気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

知られざる一面

2024-12-02 18:34:13 | 歴史

 

 

 

 永青文庫で展示されている信長自筆の書状を見てきた。
この写真は永青文庫で販売していた書籍の写真を写したもの。これは1577年松永久秀が信長に反旗を翻しそれに信忠を総大将とする追討軍を派遣したときに、その追討軍に参加し松永方の片岡城攻めで一番乗りを果たした若干15歳の細川忠興に与えた感状(感謝状)である。

 

 戦国時代の大名の手紙というのは通常大名本人が書くのではなく、右筆とよばれる人が代わりに書いて出される。しかしこの書状は信長自身が筆を執って書いている。信長の自筆書状というのはとても少なく、どれだけ信長が忠興の手柄に大きく心動かされたかが感じ取れる。
 信長公記にも「年にも足らざる両人(忠興と弟の興元)の働き比類なきの旨、御感なされ」と書かれている。

 



 与一郎(忠興のこと)
 働手から[ 読み取り不可 ]
 かしく、
 おりかみ 披見候、

 いよいよ
 働候
 事候、
 無油断
 馳走候へく候、

 十月二日(天正5年)
 与一郎殿

 

現代語訳すると
『手紙を披見した。さらに励んで働くように。たいへんな手柄であった。』


 

 まずこの書状を、この実際に信長が書いた書状を自分の目の前数十センチで「目撃」した感動はなかなか言葉には表せないものがあった。
もちろん信長という人は実在した人物だ、それはわかっているわかっているが、やはり「どこか」今自分が存在しているこの現実世界の時間的延長上に存在していた人物とは感覚的に100%信じ切れていない部分があった。しかし、この信長が直接筆を執ってしたためた書状を目の前わずかな距離で見たことで、それは間違いないことだったんだなということを現実感覚として感じた。わかってもらえるだろうかこの感覚…

 
 この時期の研究をしている学者の言葉に、実際にその当時の状況をリアルタイム目撃しているかのような錯覚にとらわれる、というような言葉をどこかに記していたが、まさにその感覚である。

 そして思うのは、信長という人の今までの僕には未知の一面を垣間見せてもらったという新鮮な感覚。
まだ15歳と13歳ぐらいの今でいう子供が、城攻めの一番乗りを果たしたということを細川藤孝からの書状で知らされて非常に感じ入ってわざわざ自分で筆を執ったということ…その信長の心におもわずハッとさせられるものがある。

 
 打てば響くというが非常に感じやすい(感動しやすい)人であったことがそこからくみ取れる。
ふつうの人物ならそのような話を聞いても、藤孝に忠興たちの手柄に自分が大いに感じ入っていたと伝えるように書き伝えるだけではないだろうか。自分でじかに筆を執って感状を送るというところになんともいえない信長の人間的魅力を見る思いがする。

 

 秀吉もその他多数の家臣たちも信長のこういう側面によって非常に鼓舞され、さらに手柄を立てよう、たてて出世しようという意欲を掻き立てられたに違いない。
能力とやる気のある人間にとって信長ほどつかえていてつかえがいのある武将はいなかっただろう。門閥にかかわらず能力、実績をのこした人間、たとえば秀吉のような農民同様の低い身分の人物を国持大名に取り立てていったことのその根本大本には信長のこのような気性、気質があった。

 

 それと付随して今回信長の自筆書状を見て感じたのは、信長は相当の能筆家だということである。

 

 

 

 

 


 上の書状は信長の右筆を務めた武井夕庵あての書状だが、最初の書状に加えてこれなどを見ても一つの立派な芸術作品といってもいいほどの出来の書である。
ここから想像できるのは信長は相当の芸術的な感性の持ち主だっただろうということだ。この当時から家臣に褒美として茶器などを与えていたというが、ほぼ間違いなく信長はほかのだれかその道のわかるものの評価を聞くまでもなく、自分自身でその茶器の本当の価値を見抜く眼を持っていたのではないか、ということが類推できる。
 これほどの書を書くものが茶器の真贋を見極める目を持っていないということは考えられない。

 

 最後に付録といっては何だが、光秀自筆の書状も展示されていたのでそれをのせてみたい。

 

 

 

 

 

  これは本能寺の変のわずか7日後に光秀が細川藤孝にあてた書状だ。ニョロニョロとしていていわゆるミミズのはったような筆跡であり、これも光秀という人のなにがしかを伝えているような気がする。
 しかしこれも「あの」光秀がかいた自筆の書状である。すこし意外な気がするのは三箇条の覚書という形をとっているところだ。光秀と藤孝はかつては同じ主君(足利義昭)に仕えていていわば古い付き合いの間柄だ。信長に仕えるようになってからもこのふたりは同僚といっていい関係であり、しかも光秀の娘は藤孝の子忠興に嫁いでいる、それを考えるとこの書き方の「よそよそしさ」が僕の目には奇異に映る……
 この書き方の中に主君を殺害したことに対する微妙な後ろめたさ、罪悪感、そこからうまれる開き直り的な感覚……がにおってこないだろうか。

 この展示会には当時信長と藤孝が交わした書状がほかにも複数展示されていて、それら信長の書状の中でいろいろな指示を藤孝に出しながらも、大事なことは光秀と相談するようにという言葉が随所にあって、信長の光秀に対する信頼がいかに厚いものであったかということが感じ取れた。そしてその信頼は信長の死の前までずっと続いていたらしいことがわかり、それを思うにつけどうしても『なぜ』という思いが自分の中に立ち上がってくるのを禁じえなかった。
 
 この二人の相手に対する受け止め方の差異、落差は何だろう、どこから生じたのかという思いである……


 以上、いろいろなことを考えさせられ、本当に歴史好きなものにとっては貴重な、貴重な、得難い体験をさせていただいた。

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時代が彫り上げた人々

2024-09-13 16:23:06 | 歴史

 

 

 

 

 つい最近、信長が細川藤孝にあてた書状がみつかった。
全文を読んだわけではないのでニュースにあった「いまこそ大事な時です。「南方辺」(山城・摂津・河内方面)の領主たちを、誰であっても、信長に忠節してくれるのであれば、味方に引き入れてください」とか「あなただけが頼りです」とか「今年は「京衆」(将軍義昭の奉公衆)は誰一人として手紙や贈物をよこしてきません。その中にあってもあなたからは、初春にも太刀と馬とをお贈りいただき、例年どおりにお付き合いくださる」などという言葉を読むと今川義元が侵攻してきた時以来の人生最大の危機?にあたって、かなり気弱になっていることが感じ取れる。

 

 今ざっと1572年当時の状況や勢力図を見てみたのだが、やはり信長がこういう心境になったのはわかるような気がする。あの当時、信長を取り囲んでいる大名家がすべてほぼ同時期に信長領国に攻め込んでくれば、たぶんだが織田家は滅びた可能性が高い。信長にとって幸いだったのはやはり通信伝達手段が原始的だったこともあり、そのようなかなり離れた勢力同士の協調した同時攻撃ということは難しかったことだろう。

 

 実際、この時が、義元の侵攻時を除けば、信長以外の勢力が信長を倒せるほとんど唯一の機会だったのではないかと思う。
だが…信長にとってはさらに幸いなことに最大の強敵だった信玄が西上途上で死んだ。よくユーチューブの動画などを見ていると信玄が後10年生きていたら…などというものがあってこの仮定は確かに面白いと思う。

 

 どうだろう…信玄が後10年生きていたらほんとうに織田家は滅んでいただろうか。そこまではわからない、世間では信玄存命時の武田は戦国最強だったといわれているが、ぼくはその点についても本当にそうだったのかということについては少し懐疑的である。やはり戦術家としての力量、才能という点で見れば信玄よりも信長のほうに優位性があるように僕には感じられるからだ。
 

 信玄と信長が同数の兵力で戦えば、双方相当な被害は出たと思うが、やはり信長に軍配は上がるのではないかと思う。
「それにくわえて」鉄砲という要素もある。これはしかもかなりおおきな影響力を持つ要素だ。畿内に近いところを支配していた信長はより多くの鉄砲を手に入れられる有利な立場にあった。設楽が原の戦いのときも信長と勝頼の所持していた鉄砲の数に圧倒的なといっていいほどの差があり、それは間違いなくあの戦いの結果に大きな影響を与えたからだ。それはおそらく15
72年前後でも同様だったのではないか。

 このことは武田と織田との間にはすでにその経済力にもかなりの差があるということを示している。畿内に近いところを支配しているということだけではないだろう。武田がどんなに領国を広げようとも、その領地のほとんどは山岳地帯だ。日本でも有数の石高を誇る尾張と美濃を支配している信長のほうに圧倒的な利がある。1572年当時ではすでに武田単独では信長を攻め滅ぼすことはできなかったに違いない。

 ただ、信玄が死なずにあのまま西上していればそれに呼応して周辺勢力も決起して次から次へと雪崩を打つようにして織田領内に攻め込んでいったかもしれない。そうなったら…いかに信長といえどもお手上げになっただろう。このとき信長が恐れていたのはまさにこれだっただろう。

 

 これは完全に僕の個人的な感覚でいうのだが、同数の兵力と武装で第三国からの攻撃がない状況下で戦って信長に勝つ可能性のある武将が当時どれだけいたかというと…上杉謙信と前年に死去した毛利元就、そして、信長の同盟者だった徳川家康の3人だけだったと思う。
 いつも思うのだが、信長にとってやはり家康という同盟者がいたことはこれ以上ないほどの幸運だった。智謀、勇気、戦略戦術眼すべてにおいて一流であり、かつ、けっして己の損得利害で同盟者を裏切らない仁・義(現代では変なニュアンスを持つ言葉だが、今の僕にはこの言葉以外に家康という人を表す言葉はない)を持っていた。これほどの同盟者はほかにいない。

 

 話を最近発見された信長の書状に戻すが、信長はこれ以外にも信玄にあてて、もし自分の配下の者があなたに失礼を働いたときはすぐにおっしゃってください、というご機嫌取りのような書状を出している。おもうに、もし信長があの時代ではなく鎌倉時代や、江戸時代など平和な時代に生まれていたら、やはり、普通の(ちょっと変わった変人とみられたかもしれないが)ごく普通の、上の者に細かい気を遣う地方の小領主として、おそらく人並みの気疲れをしながら生涯を閉じたと思う。
 まさにあの時代が彼にあのような運命・宿命を与えたとしか言いようがない。

 

 よくドラマなどで描かれるような傍若無人で人を人とも思わないような悪漢のような人物ではもちろんないだろう。それは彼の肖像画を見ても感じ取れる。非常に繊細な神経を持った人物であろうことは容易に見て取れる。ただ、一つだけ世間一般の評価とたがわない部分があるとすれば、それはあの肖像画にもはっきりと顕れている背筋に氷でも入れられるような怜悧な側面だ。あの肖像画を描いた画家がだれなのか僕は知らないが、その画家はそれを本当に見事に描きだしている。

 

 いずれにしても、そんな様々な幸運に恵まれた彼の人生を突如終わらせる最大の不運は外からではなく内からもたらされた。それをもたらしたのはかつて彼が最も高く評価し、また、彼にだれよりも恩義と敬意を抱いていた男だったのは…数奇としか言いようがない。光秀はもしあのようなことをしなければ(させられるところまで追い込まれなければ)その能力から言って、家康を支え続けた井伊直政か本田正信のような名参謀の役割を担っていたかもしれない。そのことに関しては家康が晩年に残した書状の中で簡潔ながら実に深く精確に洞察しているように、まさに信長という人格が背負った、ある意味そうなるべくしてそうなった、宿命と呼んでいいだろう。

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数正の孤独 ある仮説

2023-10-03 07:26:14 | 歴史

時空の窓

この窓から出るとあなたの生きたい時間、時代に行けます。今は会えないあの人にも会える

 

 

 

 

  久しぶりの更新となる。ツイッターをやるようになってから日々考えて気づいたことをツイッターに書くようになり、結局僕の書きたいという願望がそっちの方で満たされてしまいブログの方が書けなくなっていた。でも、これからは前のようにブログ中心に戻したいと思っている。

 

 といっても特に書くことはないのだが(笑)やはり大河ドラマのどうする家康を見てちょっと思いついたことを書いてみたい。
例の数正の出奔についてちょっと思いついたことを書きたい。これは本能寺の変と並んで戦国時代の大きな謎とされている事らしい。それはそうだろう、やがては天下を取る家康の腹心中の腹心、酒井忠次と並んで双璧といわれた人物がいきなり家康のもとを去り秀吉の傘下になったのだから。

 

 この真の理由については資料が残っておらず、いまでもわかってないという。
本能寺の変と同じくいろいろと推測はされているが、そのどれも決定的なものはないといわれている。
 
 僕は研究者ではないので資料を読み漁ったりとかはしてない。ただざぁーっと動画を見ただけだ。
これも本能寺の変と同じでどれももっともらしくて、当たっているかもしれないし、当たっていないかもしれない…結果が数正が出奔したというだけのことなので本能寺の原因と推測されていることほど奇抜で突拍子もない原因というものはないが、僕の眼にはそのどれも「核心」からは外れているのではないかと思うのだ。

 

 ただ、本能寺の変の原因と共通する部分があると僕が感じるのは、この手の謀反というものはその核心部に行けば行くほど理性というものだけで割り切れるものではなく、かなり人間心理の深奥にまで入っていかないと説明ができないのではないか、ということ。
 ただし破滅的な結果になることがほぼわかっている本能寺を起こした光秀の場合と違い、数正の出奔の場合は一応出奔後の待遇は秀吉から約束されていただろうから、そこには光秀の心理よりもより理性的な動機の割合が高かったのは間違いないだろう。

 

 が……僕はそれら理性的な動機はその本質的な動機とくらべれば所詮間接的なものでしかないと思う。
というのも、どれだけもっともらしい理由を挙げたとしても、一介の家臣、武将ならともかく、当時家康の腹心中の腹心であり、文字通り右腕であった数正がその主の元を離れるというのは、尋常なことではない。いまでいう会社員の転職とはその決断の重みが全然、格段に違う。


 この出奔の動機を探る動画もいくつか見たが、その中で一本だけ築山殿と信康の事件をにおわせたものがあったが、軽くにおわせたのみでその動画の作者自身それはないだろうという感覚でしゃべっていたように記憶する。
 まぁ、たしかに特に男性はそうだと思うが、この種の謀反には当然政治的、理性的な理由が中心にあるはずで過去の感情的な怨恨などは関係ないか、あったとしてもわずかな影響しかないだろうと考えると思う。

 

 でも僕は逆に人間が理性的にはあり得ないようなことをやる場合には、その核心部には非常に心理的、情緒的な動機があるはずだと思う。
つまり、多くの人が関係ないと軽視しているこの築山殿と信康の死と数正の出奔は、その奥の奥、深層部ではつながっているのではないかと思うのだ。家康が信康、築山殿を亡き者にしたことに関しては、おそらくはそこにそうせざるを得ない理由があり、家康自身も苦渋の決断だったと僕は考えるし、たぶん数正もそれに関してはやむを得なかったと思っていたに違いない。

 

 ただ、僕にとってひとつひっかかるのは築山殿と信康が家康から死を賜った理由であるといわれる謀反の疑いだが、それに数正がどの程度噛んでいたのかということだ。
僕はおそらくだが家康も理性的な部分では否定しつつも、そのことはこころのかたすみにずっとあったのではないかと考えている。もちろん、この事件のあとも家康はずっと数正を重用し続けたので、表向きには関係はないと割り切っていただろう。
 だが、人のこころというのは思いのほか複雑なものである。

 

 秀吉の和睦交渉は、小牧長久手の戦いが実際に干戈を交えた戦いだったとすれば、その後の交渉は家康と秀吉の心理戦といっていいものであり、天下分け目の戦いの第二幕だったと僕は考える。それは難航し、一歩選択を間違えれば家康自身が滅びたかもしれないぐらいきわどい「戦い」だった。その「戦い」の主役をまかされた数正だが、ドラマでも描かれていた通りまともに再び戦場で戦えば、力関係から言って勝敗は明らかであり、ぜったいにそれは避けなければならないと考えたと僕も思う。

 

 注目したいのはこの時の三者の心理である。
秀吉は何とか家康を大阪に呼び出して諸大名の前で自分に臣従したということを見せつけたいとおもい、数正もそうしなければ徳川家は滅びると思っていた、家康はおそらく基本的には数正と同じ考えだったに違いない。ただ一つの懸念点は秀吉のその意志が真実なのかということだったのではないか。つまり、そうみせて上洛した家康を捕らえ殺害するのではないかという危惧があったと思う。

 

 その際、家康の脳裏にふと浮かんだのが、築山殿、信康の謀反の疑惑と数正とのかかわりについてではなかったかと…僕は考えるのだ。上述したとおり、数正がこの事件にどこまで噛んでいたのかということ、『もし』深く嚙んでいたのであれば、家康は数正が秀吉に調略されて家康を呼び出し、家康を亡き者にすることに加担しているのではないか……という考えがたとえかすかにしても胸をよぎったとしても不思議ではない。

 

 そこに数正出奔の核心的な理由が隠されているのではないか、という思いが僕のなかにかなり大きく無視できないものとしてある。
つまり、家康とのやり取りの過程のどこかで家康のその心理に数正が気づいたのではないか、そして数正は自分を信じていると思っていた家康のその心の奥底には自分へのたとえかすかなものではあっても疑念があるということを知り、絶望し、もはや主従の契りを切らざるを得ないというところまで追い詰められたのではないか。
 もちろんそのような疑念を抱いていたのはおそらく家康だけではなく、数正と築山殿、信康との深いつながりをよくしる家臣たちの心の中にも同じ疑念が芽生え始め、どことなく数正を見る目が変わってきた…結局そういった周りの変化全体に数正は心理的に追い詰められ、最後には身の危険まで感じ始めたのではないか、というのが僕の仮説である。

 

 数正にそのような叛意がなかったことは歴史が示すとおりであり、家康がそんな疑念を持つことはあり得ないと思うかもしれないが、それは歴史を後付けで見るからそう思うのであって、実際にリアルタイムで進行していた時にはそのような疑念が家康の心中に生じたとしても不思議ではない。
 もし、僕のこの仮説が真実に近いのであれば、それは数正にとっても家康にとっても悲劇的なことだろう。家康だって好きで自分の忠臣を疑いたくはなかっただろうからだ。


 通常、この出奔の理由として挙げられているいわゆる政治的な理由だけであれば、はたして数正は出奔までするだろうか?それだけでそれまでの徳川家中枢部にいた地位をなげうってまで、出奔などという実際には秀吉が自分をどのように扱うかわからない不安定な状況の中に自ら飛び込んでいくだろうか?もし徳川家中の中でそれ以降冷や飯を食うことになったとしても、巻き返しのチャンスはいくらでもあったはずだ。老練な数正がそんなことをわかっていないはずはない。

 

 これほどのことをするには、やはり、数正と家康の間にあると数正が信じていた『信』に現実にはひびが入っていたということに数正が気づいたことからうまれる絶望以外に考えにくい、と僕は考える。
 この仮説はもちろん資料の裏付けなどないし、あくまで推測の域を出ない。
しかし、僕はここに彼の出奔理由の主要な核心を見る、人間の心理の現れようというものを考えるとそう思えてならないのだ。

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どうする家康を見て

2023-07-04 05:08:29 | 歴史

 

 

 

 

  歴史が好きな人間として、家康を尊敬している人間として、どうする家康は見ている。リアルタイムで見るのは難しいので、NHKオンデマンドで見ている。これはいい、自分の空いた時間にいつでも見られるからだ。

 ところで、このNHKオンデマンドで演技をしている俳優たちのインタビュー集のようなものがある。(現在このインタビューだけは無料で見られる)そのなかに出ている瀬名役の有村架純さんがなにか思い詰めているような一途さ、誠実さを滲ませていて、いままで瀬名にたいして理想に近い女性だと感じていたんだけど、彼女を演じているこの有村さんの話している姿を見て、瀬名とは違う意味で好感を持った。 

 

 彼女と共に印象に残ったのは巫女と忍び役を演じている古川琴音さんだ。
なにかシャーマニックな雰囲気を実物の古川さん自身も持っていることを感じたが、(そのためこの役にはぴったりの抜擢だと思った)それよりも印象に残ったのが、かなり知性の高そうな人だということ。
 瀬名との会話のシーンで「危うく毒を盛られるところでした」というセリフがあるのだが、そのときに真剣な顔で話そうか少し茶化した感じにしようか迷っていて、それはその時の雰囲気で決めようと思ったと彼女が話していた。それを聞いての感想である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 彼女の経歴を見ると学生時代から演劇部に属していたと知り、あぁなるほどやはり芝居というものを専門にやってきた人だからこその言葉だなと思った。
それと同時に、このドラマの監督の方は役者にかなりの自由裁量を与えているんだなとも思った。というのも、あの世界的な巨匠、小津安二郎監督の場合は演技の非常に細かいところ(非常に微妙な視線や表情、手の変化や動きなど)まで指示して、彼の理想通りの演技になるまで何回も何回もやり直しをさせたという話を聞いていたからだ。当時の女優のインタビューを聞いたことがあるのだが、新人の頃はそれがほんとに怖くて戦々恐々として演技に挑んだといっていた。

 

 まぁ、それはともかく、古川さんという人から放射されている知性というか、感受性というか、そういうものの尋常ではない鋭さが強く印象に残った。僕は普段ドラマや映画をあまり見ない人間なんだけど、この人が出た作品でよさそうなものがあれば見てみようと思いはじめた。 

 

 さて、役者の話はこのくらいにして、このドラマについての感想を簡単に書いてみたい。
まず家康像だが、まぁ、こんな家康像も面白いと思った(笑)というか、実際の家康にも人間である以上、こういう側面はあったに違いない。今までは前半生が描かれてきているが、こういう「迷う家康」という部分は逆に僕は彼の後半生に特に現れてきていると感じる。

 そう、それは彼が秀吉亡き後の豊臣家との関係をめぐる駆け引きの中ではっきりと現れてきていると僕は感じる。
小牧長久手の後、秀吉との関係を再構築して、たとえ形の上とはいえ秀吉に臣従して以降、ライバルというよりは共に日本統一を目指して戦った「同志」的な立場になった家康。その過程でおそらく家康は人間秀吉というものに触れ、あの人たらしといわれた秀吉に一定の親しみのようなものを持っていったと僕は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この過程の中で、あろうことか(と家康は思ったに違いない)家康と秀吉との間にはなにがしかの情のつながりが生まれたと考えるのが自然である。
幼少期の秀頼の姿なども目にしたこともあるはずだし、さらに秀頼には自分の孫娘まで嫁がせているのだ。
 年表を見ると秀吉の死後、大阪夏の陣で豊臣家を完全に滅ぼすまでに実に17年もの歳月が流れている。この長さは豊臣家はあまりに巨大でありそれを滅ぼすにはこれだけの時間がかかったのだ、というとらえ方もできるかもしれないが、それにしてもあまりにも時間をかけすぎている。

 

 僕はこの17年は、その間に彼がたどった葛藤、迷い、情と知の間の揺れ動きの17年であったと思う。僕が感じてきた家康という人物のひととなりというものを思うとき、そう考えるのが一番しっくりとくる。
 これが信長や鎌倉政権を作った北条氏であれば、まようことなくできるだけ迅速に最短で滅ぼしたであろうことは容易に想像できる。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 彼の全生涯でまさに何度も訪れたであろう「どうする」のなかでも、おそらく最後の「どうする」になったであろうこの豊臣家をどうするか?という迷いは実に17年という歳月を彼をしてかけさせたのだ......
 僕が家康という人物をほかの戦国大名と比べて「特異である」とおもうのは、彼からはほかの武将にはほぼ見られないある種の道義性、倫理性とでもいうのだろうか、そういうものを感じずにはいられないからだ。それは彼の人生の非常に重要な場面のいくつかでキラッ、キラッと閃光のように発露している。わかりやすく言えば損得、利害という当時の武将たちのほとんどがそれをベースにして動いていた要素を、超越して動いているところがある。

 

 巷ではこのドラマはあまりにも史実を無視しているという批判があるようだ。しかし、ドラマは歴史研究ではない、それを書いた作家や脚本家の視点や感受性の影響が織り込まれているのは当たり前である。たしかに、家康と瀬名、そして、最も重要な関係である家康と信長の関係性の描き方にぼくも少し違和感は覚える。家康と瀬名のロマンスは僕も史実とはやはり違うと思う。思うがそれはまだいいというか、このドラマの個性としてあっていいと思う。

 しかし、信長と家康の関係性はあのような上と下、抑圧者と被抑圧者という単純な関係ではなかったと僕は考えるだけに少し失望しているというのが正直なところである。
この二人の関係性はそれほど単純ではない......と僕は考える。この二人の関係性を間違って捉えることは、それはつまり、信長、そして家康という人物が何者であったか?という視点そのものが狂ってくることを意味する。それほど重要だと僕は思う。

 

 このドラマは創作としてはおもしろい、とくに瀬名と家康の関係の捉え方はとても斬新な挑戦であり、いくら創作とはいっても勇気のある切り込み方だと思う。しかし、人物描写における陰翳、奥行きの浅さ、広がりの狭さから生まれる、短絡、浅薄感、『歴史作品としての』全体的な整合性、統一性の薄さという批判は受けても仕方がないのかな、という気はする。それは偉そうに聞こえるのを許してもらえれば、脚本家のこの時代の歴史というものに対する勉強不足から生まれるものもあると思う。

 ただ、それもコインの両面のようなもので、斬新さというものをあそこまで大胆に前面に出せば、後者の側面というものはある程度犠牲にしなければならないのかもしれない。NHKも最近は変な政治家がいろいろとうるさいし、視聴率というものを完全には無視できない以上、こういう楽しませることに重点を置いた作品作りをしてもいい。そういういみでは僕もすごく楽しんでみている。

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非常に非常に(今風にいえば超)秀逸な動画を見ておもうこと

2021-01-25 05:04:37 | 歴史

【麒麟がくる完結記念】本能寺の変、諸説検証~明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか~

 

 

 

 大河ドラマはもう終わっただろうなと思っていたら、なんとまだ続いているんですね。例のコロナで撮影が遅れた影響でしょうか。
実は僕は日曜も仕事をせざるを得ず、ずっとあれほど楽しみにしていたこのドラマを見ていなかった。ユーチューブで予告編のようなものを細切れに見ていたにすぎない。ただいずれはNHKのアーカイブのサイトでお金を払ってみるつもりではあるが。

 巷ではNHKに対する敵意を露骨に表現する人々がいるようだが、そんな声など気にする必要などないと僕は思っている。
日本のどこにNHKほどのハイレベルなドキュメンタリー番組を作り(これに比肩しうるほどの質のドキュメンタリー番組を作れるのはNHK以外ではたぶんイギリスのBBCだけだろう)、日本のどこにNHKほどハイレベルな芸術関係の番組を作り、日本のどこにNHKほどのハイレベルなドラマを作れる集団がいるだろうか?ぼくの知る限りはない。

 NHKは僕から言わせると無形文化財のようなものであり、これをなくせというのはたとえるならある非常に価値の高い陶器を実用的ではないからという理由で捨ててしまえというようなものである。文化財というのはその国全体の財産であり、それはたとえその価値に実用性がなかろうが、あるいはその価値そのものがわからない人であろうが、その国の国民である以上それを守る義務があるというのが僕の考え。

 さて話を戻すと、光秀のことである。昨年からずっとこの人のことが僕の心の隅のほうを占めていて、事あるごとに考え、そして感じ、そのことはこのブログにも何度か書いてきた。
そうしているうちに偶然非常に、非常に、すぐれた動画をユーチューブで見つけた。(さきほどNHKよりハイレベルなドキュメンタリー番組はないといったが、これはそのとても稀有な例外かもしれない)
 古事鏡という動画制作者が作った動画だが、本当に質が高いのでちょっと感動さえしている。論理の展開の仕方が緻密で「隙がない」。しかもそれでいて、いやそれだからこそというべきだが、ものの見方が多角的で、高度な知的相対性(はじめに結論ありきではなく、その上から全体をバランスよく相対的に可変的に俯瞰している感じ)を保っている。

 この動画を見て、あらためて以前このブログに書いたことである、僕が変の決行日から類推した、光秀は謀反の決行を直前まで迷っていたという「勘」と、様々な黒幕説、野望説というものに否定的である僕の考えがより強固なものになっていった。そして思うのは、あの謀反の原因と考えられるものはこの動画で挙げられている様々な説のどれか一つだけではまずなくて、野望説、黒幕説をのぞくほぼすべての原因が複合的に光秀の中で蓄積され、絡み合った結果おこったのではないか…ということだ。

 それらのどれにより多くの比重が置かれていたかということはあっても、それらのうちの一つあるいは二つというものではなく、おそらくそのすべてが絡んだ結果であったことはほぼ間違いないと思う。
 司馬遼太郎氏は光秀の謀反をノイローゼという一言でかたずけてしまっていて、まぁ、彼の生きていた時代にはまだこの謀反に関する様々な資料が発見されていなかったこともあって無理もない部分もあるのだが、司馬氏のような解釈をするのはあまりに短絡的、表層的であろう。

 それではこの謀反が高度な政治的意図や綿密にねられた計画性のあったものであったかというと、そういう要素はあるにせよ、必ずしもそうでもないだろうというはっきりと断定できない部分が濃厚にあることも確かである。
 ただ…僕のなかでいままで煮詰めてきたものから感じることの中に、この司馬氏の言うような「精神的な」要素も多分にあるであろうこと、つまり、この謀反はきわめて「光秀固有のメンタリティー」との絡みをぬきにしてはその真相にはたどり着けないと思うようになってきている。そしてたぶんそれゆえにこの謀反が日本史最大の謎とされるのではないかと思う。

 そのことはこの動画の結論部(59分43秒あたり)に平井上総氏の言葉が紹介されていて、これが結論部に紹介されているということはこの古事鏡の作者もこの見解に強く共感しているのであろうことが推し量れるが、僕もこれは平易な表現であるものの、この謀反の本質というものを暗に、また、方向としては正確に捉えた言葉であると思える。
 日本史を劇的に変えた事件、それとそれが起こる原因のひとつとなった二人(信長と光秀)の非常にパーソナルな関係性(精神性)との対比、平井氏のこの言葉はおそらくそれを洞察したうえでのものであり、この極大と極小のコントラストを控えめに、しかし鋭く浮き上がらせている。

 

 

 

 

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