紅炎
上の写真はスマートフォンでとったものだが、これではカメラが売れなくなるわけだと思う。(ChromeではなくMicrosoft Edgeでみるとよりきめ細かく見えます)スマホでこれだけの精密な写真が取れるなら、初心者や中級者でさえ、わざわざ何十万円もする高級カメラを買う人はすくなくなっていくだろう。確かにスマホではしっかりとホールドしずらいので手振れの危険はある、でも、それもこれからの技術の発展しだいでは非常に高精度の手振れ補正機能が付いたスマホカメラが登場してくるのもそう遠くないと思う。
そういうスマホが出てきたら…さらに高級カメラの売れ行きは落ちていくだろう。
いまカメラメーカーの売り上げはかなり落ちているみたいだが、これからどうするのだろうと心配になる。
僕はもう数十年前になるが、初めてガラケーにカメラが付いたときから、これはいわゆるコンパクトデジカメといわれる大衆向けのカメラは売れなくなっていくなと思っていた。(同時に時計や書籍も携帯で代用されるようになるだろうと思っていて、当時それを人に伝えたら即座に否定されたのを覚えているが、今果たしてその通りになっている)だが、当時の大手カメラメーカーはほとんど何もせずそれまでの路線を歩いてきた。あたかも性能のいいカメラを作れば当然の結果として売れていくとでも言わんばかりに。
メーカーがいわゆる高級カメラを作れるのも、そのすそ野にある大衆がエントリーカメラを買ってくれるからこそである。その上の高級カメラを買う層はあくまでユーザーの中では少数派の層にすぎない。その少数にのみ目を向け続けてきたことの失敗だろうと思う。
今まで通りのことが続いていくはずだ、続いていってほしい、という人間心理の陥穽に完全にはまってしまった。
やはりあの時点で、カメラメーカーは畑違いではあるが勇気をもって携帯機器製造にふみだすべきだった。
僕はこう云う時いつもアップル創業者のスティーブ・ジョブスを思う。千里先を見通す先見の明を持ち、常識を覆す革新的なことを勇気をもって果断に実行できるかれならばやっただろうと。
これからは少数の既存のハイエンドデジカメユーザーを各メーカーが取り合う熾烈な戦いになるだろうが、非常に少数の椅子を取り合う椅子取りゲームになるだろうから生き残りは本当に大変だろうと思う。ただし、すでに高級カメラも作りスマートフォンもつくっているソニーやパナソニックが圧倒的に有利であるのは動かしがたい。
さて、話題は変わって今読んでいる本のことを書きたい。
それは五木寛之の「迷いながら生きていく」と題された本で、そのなかで心に触れるものがあった。
彼は終戦を朝鮮半島の平壌で迎えた。この本の中の「自分なりの『生きて死ぬ』物語を持つ」と題されたところに以下のような文章がある。
『そんなある日、大雨で増水した大同江(テドンガン)を向こう岸まで泳いで渡ってみようと思い立ちました。無謀としか言いようがありませんが、当時の私は、無鉄砲な冒険にかけてみたいという衝動を抑えることができなかったのです。
黄色く渦巻く川の流れに、私は飛び込みました。見た目以上の急流で、途端に下流まで流されそうになりましたが、どうにか岸に這い上がりました。そして日が暮れるまで、その濁った川の流れを、唖然と眺めていました。すると、自分がその大きな流れに吸い込まれるような、そしてどこまでもともに流れていくような、異様な感覚を覚えたのです。
あの時、私が感じたのは恐怖だけではなかった。自分という存在が、目に見えない大きなリズムの中に溶け込み、無限に延長していくかのようで、奇妙ですが、決していやではない感覚でした。思い返すと「大いなるもの」「運命の力」といった大きな流れを自覚したのは、この時が初めてだったような気がします。
その時の実感からか、大いなるものに還ることについて、不思議な安堵感を覚えるのです。大いなるものに溶け込んで、「私」が消滅することには、恐怖感はありません。
むしろ、母なるものに還っていくという仄かな喜びがあります。
もちろんこの物語は、真理に近いのか遠いのかもわからない。私の空想にすぎません。
しかし、「どう生きればいいんだろう」──道を見失い、立ち止まってしまう時、私はこの物語の最中(さなか)にいる自分に思いを馳せます。
すると、少しだけ我に返る。そして、自分が見失って、わからなくなっているだけで、道は確かにあるのだということを思い出すのです。』
そして最終章の「わが計らいにあらず」と題された文章へと続く。
『~前略~40代から50代にかけては、いつもぎりぎりで生きていました。体のどこかしらに問題を抱え、ともすると絶望の淵に漂ってしまう弱いこころをどうにか保ちながら、生き延びたのです。
「他力」という言葉が、しきりに身近に感じられるようになったのは、その頃だったと思います。歩かなくてはならないのに、腰痛で一歩も歩けなくなった時も、頭痛で何日も眠れずに、苦しみのあまり絶望した時も、何かそういうものがあるような気がして、思いとどまるものがあった。
どんなに願ってもどうにもならないことが、まるでふっと軛(くびき)を外されたように動き出す時に、私はどうしても大いなるもの、つまり、「他力」を感じずにいられなかったのです。
~中略~
この「本眼力」、つまり「他力」は、自分の力ではどうにもならないような時、船の帆を揺らしてくれる風のように、さっと吹いてくれるもの、いつ吹いてくれるかもわからない。しかし吹くべき時に吹いてくれる、大いなるもの。そうしたある種のエネルギーとして私はとらえているのです。
~中略~
「わが計らいにあらず」。浄土真宗の宗祖、親鸞の言葉ですが、いつも私の頭に響いて、消えません。この言葉には「向こうからやってくる力」の気配がある。「新しい世界」(五木のいうこれからやってくるの世界のこと)にも、他力の気配を感じます。この新しい世界で、私は何が正解なのかと悩みつつも、必死に生きて、その時を迎えるのでしょう。
なるようにしかならない。しかし、自(おの)ずとなるべきようになるだろうと思います。』
太字への変更は私
この最後の一文、「なるようにしかならない。しかし、自ずとなるべきようになるだろうと思います。」という一文に強い力が込められているのを僕は感じる。
彼は自分で言っているが浄土真宗を信仰しているわけではないそうだ。それなのになぜ、このような確信に近い言い切り方をするのか…それは部分的には上に書いた終戦の時、中学一年の時に体験した「不思議な」体験と、その後の彼がたどった幾多の苦難を乗り越えてきた折々に体験的に感じ取ってきた経験から生まれるのだろうとおもう。しかしそれだけではおそらく説明できない。
思うに彼は、特定の宗教を信仰しているわけではない(と思う)が、なぜかこのような「自然な信仰心」のようなものを持っている。それがなぜなのかはぼくにはわからない、ただ、その理由の一つは明らかに彼が生来持っている叡智のたまものであろう。特定の権威を持った教団や人物の教唆ではなく、自然にかれはここにあるようなことに気づいたのであろう。
僕はここにこの人の偉大さを見る。
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