「はっきりと形のないものを描く」ということになる。
 この絵を見ていると、その偏在している光の「実在性」とでもいうのだろうか、それを感じるのだ。しかもそれが肉眼で見るよりも強調されているので、独特の神秘性を生み出している。

 

 ターナーにしても、このジョセフ・ライトにしても、印象派の画家たち、そしてあの光の魔術師、フェルメールにしても、レンブラントにしても、また、日本や中国の高名な水墨画家にしても、後世に名を遺す画家というのはすべてこの「見えないものを見せる」ことに関して卓越した、ほとんど神がかりな力を持っている。
 見えないものをどうやって描くのか……こうやって目の前にあるから描いたことは間違いない、間違いないが、どうやって?


 
この問いにはっきりと答えられる人はいるだろうか?たぶんだがそれを言葉で答えられる人はいないと思う。
彼らだって絵を学び始めて間もないころはもちろんできなかったに違いない、が、その技量がある一線を越える段階に来ると「自然に」その境界線をまたいでいたのではないだろうか、彼ら自身も気づかないうちに。

 

 いろんな芸術の表現形態がある中で、絵と音楽はとくに創作者のその神がかり的な偉大さを感じ取ることができる分野だ。視覚と聴覚という人間のもっともはっきりと認識できる感覚器官で感じ取ることができるからだ。目に見えないものを見せ、耳に聞こえない音をきかせる…でも一体どうやって…

 

 

 

 

 

 

 

 

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竹のようにしなやかに、そしてつよく

2022-11-21 23:43:58 | 

 

 

 

 

  もう2か月ばかりも前の話だが、新宿のSOMPO美術館で開かれていた「スイスプチパレ展」という美術展を見てきた。
この絵はその時に見たもの。実は実際に見たその時には感じるものがあったのだが、今こうしてネットで写真を見てみると…あの現場で見ていた時に感じたものを感じられない。これはよくあることで、やはり絵画というものは実物を見るのと複製を見るのとではまるで別の絵を見ているような感覚になる。

 なので、少し悔しい、あのときはいろいろと多忙だったためすぐにこのブログに書くことができなかった。そのために、今こうやって見返してみても、あの時この絵の「何に」心動かされたのかを思い出すことができない。それを思い出すためには、再びこの絵の前に立たなければならない……
 今言えるのは、昔から知っているユトリロという画家がなぜこれほど高く評価されているのか、そのことがあの瞬間!と感じ取れたということだけである。

 そして言うまでもなくこの美術館にはあのゴッホのひまわりの絵が置かれていて、もちろんそれも見てきた。精緻でありながら大胆、大胆でありながら緻密、そしてゴッホの作品特有の彼自身の魂そのものまでをもカンバスに塗りこめたような意識の強烈な集中…本当に圧巻だった。この絵は日本国内にある美術品の一つの宝として永遠に国内から離れていってほしくない。

 美術展といえば、いま、国立博物館で現在開かれている創立150周年記念の展示会にもぜひ行きたいと思う。僕ぐらいの年齢になると、今を逃すともうこの人生では見られない作品がある可能性もあるので、躊躇してはいられない。

 

 実は8月下旬以降、僕の人生は質的にかなり変わってしまったので、今までのような頻度ではこのブログも更新はできないと思う。
多忙に次ぐ多忙で、ものを考えるという時間も少なくなりつつある。

 今思うと自分の時間をたくさん持っているということは、多くの長所があるのだなということ。自分の内的世界を広げていけるからだ。
多忙になると、それが困難になってくる。自分の人生が浅く平坦なものになっていくような気がする。しかし、多忙なだけに充実はしている。じゃぁ、どちらがいいのかというと…やはりバランスの問題だと思う。そのどちらもちょうどいい割合で共存しているのが理想の人生のような気がする。

 

 そうそう、ツイッターだが前回面白くないと書いたが、今は結構はまっている(笑)
今までなぜ面白くないと感じたかというとそれはひとりぽつんと始めたからだろう。やはりツイッターというのは友達などと一緒に始めてこそその面白さを堪能できる。
なにがいいのかというと、たとえばラインやメールだと相手からメッセージが来るとやはり返事を書かなければいけないという気持ちになり、それが時によっては負担に感じるし、相手にとっても同様な場合もあるだろう。

 ツイッターならかなり高確率で相手が読んでくれるので、例えば相手に何かを伝えたいと思った時に、今言ったような負担をかけずにツイッターに投稿すればいい。相手は面白いと思えばいいねボタンを押すかコメントをつけてくれる。なにもかんじなければただ無視していればいい、それで全然失礼にはならない。

 それに短い文章なので気軽に投稿できる。ブログのようにさぁて書くかという気合がいらない。
もちろんそれがコインの両面でもあり、ツイッターにはブログのような奥行きのあるものは書けない。
 ただし、だからといって深いことが書けないかというとそうでもなくて、たとえば俳句か短歌のように短い文章を通じてその奥に拡がる深遠な森をのぞき見させることもできる。

 おもうのは、尾崎放哉や種田山頭火のような自由律詩の天才たちがいま生きていたら、さぞかし名ツイートを発信しただろうなということだ。
前者の「咳をしても一人」や後者の「やっぱりひとりがよろし」なんていう作品などはまさにツイッター向きな作品である。


 今年の紅葉は今がピークだと思うが、僕は今日初めて昭和記念公園で見てきた。ライトアップしていて、多くのカップルが来ていた。
こんなにカップルがいるのになぜ少子化なんだろうなどという下世話なことも考えたが、このカップルの後ろにはこの数倍~数十倍のおひとりさまがいるのであろうし、また、カップルがいても結婚する人々はさらに少なくなっていき、さらに、結婚しても子供を持つカップルは少なくなっているということは様々な統計が示している通りなのだろう。

 そのこととは直接関係ないのだが、大勢のカップルのなかに散見されたおひとり様たちのことが僕の中にある。
彼ら、彼女らもそのようなところに行って100%楽しむということはやはりできないだろう。どうしても自分の孤独というものがコントラストとして浮き上がってくるからだ。
でも…耐えきってほしいと思う。それに負けることなく、孤独のみがもたらす内的世界の充実、豊饒さ、人生の恵みに視線を向けていきてほしいと思う。そうして自分の内面が成長し、成熟した先にはかならず彼ら、彼女らのこころを受けとめてくれる人が現れることを願い続けてほしい。

 そのような人々に最適な動画があった。
https://www.youtube.com/watch?v=GvGhWh6TOV4


さて、僕はこのあと箱根に出かける予定でいる。紅葉がまだ残っていればいいのだが。

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日常雑感と「スコットランド国立美術館 美の巨匠たち」

2022-07-05 11:00:13 | 

 

 

 

 ついに今年も夏がやってきた。例年、僕の最も苦手とする季節なのだが、今年はどういうわけか心地いい。それどころか幸せすら感じる。
それはたぶんこの強烈な光ではないかと思う。昔僕がイギリスで下宿していたころその女家主のわかれた旦那さんが、雨や曇りの多いイギリスの気候が嫌でメキシコに移り住んでしまったと話していたが、その旦那さんの気持ちはよくわかるような気がする。

 こんな僕でさえ、日常の中で子供のころのあの幸福に、短い時間ではあるがいつのまにかひたっていることが多い。光こそ命、とさえ思う。

 

 さて、近況だが 1週間ほど前愛犬を連れて湘南海岸を散歩してきた。ちょうど今海水浴シーズンであった事を忘れていて、海の家がたくさん設営されていた。もしかしたら犬の散歩は禁止かな、と心配したが、その時間は夕暮れ時で海水浴客たちはもういなかったので散歩も可能だった。
 日が落ち始めると遠くの方に富士山のシルエットが黒く見えたが、美しいというよりも少し恐怖を感じた。

 惜しむらくはあのあたりに犬を連れてコーヒーなどを飲める店がなかったことだ。探せばどこかにあるのかもしれないが、なにしろ車で行ったわけではないのでどうにもならなかった。

 
 僕の愛犬ももう老犬になったので、昔のように海に連れて行ってもはしゃいで走り回るようなことはしなくなった。ただただ僕のあとについてくるだけである。それでも普段は小さな家の中に閉じ込めていることが多いので気晴らしにはなったのではないか、と思っている。
 思えばよくついてきてくれたと思う。

 同居人として今の今まで大けがや病気をさせてこなかったことがなによりもよかったと思っている。
危ないことは何度かあった。この子が僕の足元にいるとき、段ボールの破片を落としてそれが目の近くに当たった時、電気毛布のコードを噛んで遊んでいて急に動かなくなったので見てみると噛んだまま感電して動かなくなっていた時、ベッドから落ちて立ち上がれなくなっていた時…心底凍り付きそうになった。

 
 でもとにもかくにも今まで無事でいてくれてありがたいと思う。
散歩していても、ほかの飼い主があの長い伸びるリードを長く伸ばして特に視界の悪い夜などに散歩をしていたり、自転車の前かごに犬を乗せて走っていたり、そもそもリードをつけずに散歩をしていたりしている人々を見るたびに、人の犬ではあるが本気で心配になる。ああいう飼い主はそもそも潜在的な危険というものに対する感覚、感受性などが僕とは違うのだろう。

 

 

 

 

 

 

 


 ちょうどその次の日だったろうか、東京都美術館で開かれている「スコットランド国立美術館 美の巨匠たち」という美術展を見てきた。
この美術館は確かイギリスのエジンバラという町にあるらしい。僕も実はもうずいぶん前だがエジンバラにはいったことがある。その時にこの美術館を訪れたことがあるかどうか…定かではない。

 ヨーロッパを旅行していた時は、新しい町についたときはまずとりあえず教会と美術館に行くことにしていたので、ここも行ったはずなのだが…記憶がない…

 さて肝心の作品だが、まず感心したのがルーベンスの「頭部習作」。

 

 

 

 

 

 例によって写真からだとやはりわかりにくいのだが、肌の色合いの繊細さ、再現力の高さにまず脱帽した。ちょうど絵を習っている人はこれなどを見るととても勉強になると思った。

 次に僕の気を引いたのはドガの「踊り子たちの一団」だった。

 

 

 

 

 

 なにに惹かれたかというと、踊り子たちの姿やポーズよりもむしろドレスや床や壁の色合い、描き方である。
確かにこの絵からはっきりと伝わってくるダンサーたちの躍動感、動き、バレエ独特の表現美なども重要な要素だ、しかし、それよりも床や壁、鏡の描かれ方から生じているこの絵全体に漂う幻想性、すこしデフォルメされたかに僕には見えるダンサーのドレスの線と色の独創性、絶妙な配合…そういったものの方に僕は惹かれた。特にダンサーの体やドレスの線を見て、僕は日本の水墨画家の筆致と相通じる
ものを感じた。

 

 以上がこの展示会での僕の印象だが、いま同時に国立西洋美術館で開催されている「ルードヴィッヒ美術館展」にも興味がある。間に合う間に行ってみたい。それと今「たぶん」話題になっている角川武蔵野ミュージアムで開かれている「僕には世界がこう見える」という美術展?にもすごく興味がある。ここではなんとゴッホの絵がホログラムのようなもので立体的に表現されていて、それがしかも動くのだという。
 ゴッホがこれを見たらどう思うか?とても興味がある。新しいものが好きだった彼のことだから、きっと大感激しただろう。

 このブログでも取り上げたことがあるが、ぼくはゴッホにとても思い入れがある。
画家としてはたぶんベストの画家ではないだろう…しかし、どの画家を一番愛しているか?と問われれば、僕は迷わずゴッホだと答える。
彼の人間性に惹かれる。混じりけのない純金、それゆえに実用性を欠き傷つきやすく摩耗しやすかった、しかしその輝きの強さ、純度は他を寄せ付けない。

 


 さて、話は変わって今度の日曜日は選挙である。候補者の話を全部聞いているわけではないが、今の日本の最大の課題はなんといっても人口減少だと思う。イーロン・マスクがこのままでは日本は消滅するだろうといって物議をかもしたが、彼はこれを比ゆ的な表現としていったのではないだろう、文字通りの意味で言ったに違いない。
 
 世界の他の国と比べて日本人の給料だけはこの何十年ずっと実質的に増えていないという、僕はこれもすべてではないにせよ、人口減少と根っこのところで関係があると思っている。
 これは大問題だ。日本の一番大きな問題である。でも、このことを選挙の争点にあげる候補者は僕の知る限りではいない。もちろん、この問題を突き詰めていけば日本人にとって一番向き合いたくない問題、そう、移民問題とぶち当たるからだろう。しかし、この問題から逃げることはできない、かならずいつかは正面から向き合わなければならない。

 なぜなら、これは日本の存亡と直接かかわってくるからだ。

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もろもろのことなど

2020-06-23 02:36:53 | 

 

 

  Ending and beginning, transparency and opacity. As day turns to night and light fades into darkness, we enter the blue hour of twilight, when the air seems full of mystery, fleetingly saturated in blue and purple hues before inexorably darkening to blackness. It is precisely this elusive change in atmosphere that Alice Sara Ott sets out to capture in musical terms on Nightfall. Her success in accomplishing this feat underlines her status as a pianist of the very highest calibre. The album is a particularly personal artistic project for Alice Sara Ott, documenting the intensity of her musical encounters with the three composers Debussy, Satie and Ravel.

 

 この英文はAlice Sara Ottoというドイツ人?のピアニストの映像の説明文のところにのっていて偶然見つけたのだが、とてもいい文章だと思ったので載せてみた。もちろんこれは『僕が』いいと思っただけのことで、見る目のある人が読めばどう思うかはわからないが。特に最初の3行(Ending and から terms on Nightfall.まで)はまるで流れるようなリズム、音感を持っていて、よんでいて心地いい。
  
 日本語の名文というのはいくらでも探せば読めるが、僕のようにいまは英文にあまり接しておらず、ましてや英文学などの作品にも原文で接していない人間にとっては、このような文章に出会うとうれしくなってしまう。

 さて、それはともかく上の絵だが、僕が所用で尋ねたあるマンションのロビーに飾っていたものを偶然通りかかって見つけたものである。あまりにも出来がいいのでおもわずスマホでシャッターを切った。そこには画家の名も書かれておらず、また、一応マンションの住人やここを訪れる人ならだれでも見られる場所にあることから、この画家はまだあまり名の通ってない人ではないかと想像する、いや、それともすでにかなり名の知れた人なのかもしれない。とにかく僕にはわからない。

 いずれにしてもすくなくとも結構高級なマンションのロビーに飾られているので、全く無名の人ではないだろう。
前を通りかかった時思わず「あーきれい!」という言葉が漏れた。印象派の絵に似ているが、その筆づかいがすこしワイルドでこういうタッチの筆遣いを見せる人を僕は見たことがない。

 しかしわかるだろうか、ワイルドなタッチでありながら同時に絹織物のようにしあげられたその繊細な味わい。
こういうほぼ誰でも見れるところで(とはいってもセキュリティー上住人の許可なしには入れない場所だが)これほどのレベルの絵を見たことは、正直ぼくの経験ではない。
 誰がかいたのだろう、本当に気になる。

 たぶん、もう再びこの絵を見ることはできないだろう……まさに、ほんの数十秒の名作との邂逅だった……
もしかしたら数十年後、あるいは数百年後にはここではなくどこかの美術館に飾られているかもしれない…でもその時僕はもうこの世にはいない。おもわず芥川の秀作、秋山図が頭をよぎった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、「親鸞」をよんでいる。小説を読むのは本当に久しぶり。読み始めると引きずり込まれるようにその世界の中に入っている。
この人だけはどうしても避けて通れない人だと思ってきた。日本人に生まれてきた以上、絶対者、神、善と悪、そういったものが思春期以来ずっと頭から離れなかった者として、この人だけは避けて通れないと思ってきた。

 おなじようなテーマと格闘してきた作家の作品は何人か読んできた。最近では遠藤周作の映画「Silence 沈黙」がある。
だが、今から900年も前に、しかもアジアに生きたこの人が、ヨーロッパの作家たちがようやく19世紀になって扱い始めたこのテーマをすでに真剣に考え、悩みぬいていたということは僕にとっては驚きとしか言いようがなく、遅まきながらどうしてもこの人のうち深いところまで探ってみたい、触れてみたいと最近とみに思うようになってきた。

 まだ青春篇 上巻を読んだばかりだが、とにかく引きずり込まれるように読み進んでいる。
それにしても今文庫本て600円近くするんですね。ちょっとした定食が食べられる値段である。昔よく文庫本を買っていたころは1冊せいぜい200円とかそんなもんだったので、やはりインフレというのは進んでいるのだなと実感した。つまりは、同じ100万円を持っていたとしても、あのころから比べればその価値が3分の1になったようなものである。

 まぁ、そんなことはどうでもいい(いやほんとはよくないのだが)今は経済の話をしているわけではないので本題に戻ろう。

 


 


 『「良禅どの、いったい仏とはなんなのだ」
「え?」
 「仏といい、仏という。」われらは仏門に帰依し、仏法をまなび、仏道をきわめるためにこの比叡のお山に暮らしている。それはわかりきったことだ。だが、しかし──」

 眉をひそめるようにして、じっと範宴(はんねん)をみつめる良禅の顔色が変わった。なにかおそろしいものでも見るかのように、おびえた表情である。
 「なにをいいだされるのですか」
と良禅はあとずさりしながら叫ぶようにいった。

 「範宴どのだいじょうぶですか!」
~略~

 「失礼します」
良禅はこわばった動作で身をひるがえし、堂から走りでた。遠ざかっていく足音を聞きながら、範宴は大きなため息をついた。
〈いまさら仏とはなんなのだ、などとたずねたことが、よほど奇妙なことのように思われたのだろう〉

~略~

 「範宴」と、こんどは男の声がした。はげしく体をゆさぶられて、範宴は目をさました。師の音覚法印の顔が目の前にあった。

 

 

 

 

 「法印さま」
と、範宴はいったつもりだが、声にはならない。かれは頭をふって体をおこした。
「気づいたか。よかった」

 音覚法印は範宴の体の下に腕をさし入れて、かかえあげようとした。

~略~

「そなた、正気か?」
「はい」
「良禅はそなたが狂うたというておる」

 「いいえ」
範宴は無理に笑顔をつくって答えた。
「そうか」

 音覚法印は、うなずいて範宴の体から手をはなした。
「仏とはなにか、と良禅にたずねたそうじゃな」
「はい」

 「そなたはたいへんなところに足をふみこもうとしておる。この比叡の山に入って仏門の修行をする者たちは、決してそういう疑問をもたないものだ。最初からわかりきったこととして、考えてみようともしない。それがふつうじゃ。

「正直にいって、このわしもそうであった。長い研学修行のあいだに、ときおりふと、仏とはなにか、と問う声が聞こえてきたことがある。しかし──」
自分はその声を無視した、と音覚法印はいった。つきつめた表情だった。

 

 

 

 

「しかし、そういうとき、わしはわざと聞こえないふりをして、そんな疑問を頭から振り払いつつ今日まですごしてきたのだ。なぜかといえば、そのような問いに正面から向き合えば、厄介なことになるような予感があったからじゃ。比叡山の僧が、仏とはなにか、などときけば笑われるだけであろう。良禅ならずとも、狂うたと思い込む者もおるやもしれぬ。」

 ~略~

「吉水で念仏をといている法然房は、念仏をするものは痴愚になれ、と弟子たちに教えているという。このお山にいたころ、知恵第一の法然房、とうたわれた天下の秀才じゃ。その男が愚者になれとは、どういうことか。たぶん、無学がよい、無智なほうがよいというておるのではあるまい。どうじゃ」

~略~

「わたくしは吉水の草庵で、知恵を捨てよ、と説かれるのをききました。しかし──」

~略~

「年輪をかさねた大人に、赤子のように素直になれといっても、それは無理ではないでしょうか。わたしも9歳で白河房に入室し、12歳でこの比叡に入山してからの短い年月ではありますが、必死で経典を読み、教学をおさめてきたつもりです。まして法然様は、はかりしれない学識の持ち主。
 それをすべて捨て去って愚者になるといわれても、わたくしには納得がまいりませぬ。
 
 先日、たった三度で聞法(もんぼう)をやめたのは、そこにつまずいたからでございました。しかし、こうして行にうちこんでおりますと、しだいに童のような気持ちで自分に問う気持ちが生じてきたのです。

 

 

 

 

これまで身につけてきたこと、学んできたこと、当たり前のように信じてきたことが、ボロボロと古い垢のようにはげ落ちてきて、目の前に大きな疑問がたちはだかってまいりました。それは──」

~略~

「仏(ぶつ)といい、仏(ほとけ)という。如来といい、悟りという。それはいったいなんなのか。そして、なぜこの世には仏が必要なのか。どうして人々は仏を求めるのか。法印さま、このようなことを考えることは、狂うておるのでございましょうか。わたしはこれまで仏画や仏像で知っている御仏のすがたや、細密に描かれた仏国土、浄土のありさまをみたいのではございません。真実の御仏を知りたいのです。」

範宴は思わずはげしい感情がこみあげてくるのをおぼえて、声を高めた。

「わたくしは、いま、これまで知っていることや、学んだことのすべてをなげうって、いちばん根本のところから考えてみたいのです。そんなことを考えることは、やはりくるっているのでしょうか」

音覚法印は、しずかに首をふった。

「いや、狂うてはおらぬ。ただ──」

範宴は息を止めて師の言葉を待った。しかし、音覚法印は遠くを見るような目つきで範宴から視線をそらし、しばらくなにもいわなかった。
「ただ、なんでございましょうか」
その深い沈黙にたえかねて、範宴がたずねた。

~略~

「そなたは狂うてはおらぬ」

 


 

 

音覚法印はしずかな声で言った。
「ただ、いまそなたが考えているようなことを、どこまでもつきつめていこうとするなら、そなたはまちがいなく狂うであろう」
音覚法印はなにかをいおうとする範宴を手で制して言葉をつづけた。

「真実の仏に会おうとすれば、当然、なみの覚悟ではできぬ。狂うところまでつきつめてこそ、真実がつかめるのじゃ。しかし、範宴、ここのところをよくきくがよい。狂うてしもうてはだめなのだ。その寸前で引き返す勇気が必要なのじゃ。命をかけるのはよい。だが、命を捨ててはならぬ。
法然房が説いているのは、愚者にかえれ、ということであろう。

 狂者になれというておるのではない。そなたはこれまで学んできたことをすべて忘れて、仏とはなにか、と問うておる。その答えはいっしょうかかってさがすしかあるまい。そのことを覚悟できたらこの行を試みた意味は十分にある。よいか、そなたは見えぬ仏というおおきな仏と出会ったのじゃ、そなたの行は成った。ただいま、この音覚がしかと見とどけた、さあ、わしの腕につかまれ。ここをでるのじゃ」』

 

 ここで見えぬ仏と出会った云々は、このとき範宴(のちの親鸞)は好相行という行をしていて、仏の顔が見えるまでこもり続けるというような修行があったらしく、それを行っていたからである。
 それはともかく、『真実の仏に会おうとすれば、当然、なみの覚悟ではできぬ。狂うところまでつきつめてこそ、真実がつかめるのじゃ。』という音覚法印の言葉は重い。

 親鸞も法然も修行僧としては極めて優秀で、法然などはゆくゆくは天台座主になる逸材とうたわれていたという…その二人がおそらくはこの問いを狂う寸前までつきつめて、エリートとしての地位をなげうち人々の中に降りて行った。僕はこのことをおもうとき、ブッダ(仏陀)がこの世の矛盾、光と影をみてどうしてもそこから目をそむけることができず、将来は王になる地位をなげうち何もかも捨てさって艱難辛苦の修行の道に入っていったことと重なって見えてくる。

『その答えは一生かかって探すしかあるまい』

この音覚法印のことばのままに……

 

 

 

 

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目の前で見ているのでなければ……

2019-01-28 08:16:31 | 

 

深大寺近くの教会 スマホで





 フェルメール東京展も2月3日で終幕を迎えるので、一度見たのだが、再び見ることにした。
何よりもあれだけの規模のフェルメール展は日本ではめったにないことと、再び巡り合える機会のない作品もあるかもしれないので一生後悔しないようにしっかりともう一度見ておきたいと思った。

 場内でたちどまらないで前列の人は見終わったら後ろの人に譲るためいったん後ろに下がってくださいと、案内役の女性が何度もおっしゃってくれていた。
しかし、それがあまり功を奏さない一番の要因はやはりあの音声ガイドだろうと思った。一つの絵ごとに説明が流れるのでみんなそれが終わるまではその絵の前に張り付いて動かない。当然動きがそこで停滞する。

 音声ガイドを必要とするひとが圧倒的多数なので、やめてほしいと迄は言わないが、せめてもう少し改善策はないものかと思う。
特に今回は入場料が高く設定されていて、全員が音声ガイドを借りられるところを見ると、すでに入場料に音声ガイド料が含まれているのだと思うが、僕のようにそれを聞かないものにとっては余分に払う必要のない料金を払わされているわけでそれが不満だった。

 まぁ、それはともかく、再びいってよかった、というのがしみじみとした腹の底からの僕の想いである。
今回、僕のもっとも好むフェルメールの三点(真珠の首飾りの女、リュートを調弦する女、手紙を書く女)が室内中央に並んでかけられていて、これを配置した人と僕の好みが奇しくも一致したのか、それともただの偶然なのかはわからないが、いずれにしても、そのことがうれしかった。

 というのも、フェルメールの絵が集められた部屋で、ほぼ殆どの時間を大きく移動することなく1カ所に立ったままで鑑賞できたからだ。
見ていて思ったのは、これがいま実際に僕の眼で見ていなければ、これらの絵がこの世に本当に存在しているとは信じられないだろう、ということだった。
この言葉で僕の感動がどれほどのものだったかわかっていただけるだろうか……

 何度書いても書きすぎることはないのであえて書くが、今まで何枚も(それが絵画以外のものなら何個も)美術品と名の付くものを僕の生涯を通じてみてきたが、その全体験、全邂逅の中であれほどのレベルのものは……正直見たことがない、すくなくとも西洋美術の範疇に入る作品では。すくなくとも現在発見されているものの中では最高峰といってほぼ間違いないと信じる。それほどまでの体験だった。

 前回の記事の中でも書いたのだが、とにかく際立っている、その作品群の質の高さが。
ちょうどフェルメールの絵と一緒に同時代のオランダ絵画の作品が置かれているのだが、たいへん失礼な表現であることを承知の上で申し訳ないと思いながらあえて書くが、それらの絵はフェルメールの作品群がいかにずば抜けたものであるかということを示すために置かれているとしか思えないほど、フェルメールの作品群の質の高さが印象に残った。

 それらの違いはどこから来るのか、もちろん技量の高さは言うまでもない、しかしながら、それだけではないことも明白である。
あれらの作品群が内在的に持つ精神性の際立った高さ…技量が他の画家と比べてずばぬけて卓越して見えるのは、実際には技量の問題というよりも、フェルメールという人物が持つ精神・魂の質、在り方ゆえではないか…そして彼には奇跡的にそれを視覚的に表現するすべ(絵画的技量)が備わっていた、というほうがよりしっくりとくる。

 本当に大切なものは眼には見えない、といったのは星の王子様だが、実際に自分の目の前にありながら、僕はどこかで自分がいま見ているものは実際には眼に見えないものではないか、それが何らかの奇跡的な力の影響で見えているのではないかとずっといぶかっていた。しかし、どんなに目をしばたいてもそれはそこにある。言い換えればそれほどまでに「精神的な体験」だった。この不思議な、神秘的な恍惚感に会場内で満たされていた。
 
 こういう経験は人生でめったにできるものではない。少なくとも僕の人生でもほんの数回ほどしかない。
本当に行ってよかった。見てよかった。
 フェルメール展はこれから大阪に移っていく、そしてまた、海の向こうのそれぞれの所有者のもとに帰っていく。


 

 

 


 

 

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