例によって確定申告で忙しく、どこにも出られなかったうっ憤を晴らすかのようにここのところでかけまくっている。
まずは昭和記念公園。とにかくわが愛犬を中々散歩に連れていくことができず、罪悪感を感じ続けていたのでこの子を歩かせるのに最もいいところを選んでいる。
この公園の近くには古い友人がいて、もしやいるかと思い電話をして誘ってみたら来るということなので会うことになった。
考えてみれば、この友が僕にとって最も古い友達のカテゴリーに入っている。
正直いろいろあった。それにもかかわらずこうして友情が続いている。これはもうなんらかの「縁」というものがなければこれだけ長く続くことはないのではないかと思う。
どの人間関係でもたどる、初期のころの全肯定期、中期の中庸期、そして、後期の全否定期のすべてを乗り越えて、もう「その向こう側」に出たように思う。
だいたい、終わってしまう人間関係というのは最後の全否定期を乗り越えられず、そこで終わるものだ。
話をしているうちに、何も話すことがなくなり自然と沈黙が流れた。
通常の関係では、この沈黙がなんとも居心地が悪いものである。しかし、この友といる間は、それがなんともない。
居心地が悪いどころか、何とも心地いい。
お互いの声が絶え、まったく人間の声が聞こえなくなると、風が吹き木々の葉の擦れ合う音、鳥の鳴き声だけが聞こえてくる。その時間がなんとも言えずよかった。
永遠ということすら感じた。
そして今日、箱根の五百羅漢がいる長安寺を再訪した。
やはり紅葉がないせいか前回行った時のような高揚感はなかった。
ただ、様々な表情を見せる羅漢様たちは見飽きることがなく、楽しませてくれた。
入るとき、「まず本堂で拝んでください」という札があった。
いきなりおくの羅漢様を見に行く観光客が多いせいだろう、和尚のイライラが伝わってきた。うがった見方をすれば、まず金(賽銭)を払ってくれ、という意識さえ感じる。
こういう札はときどき仏教寺院では見かけるし、なかには、住職自らが直接参拝者たちにそう指示しているところを見たこともある。(このお寺でのことではない)
まず御本尊を参拝することは常識であり、当然そうしなければならないのだが、それをこう言う感じで指示されるとなんとなく有難味が薄れると思うのは僕だけだろうか。
僕は海外の教会もたくさん訪れたことがあるが、まず海外の教会ではほとんどのところが拝観料など取ってないし、ましてや、そこの神父や牧師が参拝者たちにまずキリスト像を拝めなどと指示しているのは見たことがない。
拝観料をとらないのはおそらく、本当に貧しくて拝観料さえ払えない人びと(たとえばホームレスの人々や低年金生活者など)への配慮だろう。教会はだれでも来て神に触れることができる場所。そこで拝観料などを取ることは、それを阻むことになる。このあたり、宗教がビジネスになってしまった日本仏教との考え方の相違がはっきりと表れているところだろう。
宗教者はもっと鷹揚に、寛容であってほしい。
今回、本当に久しぶり(多分4~5年ぶり)に車を運転したのだが、30分ぐらい運転していたら体が思い出した。
ただ、七曲坂と名付けられたグニャングニャンの急カーブが続く坂道には参った。久しぶりのドライバーには荷が重すぎた。
だがそれでもそれ以外のところは全く危なげなく運転できた。俺って運転うまいな、とさえ思った。
今日の富士山ははっきりと見えた。しかも、まだ寒いためか、ふもとのほうまで雪に覆われていたように見えた。
富士山はいつから富士山と書かれるようになったのだろう。あれはやはり古の習い通り不二山(二つとない山)と書くのがふさわしい。