時空の窓
この窓から出るとあなたの生きたい時間、時代に行けます。今は会えないあの人にも会える
久しぶりの更新となる。ツイッターをやるようになってから日々考えて気づいたことをツイッターに書くようになり、結局僕の書きたいという願望がそっちの方で満たされてしまいブログの方が書けなくなっていた。でも、これからは前のようにブログ中心に戻したいと思っている。
といっても特に書くことはないのだが(笑)やはり大河ドラマのどうする家康を見てちょっと思いついたことを書いてみたい。
例の数正の出奔についてちょっと思いついたことを書きたい。これは本能寺の変と並んで戦国時代の大きな謎とされている事らしい。それはそうだろう、やがては天下を取る家康の腹心中の腹心、酒井忠次と並んで双璧といわれた人物がいきなり家康のもとを去り秀吉の傘下になったのだから。
この真の理由については資料が残っておらず、いまでもわかってないという。
本能寺の変と同じくいろいろと推測はされているが、そのどれも決定的なものはないといわれている。
僕は研究者ではないので資料を読み漁ったりとかはしてない。ただざぁーっと動画を見ただけだ。
これも本能寺の変と同じでどれももっともらしくて、当たっているかもしれないし、当たっていないかもしれない…結果が数正が出奔したというだけのことなので本能寺の原因と推測されていることほど奇抜で突拍子もない原因というものはないが、僕の眼にはそのどれも「核心」からは外れているのではないかと思うのだ。
ただ、本能寺の変の原因と共通する部分があると僕が感じるのは、この手の謀反というものはその核心部に行けば行くほど理性というものだけで割り切れるものではなく、かなり人間心理の深奥にまで入っていかないと説明ができないのではないか、ということ。
ただし破滅的な結果になることがほぼわかっている本能寺を起こした光秀の場合と違い、数正の出奔の場合は一応出奔後の待遇は秀吉から約束されていただろうから、そこには光秀の心理よりもより理性的な動機の割合が高かったのは間違いないだろう。
が……僕はそれら理性的な動機はその本質的な動機とくらべれば所詮間接的なものでしかないと思う。
というのも、どれだけもっともらしい理由を挙げたとしても、一介の家臣、武将ならともかく、当時家康の腹心中の腹心であり、文字通り右腕であった数正がその主の元を離れるというのは、尋常なことではない。いまでいう会社員の転職とはその決断の重みが全然、格段に違う。
この出奔の動機を探る動画もいくつか見たが、その中で一本だけ築山殿と信康の事件をにおわせたものがあったが、軽くにおわせたのみでその動画の作者自身それはないだろうという感覚でしゃべっていたように記憶する。
まぁ、たしかに特に男性はそうだと思うが、この種の謀反には当然政治的、理性的な理由が中心にあるはずで過去の感情的な怨恨などは関係ないか、あったとしてもわずかな影響しかないだろうと考えると思う。
でも僕は逆に人間が理性的にはあり得ないようなことをやる場合には、その核心部には非常に心理的、情緒的な動機があるはずだと思う。
つまり、多くの人が関係ないと軽視しているこの築山殿と信康の死と数正の出奔は、その奥の奥、深層部ではつながっているのではないかと思うのだ。家康が信康、築山殿を亡き者にしたことに関しては、おそらくはそこにそうせざるを得ない理由があり、家康自身も苦渋の決断だったと僕は考えるし、たぶん数正もそれに関してはやむを得なかったと思っていたに違いない。
ただ、僕にとってひとつひっかかるのは築山殿と信康が家康から死を賜った理由であるといわれる謀反の疑いだが、それに数正がどの程度噛んでいたのかということだ。
僕はおそらくだが家康も理性的な部分では否定しつつも、そのことはこころのかたすみにずっとあったのではないかと考えている。もちろん、この事件のあとも家康はずっと数正を重用し続けたので、表向きには関係はないと割り切っていただろう。
だが、人のこころというのは思いのほか複雑なものである。
秀吉の和睦交渉は、小牧長久手の戦いが実際に干戈を交えた戦いだったとすれば、その後の交渉は家康と秀吉の心理戦といっていいものであり、天下分け目の戦いの第二幕だったと僕は考える。それは難航し、一歩選択を間違えれば家康自身が滅びたかもしれないぐらいきわどい「戦い」だった。その「戦い」の主役をまかされた数正だが、ドラマでも描かれていた通りまともに再び戦場で戦えば、力関係から言って勝敗は明らかであり、ぜったいにそれは避けなければならないと考えたと僕も思う。
注目したいのはこの時の三者の心理である。
秀吉は何とか家康を大阪に呼び出して諸大名の前で自分に臣従したということを見せつけたいとおもい、数正もそうしなければ徳川家は滅びると思っていた、家康はおそらく基本的には数正と同じ考えだったに違いない。ただ一つの懸念点は秀吉のその意志が真実なのかということだったのではないか。つまり、そうみせて上洛した家康を捕らえ殺害するのではないかという危惧があったと思う。
その際、家康の脳裏にふと浮かんだのが、築山殿、信康の謀反の疑惑と数正とのかかわりについてではなかったかと…僕は考えるのだ。上述したとおり、数正がこの事件にどこまで噛んでいたのかということ、『もし』深く嚙んでいたのであれば、家康は数正が秀吉に調略されて家康を呼び出し、家康を亡き者にすることに加担しているのではないか……という考えがたとえかすかにしても胸をよぎったとしても不思議ではない。
そこに数正出奔の核心的な理由が隠されているのではないか、という思いが僕のなかにかなり大きく無視できないものとしてある。
つまり、家康とのやり取りの過程のどこかで家康のその心理に数正が気づいたのではないか、そして数正は自分を信じていると思っていた家康のその心の奥底には自分へのたとえかすかなものではあっても疑念があるということを知り、絶望し、もはや主従の契りを切らざるを得ないというところまで追い詰められたのではないか。
もちろんそのような疑念を抱いていたのはおそらく家康だけではなく、数正と築山殿、信康との深いつながりをよくしる家臣たちの心の中にも同じ疑念が芽生え始め、どことなく数正を見る目が変わってきた…結局そういった周りの変化全体に数正は心理的に追い詰められ、最後には身の危険まで感じ始めたのではないか、というのが僕の仮説である。
数正にそのような叛意がなかったことは歴史が示すとおりであり、家康がそんな疑念を持つことはあり得ないと思うかもしれないが、それは歴史を後付けで見るからそう思うのであって、実際にリアルタイムで進行していた時にはそのような疑念が家康の心中に生じたとしても不思議ではない。
もし、僕のこの仮説が真実に近いのであれば、それは数正にとっても家康にとっても悲劇的なことだろう。家康だって好きで自分の忠臣を疑いたくはなかっただろうからだ。
通常、この出奔の理由として挙げられているいわゆる政治的な理由だけであれば、はたして数正は出奔までするだろうか?それだけでそれまでの徳川家中枢部にいた地位をなげうってまで、出奔などという実際には秀吉が自分をどのように扱うかわからない不安定な状況の中に自ら飛び込んでいくだろうか?もし徳川家中の中でそれ以降冷や飯を食うことになったとしても、巻き返しのチャンスはいくらでもあったはずだ。老練な数正がそんなことをわかっていないはずはない。
これほどのことをするには、やはり、数正と家康の間にあると数正が信じていた『信』に現実にはひびが入っていたということに数正が気づいたことからうまれる絶望以外に考えにくい、と僕は考える。
この仮説はもちろん資料の裏付けなどないし、あくまで推測の域を出ない。
しかし、僕はここに彼の出奔理由の主要な核心を見る、人間の心理の現れようというものを考えるとそう思えてならないのだ。
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