気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

目の前で見ているのでなければ……

2019-01-28 08:16:31 | 

 

深大寺近くの教会 スマホで





 フェルメール東京展も2月3日で終幕を迎えるので、一度見たのだが、再び見ることにした。
何よりもあれだけの規模のフェルメール展は日本ではめったにないことと、再び巡り合える機会のない作品もあるかもしれないので一生後悔しないようにしっかりともう一度見ておきたいと思った。

 場内でたちどまらないで前列の人は見終わったら後ろの人に譲るためいったん後ろに下がってくださいと、案内役の女性が何度もおっしゃってくれていた。
しかし、それがあまり功を奏さない一番の要因はやはりあの音声ガイドだろうと思った。一つの絵ごとに説明が流れるのでみんなそれが終わるまではその絵の前に張り付いて動かない。当然動きがそこで停滞する。

 音声ガイドを必要とするひとが圧倒的多数なので、やめてほしいと迄は言わないが、せめてもう少し改善策はないものかと思う。
特に今回は入場料が高く設定されていて、全員が音声ガイドを借りられるところを見ると、すでに入場料に音声ガイド料が含まれているのだと思うが、僕のようにそれを聞かないものにとっては余分に払う必要のない料金を払わされているわけでそれが不満だった。

 まぁ、それはともかく、再びいってよかった、というのがしみじみとした腹の底からの僕の想いである。
今回、僕のもっとも好むフェルメールの三点(真珠の首飾りの女、リュートを調弦する女、手紙を書く女)が室内中央に並んでかけられていて、これを配置した人と僕の好みが奇しくも一致したのか、それともただの偶然なのかはわからないが、いずれにしても、そのことがうれしかった。

 というのも、フェルメールの絵が集められた部屋で、ほぼ殆どの時間を大きく移動することなく1カ所に立ったままで鑑賞できたからだ。
見ていて思ったのは、これがいま実際に僕の眼で見ていなければ、これらの絵がこの世に本当に存在しているとは信じられないだろう、ということだった。
この言葉で僕の感動がどれほどのものだったかわかっていただけるだろうか……

 何度書いても書きすぎることはないのであえて書くが、今まで何枚も(それが絵画以外のものなら何個も)美術品と名の付くものを僕の生涯を通じてみてきたが、その全体験、全邂逅の中であれほどのレベルのものは……正直見たことがない、すくなくとも西洋美術の範疇に入る作品では。すくなくとも現在発見されているものの中では最高峰といってほぼ間違いないと信じる。それほどまでの体験だった。

 前回の記事の中でも書いたのだが、とにかく際立っている、その作品群の質の高さが。
ちょうどフェルメールの絵と一緒に同時代のオランダ絵画の作品が置かれているのだが、たいへん失礼な表現であることを承知の上で申し訳ないと思いながらあえて書くが、それらの絵はフェルメールの作品群がいかにずば抜けたものであるかということを示すために置かれているとしか思えないほど、フェルメールの作品群の質の高さが印象に残った。

 それらの違いはどこから来るのか、もちろん技量の高さは言うまでもない、しかしながら、それだけではないことも明白である。
あれらの作品群が内在的に持つ精神性の際立った高さ…技量が他の画家と比べてずばぬけて卓越して見えるのは、実際には技量の問題というよりも、フェルメールという人物が持つ精神・魂の質、在り方ゆえではないか…そして彼には奇跡的にそれを視覚的に表現するすべ(絵画的技量)が備わっていた、というほうがよりしっくりとくる。

 本当に大切なものは眼には見えない、といったのは星の王子様だが、実際に自分の目の前にありながら、僕はどこかで自分がいま見ているものは実際には眼に見えないものではないか、それが何らかの奇跡的な力の影響で見えているのではないかとずっといぶかっていた。しかし、どんなに目をしばたいてもそれはそこにある。言い換えればそれほどまでに「精神的な体験」だった。この不思議な、神秘的な恍惚感に会場内で満たされていた。
 
 こういう経験は人生でめったにできるものではない。少なくとも僕の人生でもほんの数回ほどしかない。
本当に行ってよかった。見てよかった。
 フェルメール展はこれから大阪に移っていく、そしてまた、海の向こうのそれぞれの所有者のもとに帰っていく。


 

 

 


 

 

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健康について一言

2019-01-01 16:31:07 | 日記

 

鵠沼海岸1 スマホで




 2019年が始まりました。
きのうは鵠沼海岸へ。ゆみが久しぶりに楽しそうに走ってくれてうれしかった。

 年が明けて本日は参拝。
健康に、安全に一年を過ごせたことがなによりもありがたく、神に御礼申し上げた。
 思えばあっけないぐらい平穏な一年だった。

 2年前に書いた記事で、自分の人生が第二の安定期に入ったと書いたが、今のところその実感が現実のものとなっている。


 




 健康といえば、最近非常に秀逸な本に出合った。たぶん僕の座右の書として一生持つことになると思う。
今まで僕が健康を維持するうえで重要なこと(主に東洋医学的なアプローチ)が、実は現代医学の研究でもその有効性が確かめられているということを実証している。
ではなぜそれが主流にならないのか、というと、僕の印象ではこれが主流になると現代医療を支えている「医者」「行政」「製薬業界」の三者が『今のままの規模では』成立しなくなるからではないかと思う。

 そこでこういうことを主張する人が現れると、それが科学的であるかどうかを検証しようともせず、頭から否定しつぶしにかかってきた、のではないか。
そこへもってきて、僕ら一般人の西洋イコール先進、東洋イコール後進という偏見があり、さらには、たぶんこれがもっとも大きいだろうと思うが、とにかく今自分を苦しめている症状だけをすぐに抑えてくれる西洋医薬への過度の依存等(それがほとんどの場合病気の根本的な治癒にとって逆効果である)があるというのが僕の推測である。

 とにかく、東洋医学的な医療を現代的な実験結果で裏付けている事実が記述されていて、非常に説得力がある。
そしてなぜ日本人が世界でも有数の長寿であるかということの訳がよくわかってくる。
 いずれにしても、この本は現在健康であるなしにかかわらず、健康をまじめに考えている人であれば必読の書だと思う。

 実は今日、外食をしたのだが、そのメニューを見るや否やうんざりした。肉、揚げ物などのオンパレードである。
はい、病気になってくださいね、といっているようなものだ。
 僕はあまりニュースを見ないのだが、先頃、麻生氏が自分のように健康に気を使っている人間から見ると、何でもかんでも食べたいものを食べている人間を見るとなんでああいう人とおなじ健康保険を払わなければならないのか?と思うと述べたらしい。

 僕は麻生氏とは、政治観、価値観、人生観、おそらくほぼすべてにおいて真逆の価値観を持った人間だと思うが、『ここだけは』同感する(笑)
外食産業のメニューを見ると、あれだけ体に悪いものを食べていれば、病気になって当然である。というか、病気にならなかったらそのひとは宝くじに当たるくらいの幸運児である。

 そういう人々と同じ保険料を払っているのは、僕もなんだか納得はできない気がする。
しかしまぁ、健康に気を付けている人とそうでないひとを客観的に分けるのは不可能なので仕方がないだろう。
 ただ、そういう人々はやがて重篤な病にかかり苦しい闘病をしなければならない、というつけを払う可能性が高いわけで、そういうことを考えれば、保険料云々などは小さなことである。

 
 
 さて、話は変わって、僕の友が近いうちに兵庫県で働くようになるので、今日はこれから彼の送別会をする予定。
そう、僕と同じ信仰を持っている友人である。さびしくなるが上京してきた折にはあえるだろうし、僕の郷里は松山なので帰省の際にはその行き帰りに寄ることもできるだろう。

 ではそろそろ準備をしなくてはならないので

 

鵠沼海岸2 スマホで






 

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