気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

諸事雑感 4月21日

2020-04-21 12:44:43 | 日記

 

 

 コロナの不安が続く中、僕はある一定の冷静さの中にいる。ただし、それは一枚皮をむけばとてつもない恐怖と不安の塊の上にある「冷静さ」ではあるが。
 ただ、その冷静さもあながち根拠のないものでもなく、僕はこの騒ぎがあるずっと前から健康には普通の人以上に気を使ってきていて、食生活なども食べたいもの、飲みたいものをグッとグッと我慢をして(笑)、健康にいい食事をし続けてきたことによる自信のようなものもあるからである。

 風邪(インフルエンザ等)で熱を出すというようなことはここ5~6年経験したことがない。
まぁ、それはちょっとのどが腫れたりしたらすぐに葛根湯を飲んで抑えてきたというのもある。しかしそれもわずかに数回程度である。

 とくに、小食健康法というものをやって食生活をほぼ玄米菜食と野菜ジュースを主にとるものに代えて以来、ほぼ病気知らずである。
以前の僕はこんなに丈夫ではなかった。風邪で発熱することは年に2回ぐらいは必ずあった。それも1回ぐらいはひどくなり、必ず医者に行って抗生剤を処方してもらってやっとよくなるという具合だった。

 それが、ここ4~5年前から上記の食生活に代えて以来、そういうことはまずなくなった。
いまさらながら、日本古来からつたわる食養生、近世になって桜沢如一氏によってとなえられたマクロビオティックをかじり、それを実践してきてからの僕の健康状態の改善は著しいものがある。

 この騒ぎが始まって少し経つと、普段は免疫力などという言葉には見向きもしない人々が、コロナには納豆が効くという風評?(こういう時はなぜか伝家の宝刀のように使ってきた風評という言葉を使わないのが不思議である)を信じて、一斉に買いあさり一時はスーパーの棚から納豆が全部消えたこともあった。
 もちろん納豆は免疫力を高めるし、健康を維持するうえで非常に大切なものではある。が、普段なんでもかんでも食べたいものを食べ、飲みたいものを飲んで自らの体をいじめている人々が、いきなり食べ始めてもそうそう急に免疫力が上がるとは思えない。

 それに、いくら体にいいからといって何か一つのものだけを食べて、それだけで感染症に対する抵抗力がつくとは思えない。さまざまな体にいいものを普段からまんべんなく、そして、数か月から数年以上にわたって食べ続けて初めて効果が表れてくるものである。

 先日読んだ記事の中に、米スタンフォード大学の研究チームの調査でこのウイルスに感染している人々の数は実は発表されている人々の30~50倍ぐらい(正確な数字は忘れた)はいるのではないか、よって、実際の致死率は0.1%ぐらいになるのではないか、という調査結果があった。 
 であれば、コロナウイルスの致死率は普通のインフルエンザの致死率とほぼ同じであるということになる。

 あのスタンフォード大学の調査なので、相当の信ぴょう性があると思うが、もしこれが本当なら、このウイルスに感染してもほとんど大部分の人が大事に至らず治癒しているということになる。これはかなり僕らを力づけてくれるニュースである。

 とはいえ、このウイルスの我々の健康に対する影響は心配だが、僕はそれ以上に経済に対する影響が心配だ。
今日の記事で、大阪府が休業要請に従わなかった企業、店舗の名前を公表するというものがあった。僕はこれを読んで大阪府というのはなんという乱暴なことをする自治体なのかと思った。

 役人は命令する立場であり、飲食店などが何か月休業しても痛くもかゆくもない。自分たちの身分や給料は保証されている。だが、それら飲食店やそのた企業は大勢の従業員を抱えているのだ。これ以上休業が続けば、給料を払えず解雇せざるを得なくなる。そうなれば、それらの従業員は路頭に迷うのだ。生活できなくなるのだ。そのことをつゆほども考えたことがあるのだろうか。

 要請とは言っても、ここまでするのであればそれはもう強制である。廃業しろといっているのと同じである。
であれば、それによって利益が出なくなり従業員の給料が払えなくなった企業への補償をするのは当然だろう。先に補償を確約されて初めて休業できるというものだ。
 それもせず、ただ名前を公表する、などというのは独裁国家のやることである。その記事には多分大阪府の知事の顔写真であろう、人の顔写真がのっていた。なんという人の心に配慮のない暴君なのかと。

 一人10万円を配るなどということをやるより、一律にこの緊急事態宣言で休業要請に従った企業、店舗の従業員に給与の支払いを保証する、それに従わなかった企業には罰則を科す、ということをやらなければならない。
 
 僕は写真が好きなので、写真関係の動画を見るのだが、どこかの動画のコメント欄に、この10万円が出たら新しいカメラを買おう、などと書き込んでいる人がいた。なんで我々が汗水たらして払った税金が誰かのカメラ代になるんだ!と思うが、所得に関係なく全員に配ればこういうことになるのは眼に見えている。
 そして、このことに気づいていない人が多いと思うが、この10万円を払うために使われる費用は、やがて我々が将来はらう税金に上乗せされてくるだろうことは間違いあるまい。みんなはタダでもらえると思っているのだろうが。

 それよりも、とにかく、全休業期間休業要請に従った企業の従業員の給料を完全補償することのほうがよほど社会の安定化にはやくにたつ。このごにおよんで、選挙目当てのような、飴玉政策はやめてほしい。こんなことは行政、財政に責任を持つ立場の者がやることではない。

 病弱な人々を守ること、医療現場の崩壊を防ぐこと、それらはもちろん大事である。それはいうまでもない。
しかし、資本主義社会を支えている経済自体を崩壊させたら……病弱な人々も、医療の現場も、そしてそれ以前に、人間全体の生活そのものも存続できなくなる、ということを忘れてはいないだろうか。

 こういうとき、かっこいいことを言う人々は支持されやすい。しかしそこであえて、表面的には冷たく響くことでも、受けは悪くても、選挙で負けることになっても、長期的には国を国民を救う施策を出し実行できるのが「本物の政治家」ではないだろうか…
 

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コロナウイルスについてある別の視点から思うこと

2020-04-07 04:29:36 | 日記

 コロナはまだまだ続いている。緊急事態宣言の発令も近いという。
戦争以外でこういうものが発令されることはないだろうから、今はやはりよほどの危機的状況だということであろう。

 僕の同僚でこんな時でもパチンコに行っている人がいる。それを聞いたときは一瞬憎悪に近い感情を覚えたが、やはり人口の一定割合にはこういう人がいて、こういう人が感染を広げるというのは避けられず、だからこその緊急事態宣言なのだろう。

 さて、感染状況だがどうしても興味を引くのは、アメリカやヨーロッパでの感染拡大と死病者数の多さとそれに対するアジアでの両者の低さの対比だ。前回の記事で日本の医療水準の高さゆえだろうと書いたが、それはもちろんそれもあるだろう、しかしどうもそれ以外にもありそうな気がしている。
 一部では日本やその他のアジアの国々で接種してきたBCGが効力を発揮しているのではないかという説を説く人がいる。

 実際、感染者と死亡者の多い国と少ない国を地図上で比較すると、ほんとうに前者はBCGの接種をすでにやめたかしておらず、後者の国々ではBCGの接種をいまでもしているというふうにほぼぴったりと分かれていることに驚く。まだ医学的に証明されたわけではないが、この地図を見ると偶然とするにはあまりにもぴったりと明確に分かれており、かなりの説得力を感じる。

 
 このウイルスはおそらく何千年、あるいは何万年もの間、その発生源といわれる蝙蝠などのエキゾチックな動物と共生してきたのだろう。にも拘らず、その幸福な共生関係を壊して、蝙蝠とウイルスを食べ始めた人間にたいして復讐の機会を狙っていたのかもしれない。自然界の神秘的なメカニズムによってようやく蝙蝠から人間、人間から人間に感染させるように変異することに成功した今、つもりつもってきた積年の恨みを晴らしているようにも見える。

 ウイルスにとって人間の中で増殖しその宿主である人間を死に追いやってしまえば、自分たちも死ぬことを意味する。いいかえれば、それほどの犠牲を払ってまでも自らと蝙蝠などの発生源とされる宿主を守ろうとしている、といえなくもないだろう。実際、これ以降もう蝙蝠を食べるようなことは少なくとも中国ではほぼなくなると思う。

 アメリカやフランスのリーダーはこれは戦争だといっているが、蝙蝠やその他の動物たちを殺して食べ始めたのは人間のほうであり、先に戦争を仕掛けたのは人間のほうであろう。彼らにとってはあくまで自己防衛のための戦いであるともいえる。

 事実、このウイルスの流行でそれまで犬や猫を食べる習慣のあった中国のある地域では、もうそのような習慣をやめることになったというニュースを見た。犬や猫を食べる……考えるだにおぞましいほどの非情さ、冷酷さだが、そのような人間の蛮行に対するウイルスたちの反乱は、そういう形で奏功しているともいえる。

 人類の歴史の中でパンデミックといわれるウイルスや細菌の流行は、ほぼ人間が手なずけ、食べてきた家畜などから発生しており、学者などはそのような病気のことを「家畜がくれた死の贈り物」と呼んでいるという。

 動物や、ましてやウイルスなどのほぼ知的能力のないものにそんな復讐とか、人間の行動への抑止行動などができるはずがないだろう、というのが大方の考えだと思う。
 僕は違うと思う。なぜかというと、生物の進化の歴史というものを見ると、そこにはあきらかに「何らかの知性」というものが介在しないと説明ができない変化というものがあることに気づくからだ。それはかならずしも「その生物の」知性ではないかもしれない、しかし、生物の進化の過程を見ていると、その生物のものであれ、それいがいのものであれなんらかの知性というものが関与していない限りどうしても説明できない変化というものが明らかにある。

 ぼくはダーウィンはそれに気づいていたと思う。だが、彼の時代はまだキリスト教の影響力が強く(この影響力の強さというのは中世以降形骸化した仏教圏でいきてきた僕ら日本人には多分理解しにくいと思うが)、19世紀のイギリスでさえ神による種の創造という概念を覆すようなことを公言するとほぼ社会的に抹殺されてしまう(場合によっては命さえ)ような時代だった。
 進化論を解くだけでもそれだけのリスクがあったのに、ましてやそのような知性の介在というようなことを言えば、まさに神に対する冒とくということで、ほんとうに命の危険もあったはずだ。

 今回、このウイルスの大反乱というものを目の当たりにして、ぼくはどうしてもこのようなことを考えざるを得ない。
もちろん言うまでもなく、今回このウイルスによって引き起こされた惨禍をみてほんとうに悲しいし、亡くなられた方々には心からの哀惜の情を抱いている。
 ただ、視点を少しずらして人間の外側に置いてみると、また全く違った風景が見えてくるということを言いたかっただけである。 

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