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気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

思念の流れ

2018-07-02 21:47:00 | 文学



 『昨日も秋にはときどきある、朝もひるもずうつと夕暮れのやうな空模様のまま夜になるとしぐれが来ましたが、まだ東京近くでは木の葉の散るしぐれやまがうころではないと知りながら、私は落ち葉の音もまじっているやうに聞えてなりません。しぐれは私を古い日本の悲しみに引き入れるものですから、逆にそれをまぎらはそうと、しぐれの詩人と言われる宗祇の連歌など拾ひ読みしてをりますうちにも、やはりときどき落ち葉の音が聞えます。

 葉の落ちるには早いし、また考へてみますと私の書斎の屋根に葉の落ちる木はないのであります。してみると落ち葉の音は幻の音でありませうか。私は薄気味悪くなりましてじっと耳をすましてみますと落葉の音は聞えません。ところがぼんやり読んでをりますとまた落葉の音が聞えます。私は寒気がしました。この幻の落ち葉の音は私の遠い過去からでも聞えて来るやうに思ったからでありました。』


                                          
  これは川端康成の「しぐれ」という作品の中の一節である。
僕などが百万言弄するよりも三島由紀夫が的確な感想を彼の「文章読本」に残しているのでそれを載せてみたい。


『このさりげない詠嘆の中に、作者は文章を鴎外のやうにも、また鏡花のやうにも使はず、極度に明晰に物体を指示するのでもなく、また自分の感覚を、いろいろな修飾語で飾り立てるのでもなく、ただ淡々と情念の流れを述べながら、その底に深い抒情的悲しみや、鬼気をひそませています。
 川端氏がこのやうな文体に達したのは『雪国』以後のことでありますが、氏の文章はますます小説的でなくなりながら、ますます作品としては傑作を生みだしていくといふ、不思議な傾向をたどっています。』



 ここで僕が三島に深く共鳴するのは「ただ淡々と情念の流れを述べながら、その底に深い抒情的悲しみや、鬼気をひそませています。」という部分だ。
日本語の伝統の中では大雑把に分けると、文章を短くきることによって文章と文章の空白に余韻を残す名文と、この川端の文章のように、文章を巧みにつなげることによって情念、思念の「流れ」のようなものを生み出し、あたかも山深きところを流れる清流のような動的な美しさを生み出す名文があるように思う。

 前者の例が夏目漱石や志賀直哉、そして森鴎外などもこの範疇に入るだろう、一方後者の代表的な例がこの川端康成だと思う。
日本ではやはり俳句や和歌の伝統があるせいだと思うが、前者の文章のほうが評価が高いような気がする。漱石や鴎外の評価はまるで神様のような扱いだし、志賀直哉なども小説の神様などといわれた。

 僕もそういう日本の伝統的な「好み」はよくわかる。漱石や志賀直哉の文章などのもつ「余韻」、簡素な表現のなかに表わされた深淵との対比には今でもほれぼれとする。だがである、だが、もし誰か一人をとれといわれたら数秒迷って川端康成を僕はとる。
 とにかくこの「思念、情念の流れ」というものに僕はどうしようもなく魅惑されるのだ。

 山登りをしていて深い林の中をあるいていると、どこからともなくかすかにサラサラと水の流れる音が聞こえる。
どこかと思い音のするほうに歩いていくと、深い草叢の下に実に美しい清流が流れていた……
 一言で川端の文章の印象を現すとこういう感じだろうか。

 そして、三島が「深い抒情的悲しみ」や「鬼気」と表現したものも感じ取れるだろうか。
僕はこれらも川端の文章のもつ独特のあじわい(そう表現するのはためらわれるが…)だと感じる。
 この「ところがぼんやり読んでおりますとまた落葉の音が聞えます。私は寒気がしました。この幻の落ち葉の音は私の遠い過去からでも聞えて来るやうに思ったからでもありました。」という言葉に、まさに三島が言った「深い抒情的悲しみ」「鬼気」というものがにじみ出ている。

 三島は(意識的にか無意識的にか)それ以上ここでは語ってないが、僕は実はこの一節の中に川端康成という人のなにがしかというものがあますところなくあらわされていると思えてならない。
 いずれにしても、悲しみや鬼気、というものをこれほどまでにうつくしく高めた作家は川端以外にはいないのではないだろうか。 
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名文の味わい

2018-06-13 15:34:25 | 文学

東京カテドラルで



 以前、ふらっと立ち寄った本屋で手に取った本がずっと心に残っていて、それは安い値段ではなかったがこれはそれだけのお金を払っても買う価値があると判断して買った。
 タイトルは『陰翳礼賛』作者は言わずと知れた谷崎潤一郎、そして、この本は素晴らしい写真とのコラボ作品になっていて、それは大川裕弘という写真家の作品で、谷崎の名文の合間合間に『陰影』をテーマにした美しい写真が随所にはめこまれていてそれがあたかも一つの織物のようになっている。
 文章と他のジャンルの芸術とのこれほどぴったりとはまった、見事なコラボ作品を僕は見たことがない。
 
 さて、肝心の谷崎の文章を載せてみたい。

  
 『もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色のもっとも淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し光と蔭の使い分けに巧妙であるかに感嘆する。
 なぜなら、そこにはこれと云う特別なしつらえがあるのではない。要するにただの清楚な木材と清楚な壁とを以て一つの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が凹みの此処彼処へ朦朧たる隈を生むようにする。
 にも拘らず、われらは落懸(おとしがけ)のうしろや、花活けの周囲や、遠い棚の下などを填(う)めている闇を眺めて、それがなんでもない蔭であるのを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。

 思うに西洋人の云う「東洋の神秘」とは、かくの如き暗がりが持つ不気味な静かさを指すのであろう。
~中略~しかもその神秘の鍵は何処にあるのか。種明かしをすれば、畢竟(ひっきょう)それは陰翳の魔法であって、もし隅々に作られている蔭を追い除けてしまったら、忽焉(こつえん)としてその床の間はただの空白に帰するのである。

 われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して自ずから生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。これは簡単な技巧のようであって、実は中々容易ではない。たとえば床脇(とこわき)の窓の刳(く)り方、落懸の深さ、床框(とこがまち)の高さなど、一つ一つに眼に見えぬ苦心が払われていることは推察するに難くないが、分けても私は、書院の障子のしろじろとしたほの明るさには、ついその前に立ち止まって時の映るのを忘れるのである。

 元来書院というものは、昔はその名の示す如く彼処で書見をするためにああ云う窓を設けたのが、いつしか床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りと云うよりも、むしろ側面から射してくる外光を一旦障子の紙で濾過(ろか)して、適当に弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光線の明かりは、何と云う寒々とした。わびしい色をしていることか。

 庇をくぐり廊下を通って、ようようそこまで辿り着いた庭の陽光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、ただ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。私はしばしばあの障子の前に佇んで、明るいけれどもすこしも眩ゆさの感じられない紙の面を視つめるのであるが、大きな伽藍建築の座敷などでは、庭との距離が遠いためにいよいよ光線が薄められて、春夏秋冬、晴れた日も、曇った日も、朝も、昼も、夕も、ほとんどそのほのじろさに変化がない。

 そして縦繁(たてしげ)の障子の桟の一とコマ毎に出来ている隅が、あたかも塵がたまったように、永久に紙に沁み着いて動かないのかと訝(あや)しまれる。そう云う時、私はその夢のような明るさをいぶかりながら眼をしばたたく。何か眼の前にもやもやとかげろうものがあって、視力を鈍らせているかのように感ずる。それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じつつあるからである。

 諸君はそう云う座敷へ這入った時に、その部屋にただようている光線が普通の光線とは違うような、それが特に有難味のある重々しいもののような気持がしたことはないであろうか。
 或いはまた、その部屋にいると時間の経過が分からなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出てきた時は白髪の老人になりはせぬかと云うような、「悠久」に対する一種の恐れを抱いたことはないであろうか。』



 日本建築の建物が本当に少なくなっている今、谷崎が見たこのような世界は小さいころ日本建築の家に住んでいた僕でさえもうその多くの部分は想像するしかない・・・・・するしかないのだが、やはり谷崎の描写力の故だろう、彼がこの文章の中で表現している陰翳の「幽玄味」というものが僕のこころのなかにかげろうのように映じてくるような気がする……
 
 とはいえ、彼が見ていたもの、彼が感じていたものは、今僕の心に映じてきたものをはるかに越えているであろうことは、この文章から容易に察することができる。実際に「それ」を見たことがないものに、「それ」の神秘性とそれが彼にもたらした恍惚たる愉悦と畏(おそ)れのようなものを想像させる…この人がいかに達意の文章家であるかがわかる。

 とにもかくにも…これはまがうことのないうつくしい、日本の名文章である。

 
 
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文学的美しさ

2018-02-26 10:44:49 | 文学
Probable Realities & The Miracle of Your Being 9



 セスというアメリカのニューエイジムーブメントを起こした高次の存在の言葉。
僕は最近、この存在の考え方によく触れている。

 この存在について詳しく説明すると、大変な時間を費やしてしまうのでここでは省きます。
彼の声を録音したものがユーチューブにたくさんアップされていて、最近暇があればよく聞いている。

 その中で、今回紹介したものは格別、文学的で美しいと思った。
この高次の存在たちは、70年代から現在にかけて非常に頻繁に、この僕らの次元に降りてきて影響を与え続けている。
第2次大戦前までさかのぼればシルバーバーチやエドガー・ケイシー、70年代ではバーソロミュー、今現在リアルタイムで有名なものとしてはバシャール、エイブラハムなどがいる。

 その中で他の存在にはほとんど見られず、このセスだけに特徴的なものがある種の文学的、詩的な美しさだ。
僕は自己の気質、好みも相まって、彼のこの部分にとても惹かれる。

You are all one, but you are all yourselves, and unique.
And out of that uniqueness, and that individuality, the oneness is.1分15秒あたりから

 僕などが訳すとこの英文で表現された美しさが損なわれてしまうことを恐れるが、しいて訳せば、
『あなた方はすべて一である。しかし同時に、あなた方は二人とないあなた方自身であり、唯一無二の存在である。そして、その多くのユニークさと、多くの唯一無二の個性が、Oneness「大いなる一」を形成しているのである。』

 ここに訳文を乗せたものの、できれば訳文を読まずにこの英文のまま味わってみてほしい。なぜかというと、「英文でしか表現しえない独特の味わい」というものがあるからだ。
 どうだろう、この英文に表現された深み、美しさ、流れるようなリズム…
先ほど挙げた高次の存在たちに共通するのは、非常に高度な知性であり、もちろんセスもそれを兼ね備えている。ただ、その彼らの中でこのセスだけが唯一といっていいくらい、ここに見られるようなある種の文学的美しさを持っていると僕は感じる。



 
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西行

2017-10-02 21:34:59 | 文学
 とう人も思ひ絶えたる山里の
           さびしさなくばすみ憂からまし


 『~特に右(上の歌のこと)の歌は西行の孤独感の深さを歌ったもので、この山里の庵に自分を訪ねてくる人もいないと観念しきった孤独な境界にあっては、さびしさこそが慰めであって、そのさびしさがなかったらここも住み憂いことであろうというのです。
 兼好法師も「徒然草」で[まぎるる方なく、ただひとりあるのみぞよき]といっていますが、こういう深く人生を生きた人たちが向き合ったさびしさ、無常観には現代に生きる我々にはとても思い及ばない醒めきった凄みを感じます。


 『』内は元首相の細川護熙氏の言葉である。
 この西行の歌と細川氏の解説は、ずいぶん前に発行された平凡社の「別冊太陽」に載っているものだ。

 この本には作家も含めてほかにも名だたる人々の解説が載っているが、そのどれもほとんど僕の心に残っていないにもかかわらず、この細川氏の解説だけは楔のようにしっかりと今でも僕の胸に刻まれている。それほどまでに鋭い…と思った。
 とくに「こういう深く人生を生きた人たちが向き合ったさびしさ、無常観には現代に生きる我々にはとても思い及ばない醒めきった凄みを感じます。」という部分は、「人生」というものを真に知悉した人でなければ書けない言葉であろう。

 いや、実は僕が初めてこの西行の歌と解説を読んだときには感じ取れなかったものを、今の僕は感じている。
つまり、初めて書店でこの雑誌を手に取った時から、今までの何年という時間が経過する間に、僕自身の立ち位置も変わった、ということだろうと思う。
 以前の僕はこの言葉の上を上滑りして読んでいただけだった。

 しかし今は…この細川氏のいう「西行の凄み」というものが、僕の心眼に〈見える〉気がする。

 僕はある芸術を違うジャンルの芸術と比べてみることがよくあるのだが、この歌を音楽でいうならバッハの The art of fuge フーガの技法を思い浮かべる。
グールドがバッハの作品の中でも白眉であるといった作品だ。

 いや、もっとわかりやすい対比はやはり小津安二郎の作品かもしれない。
あのどこにでもあるホームドラマのなかにそれとなくつつみこんだ「醒めきった凄み」…

 いずれにしても、今改めてこの歌と細川氏の解説を読んでみて、僕は日本の和歌というものの、いや西行の芸術のもつ「深度」のあなどりがたさを見せつけられたような気がする。

 
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老年期と孤独

2014-06-16 00:46:47 | 文学
 多くの人にとって老後の最大の心配はお金だが、先々どうなるかは誰にも分からない。もし、長生きしすぎて一文無しになったら、知人や周りの人にたかるが、どうにもならないと「野垂れ死にを覚悟するしかない」と言う。そして、死ぬまで働くことを勧める。お金にならなくても、何か人の役に立つことをする。
 老人になると孤独は避けられない。だから、老人の仕事は「孤独に耐えること。そして、孤独だけがもたらす時間の中で自分を発見する」こと。「孤独と絶望こそ、人生の最後に充分味わうべき境地」で、その究極を体験しないと「たぶん人間として完成しない」。そうやって自分の人生を再編集するために、老後の時間はあるのだろう。

「」内の文章だけが曽野綾子の言葉です。「老いの才覚」 曽野綾子


 曽野綾子の文章は10代の中ごろからよく読んだ覚えがある。
あのころ、ちょうど僕の中で「善」「悪」という問題が大きなウェイトを占め始めていて、自然、キリスト教作家であるこの人の作品にひかれていった。

 ある時期まで来ると、この人の文章から、なにか一段高いところから読者を見下ろすような雰囲気、臭いを感じ始めてきて、少しづつはなれていったのを覚えている。
それは宗教というものをバックグランドに持つ作家だからなのかとも思ったが、同じキリスト教作家である遠藤周作の作品を読んだときはそのようなにおいはみじんも感じなかった。

 やはり、そういうもの(宗教的バックグランド)とは無縁のところからきているのだろうと僕は感じる。
だが、そうはいっても、この人の文章は今読んでも、おもわず首肯せざるを得ないような、なにか洞察の鋭さ精確さを持っているような気がする。

 とくに『「孤独と絶望こそ人生の最後に充分味わうべき境地」で、その究極を体験しないと「たぶん人間として完成しない」。そうやって自分の人生を再編集するために、老後の時間はあるのだろう。』
 という言葉は、深くしみこんでくる。

  それにしてもこの「味わう」という言葉遣いの中に、なんとも言えない滋味がにじみ出ている。
そう、ここにはなにがしかの肯定感がある。
 「晩年になったら、人生にイエスと言えるようにならなければならない」
といったのは、敬愛する作家ヘルマン・ヘッセだった。

 この言葉は裏を返せば、何千かい、何万回、No!と叫んできたことのあかしでもあるだろう。
彼のような理想主義者であれば当然のこと。しかし、そんな彼でさえ、最後は人生にイエスと言えるようにならなければならない、といった。
 その背景にはやはり、神、そういうのが不適切であれば、この宇宙を作ったエネルギーとでも言えるだろうか、自分もその中の一部である以上、それを包み込んでいる「全体」を否定したまま死んではいけない、ということなのかもしれない。それは何となれば、自分自身を否定することと同じことだから。

 この世のありとあらゆるもの、清濁、美醜、善悪、正邪、条理不条理、すべてをありのままで「よし」としなければならない。
創造主の前では、否定すべきものなど何もないのだから。
よって、二元論的な対立構造でみる段階の「向こう側」に行かなければならないということ…ではないか
 
 と、ここまで書いてきたとき、やはりどうしてもレンブラントの最晩年の自画像が目に浮かんでしまう。

 そのNoからYesへ至るまでの過程を経験できるのが、「老年期の孤独」なのではないか。
僕は最近そんな風に考えている。 



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