うぇえ~へっへっへっ、どうもこんにちは! そうだいでございます。
最近、私の住む山形もやっと朝夕が涼しくなってきたような気がします。秋ももうすぐですね~。
ちょっと紅葉のタイミングからはズレてしまうのですが、個人的に今年一番のビッグイベントと目している、「山形~山梨間を車で往復1泊3日の旅」の日程が、もうすぐ先の10月あたまに近づいてまいりました。ほんと、個人的な話ですんません!
いや、何が今年一番なのかってあーた、「死ぬ確率が今年一番」なんですよね……片道500km 。せめて、よそさまには迷惑をかけずに楽しんできたいものでございますが。
この旅程自体は昨年の初夏に始めたもので、前回は山梨県北西部の北杜市を中心にめぐって増富ラジウム温泉というものすんごい秘湯につかってきたのですが、それで味を占めてしまいまして、できたら毎年行きたいなという運びになって。今年はちょっとズレて南アルプス市と韮崎市をメインにさまようつもりです。最大のお目当ては武田勝頼肝いりの要塞・新府城跡の散策かな!?
ま、とにもかくにも、旅の最中もその前後も、健康・安全第一でまいりたいものでございます。この秋は観たい映画やドラマも山ほどあるしね! いや~、まだまだ死ねませんな☆
そんなこんなで今回のお題なのでございますが、ちょっと最近の作品ではなくて昔の映画になってしまうのですが、ミステリーやスリラーの好きな方だったら観ないと絶対に損をするゾという、世界映画史上に残る大傑作についてをば。
映画『悪魔のような女』(1955年1月 114分 フランス)
『悪魔のような女』(原題:Les Diaboliques)は、フランスのサイコスリラー映画。フランスの共作推理小説家ボワロー&ナルスジャックのサスペンス小説『 Celle qui n'était plus』(1952年発表)を原作とするが、登場人物の設定が全く違うものとなっている。
本作は、アメリカで1996年3月に主演シャロン=ストーン、イザベル=アジャーニでリメイク映画が制作された。
また日本でも、設定を現代日本にアレンジしたリメイクドラマが2005年3月5日にテレビ朝日系列『土曜ワイド劇場』枠内にて放送された。監督・脚本は落合正幸、主演は浅野ゆう子、菅野美穂、仲村トオル。
あらすじ
パリ郊外の私立小学校デュラサール学園を運営するミシェルは、病弱な妻クリスティーナがありながら部下の女教師ニコールと愛人関係にあった。粗暴なミシェルに我慢が出来なくなったニコールとクリスティーナは結託し、ミシェルを殺害して校内のプールに沈める計画を決行する。その後、やむをえずプールの水を抜いた時、沈めたはずのミシェルが消えていた。それから2人の周囲には、ミシェルがあたかも生きているかのような現象が次々と発生し、ついにはミシェルの不在に疑問をいだいた警察の捜査介入を招いてしまう。
おもなスタッフ
監督・製作 …… アンリジョルジュ=クルーゾー(47歳)
脚本 …… ジェローム=ジェロミニ(?歳)、アンリジョルジュ=クルーゾー
音楽 …… ジョルジュ=ヴァン・パリス(52歳)
撮影 …… アルマン=ティラール(55歳)
編集 …… マドレーヌ=ギユ(41歳)
おもなキャスティング
ニコール=オネール …… シモーヌ=シニョレ(33歳)
クリスティーナ=デュラサール …… ヴェラ=クルーゾー(41歳)
ミシェル=デュラサール校長 …… ポール=ムーリス(42歳)
私立探偵のフィシェ …… シャルル=ヴァネル(62歳)
ドラン先生 …… ピエール=ラルケ(70歳)
レイモン先生 …… ミシェル=セロー(27歳)
用務員のプランティヴォー …… ジャン=ブロシャール(61歳)
エルボウ夫人 …… テレーズ=ドーニー(63歳)
エルボウ氏 …… ノエル=ロクヴェール(62歳)
ガソリンスタンドの給油係 …… ロベール=ダーバン(51歳)
ほんと、なんで今、この映画なの!? いやいや、面白い映画はいつ観たっていいんですよ。
ご存じの通り、本作のメガホンを執ったクルーゾー監督はフランス映画界において「サスペンス・スリラー映画の巨匠」と讃えられる天才監督で、当然ながらほぼ同時代にイギリスとハリウッドでブイブイ言わせていた「サスペンス・スリラーの神様」ことアルフレッド=ヒッチコック監督としのぎを削る存在となっていた方でした。実年齢的にもキャリア的にもクルーゾー監督はヒッチコック監督よりも後輩なのですが(8歳年下で監督デビューも12年あと)、『恐怖の報酬』(1953年)と本作『悪魔のような女』を撮ったという時点で、ヒッチコック監督に十二分に伍する才覚を持った映画監督であることは間違いないでしょう。クルーゾー監督が生涯で完成させた長編フィクション映画は11作ということで、さすがにヒッチコック監督に比べたら寡作ではあるのですが、フランスから遠く離れたジャポンに住む私達も、少なくとも上に挙げた2作は必ず観ておいたほうが良いのではないでしょうか。『恐怖の報酬』なんか、あらすじ1~2行で充分だもんね! セリフすら必要のないサスペンス超特化型エンタテインメントです!! でも、私はやっぱりクルーゾー監督のオリジナル版よりも、死のかほりが濃厚にただよう1977年リメイク版(監督ウィリアム=フリードキン!)のほうが好きかなぁ。
ちなみに、クルーゾー監督がこの『悪魔のような女』を世に問うた1955年前後にいっぽうのヒッチコック監督はハリウッドでどういった作品を撮っていたのかといいますと、『ダイヤルM を廻せ!』(1954年5月公開)、『裏窓』(同年8月)、『泥棒成金』(1955年8月)、『ハリーの災難』(同年10月)という天下無敵のキラキラマリオ状態でありました。え、2~3ヶ月のスパンで新作出してたの!? ジャンプコミックスじゃないんだから。
……まぁ、この時期のヒッチコック監督とは比較するだけムダという感じなのでスルーしますが、それでもクルーゾー監督の『悪魔のような女』は、荒唐無稽でファンタジックですらあるヒッチコックワールドではついぞ描写が避けられていたような「男と女のじめっとした関係」を、これでもかというほどにバッチリとフィルムに収めた、唯一無二の黒々とした輝きを放っています。ヒッチコックが陽ならばクルーゾーは陰、ヒッチコックがヒマワリならばクルーゾーは月見草ときたもんだ! まさに、この『悪魔のような女』がモノクロ作品であることには意味があるのです。この物語に、色彩は必要ない。必要なのは、夜の闇の深さなのだ……
ここで、映画の内容にいく前に、本作の原作とされるボワロー&ナルスジャックのサスペンス小説『 Celle qui n'était plus』について触れておきましょう。
この小説は、映画公開の3年前に発表された作品なのですが、日本で翻訳されたときは映画がすでに公開されていたので、映画のタイトル『 Les Diaboliques』の直訳である『悪魔のような女』がそのまんま、小説の邦訳タイトルに逆輸入されています(現在でもハヤカワ文庫版が手に入りやすい)。ただし、もともとの小説のタイトルは日本語訳すると「いなくなった人」という意味になるので、映画版で言うと殺したはずのミシェル校長の死体が学校のプールから消えてしまった謎のことを指しているようですね。
そして、これは言わずにはおられない事実なのですが、小説版と映画版とでは、その内容がビックリするくらいに別のものとなっているのです。これはねぇ、後発の映画版がかなり大胆に小説をアレンジしちゃった、って感じですよね。そして、それが結果的に大成功している!
具体的に言いますと、小説版は映画版と同じく「三角関係にある人間のうちの2人が共謀してもう1人を殺すが、殺したはずの死体が消える」という展開と、その真相だけが共通しているのですが、それ以外は人物設定から何から、全てがまるで別のお話となっています。
すなはち、映画版では女性2人が共謀して男性を殺そうとするのですが、小説版は男と女(愛人のほう)が共謀して正妻の女性を殺そうとする発端となります。小説版ではなんと、ミシェル校長にあたる男性が主人公なんですね!
その他にも小説版は、「男はセールスマンで正妻は専業主婦、愛人は女医」だったり、「夫婦はパリ近郊の都市アンギャン=レ=バン在住で、愛人の女医はフランス北西部の都市ナント在住(両都市間の距離は約350km )」だったり、「映画の終幕直前の展開(探偵と生徒のくだり)がない」といった大きな違いが目白押しとなっています。あと、ご丁寧に登場人物の名前もぜ~んぶ違いますね。ざっと見ると夫ミシェル→フェルナン、正妻クリスティーナ→ミレイユ、愛人ニコール→リュシエーヌ、探偵のフィシェ→メルランといった感じで、だいたい夫と正妻の役割が逆転している以外はキャラクターはほぼ同じなのですが、全員名前が変わっています。その他、映画版でいい味を出していた学園の先生方は学園ごと登場せず、その代わりに正妻ミレイユの兄夫婦が登場します。
小説版の内容を見ていきますと、主人公であり主犯でもある男性の犯行動機は単純な「愛人への執着&嫉妬深い正妻への嫌悪」となっており、映画版に比べるといささかありきたりで凡庸な印象になっています。当然、男性が正妻に「おびえつつ」殺そうとするという力関係も発生していません。
かいつまんで申しますと、映画の原作となった小説『 Celle qui n'était plus』は、かなり読みやすくあっさりとした味わいの犯罪小説だったのです。ただし、港に濃密にたちこめる夜霧の描写や、正妻の死体が消えてしまったことで疑心暗鬼に陥り精神がゴリゴリに削られてゆく男性の心理描写は非常に読者を引き込むものがあり、決して単なるイロモノ小説とはあなどれない雰囲気に満ちています。
完全な余談なのですが、私、この小説をハヤカワ文庫版(1996年のイザベル=アジャーニ版が表紙のやつ)で読んだんですが、何にびっくりしたって、小説の内容よりも小説家の皆川博子先生の解説にビックラこいちゃいましたよ。小説の内容にほとんど触れてないんだもの! 先生、小説読んだ!? それどころか、クルーゾー監督の作品でもないフランス映画『しのび泣き』(1945年 監督ジャン=ドラノワ)の話で盛り上がっちゃってるし……先生、ご機嫌ななめですね~!!
さて、いよいよ話を本題の映画版の方に向けていきたいのですが、以上のような、タイトル通りに「消えた死体の謎」に焦点を絞って可能な限りシンプルな構成に徹していた小説版と比較してみますと、本作がいかに苦心して物語を「よりリアルでより陰湿なもの」にブラッシュアップし、なおかつサスペンス・スリラー映画として見どころたっぷりな作品に仕上げようとしていたのかがよくわかります。ほんと、創意工夫の見本市みたいな総リニューアルっぷり! でも、お話の骨格「三角関係と消えた死体」だけには全く手を加えずに肉付けだけを変えてるんですよね。だから小説版と映画版は、どこまでいっても双生児のように同じ「夜の闇のかおり」をはなっているのです。粋だね~! このへん、ホントに自分のやりたいように強引にアレンジしまくっちゃいがちなヒッチコック監督とは手つきがまるで違いますよね。おフランス~♡
映画版の変更点として見逃せないのは、やはり「主人公が正妻」になり、「三人とも同じ職場にいる」という2点でしょう。修羅場だ! 小説版はなにかと配慮して350km もの物理的な距離さえ作っていたのに、映画版は思いッきり近づけて一つ屋根の下にしちゃったよ!! 修羅場、ら~らばんば♪
このアレンジは強烈だ……しかも、監督のマジの正妻のヴェラ=クルーゾーさんが主人公の正妻を演じてるんですから、ここにリアルすぎる三角関係のギスギスが発生しないわけがないのです。クルーゾー監督は、ノンフィクション映画のつもりでこの映画を撮ってるのか!?
具体的な人間関係を見ていきますと、映画版の主人公の正妻クリスティーナは夫ミシェルが校長を務める寄宿制の私立学園の教師なのですが、もともと学園を立ち上げる資金を持っていたのはクリスティーナの実家だったようで、校長としての権力をかさに学園を私物化するミシェルに対して彼女は強い反感を持っており、夫婦としての倦怠期も相まってかなり冷え冷えとした関係になっています。教育の現場はクリスティーナらに任せてミシェルは何をしているかというと、腐りかけの食材を安く買いあさって給食に使わせたりする強引な経営を推し進めているために、生徒や教師陣の不満はたらたらで、もっとひどいのは教師の一人であるニコールと、周囲にもほぼバレバレの不倫関係を続けていることです。これは当然のように、同じ現場で働いている妻のクリスティーナも知っている事実なのですが、ニコールもニコールでミシェルにはすでに飽きているという頭打ち感になっていて、本来憎らしい同士であるはずのクリスティーナとニコールが互いに「あいつほんとサイテーよね……」と慰め合っている始末です。教育の現場にふさわしくねぇ~!!
さらにミシェルは、まるで周囲に見せつけるかのように妻クリスティーナに対する暴力、パワハラ、モラハラを日常的に繰り返しており、ニコールとの不倫も、もしかしたらニコールへの愛というよりはクリスティーナへの嫌がらせが第一の目的なのではないかと思われるふしがあるほどです。
こういう、ただれにただれまくった三角関係を見ていますと、なんでこんなサイテー男にクリスティーナはさっさと見切りをつけないんだ、家庭の財布を握っているのはクリスティーナ(の実家)なんだし、別れたって困ることもないじゃないかと思ってしまうのですが、ここが原作小説には無かった映画版のすごいところで、もはやクリスティーナとミシェルが、好いた腫れたや金の切れ目どうこう程度では離れられない「共依存」の関係になっていることが、映画を見ているとじわじわ伝わってくるのです。もう理屈じゃないの! これぞ、リアルすぎる男と女の関係……
すなはち、ほぼ常に暴れまくっているミシェルではあるのですが、9割がたクリスティーナやニコールに対して粗野で愛情のかけらもない態度を取り続けていながらも、残りの1割で唐突に、「お前が嫌いなわけないじゃないか……わかってるだろう?」みたいな猫なで声で肩に手をかけたりしてくる時もあるのです。
これよ! この、憎ったらしいまでに狡猾なアメとムチ!! これにクリスティーナは完全に洗脳されてしまっているのです。さすがにニコールにその手は通じないのですが、客観的に見れば明らかにミシェルの思うつぼであるしらじらしい素振りに、ひとりクリスティーナだけはだまされ続けているわけなのですね。
これは、こわいですね……この映画の場合は男女の愛憎関係という話ですが、こういう心理的な支配と隷属の力関係って、世の中にはどこにでも転がっている風景なのではないでしょうか。学校、職場、家庭……性別も年代差も関係なく、この映画版におけるクリスティーナの苦しみは、21世紀の今現在でも全く消えていない日常的な「よくあること」なのです。映画から半世紀以上経っているのに全然改善していない……クルーゾー監督がオリジナルで盛り込んだエグすぎる要素は、いささかもその鋭さを劣化させずに観る者に突き刺さってくるのです。こわ~!!
映画『悪魔のような女』は、短く言えば「非常に怖い映画」です。しかしよくよく見てみると、その怖さはいくつもの違った種類の恐怖が集合しているものであることがよくわかります。
そもそもの原作小説の怖さというものは、その原題が示す通りに「殺したはずの人がいなくなった」というもの一つに絞られており、それが「殺人がバレて逮捕されるのではないか」という怖さから、徐々に「殺したはずの人が生きている!?」という別の恐怖へと変容していく様子が丁寧に描かれていくのでした。
それに対して映画版は、物語の中核にその恐怖を据えることは変わらないながらも、クリスティーナとニコールによるミシェル殺害計画決行の前段には、ミシェルによるクリスティーナの精神支配という「人間関係の怖さ」をしっかりと描き切っているのです。つまり、映画なの流れで言うと怖さの種類は「人怖(ひとこわ)サスペンス→犯罪サスペンス→心霊ホラーサスペンス」へとぐんぐん変容していくわけなのです。そして、そのどれもがちゃんと全力投球で怖く、ハラハラドキドキする! こういうねちっこくてこだわり抜いた構成は、あのヒッチコック作品でもなかなかない精密さなのではないでしょうか。う~ん、さすがおフランス!!
そして、この「怖さの種類のめまぐるしいジェットコースター」は、これ以上はネタバレになるので申し上げにくくなるのですが、死んだはずのミシェルの影がクリスティーナに迫る!?という映画版のクライマックスの後のわずか数分間で、また猫の目のようにコロッコロ変わっていくのです! ここも原作小説では「1回」のどんでん返しがあって終わるのですが、映画版では私の数え方で言うと「3回」驚きの展開があって、最後に有名な「この結末は誰にも言わないでください。」というテロップが流れて終幕となるのです。え、どれ? どの結末を言っちゃいけないの!?
いや~、この、イヤすぎるサービス精神の旺盛さね。クルーゾー監督は本当にやらしいお人ですよ! 映画を通して、観る人全員の感情を手玉にとる……やはりクリスティーナを演じたヴェラさんの夫でもあったクルーゾー監督は、ある意味でクリスティーナの夫であるミシェルと同等かそれ以上に狡知に長けた異能の人だったのでしょう。
やらしいと言うのならば、まず三角関係の人物全員を「一つ屋根の下」に集合させて、しかもその場が「青少年の教育の場」であるという不謹慎きわまりないシチュエーションを考えつくのがやらしいし、ミシェルのハラスメントの不必要なまでの引き出しの多さも、やらしいことは間違いありません。
でも、もっとやらしいのは、あの大傑作『恐怖の報酬』のごとく、ただでさえ心臓が弱いと言っているクリスティーナを痛めつけるように配置されていく「犯罪がバレるかも知れない」ハラハラ障害のラッシュですよね。あんなもんほぼ全部、原作小説になんかありません!
ニコールの部屋のバスタブに水が貯められる時刻を正確に記録する同じアパートの住人とか、ミシェルが入ったつづらを入れたトラックの荷台に入ろうとする酔っ払いとか、ミシェルが着ていた背広がなぜかクリーニング店に出されている謎とか、もう観客の心臓にも悪い演出のオンパレードですよね。ミシェルの寝室に調査に来た探偵のフィシェがなにげなく扉を閉めると……のところなんか、別に幽霊とかモンスターがそこにいるわけでもないのに、閉めた時に見えるアレにビクッとしちゃうんだよなぁ! 怖いっすよ!!
ただ、何といっても一番やらしいのは、ミシェルを沈めたプールがクリスティーナの授業している教室から丸見えってところなんですよね~!! これは嫌だ!!
生徒が遊び時間中に投げたボールが入ってもビクッ! 用務員のおじさんが浮かんでいる枯れ葉を拾ってもビクッ! ニコールが投げた鍵が落ちてもビクッ! いやこれ、絶対捨てる場所間違ってるって~!! クリスティーナ、やる前に「プールはダメでしょ……」ってちゃんと言わないと!
いやホント、この映画って最初っから最後までこんな調子で、「観客をハラハラドキドキさせるネタがあればガンガン投入していこうぜ」というアグレッシブスタイルなのです。この引き出しの充実っぷりがすごい! 映画というよりも、もはやお化け屋敷を楽しんでいる感覚に近いサービスっぷりですよね。
ただ、ここまで言うとなんだかクルーゾー監督のアイデアだけがこの映画の見どころであるかのように感じられるかもしれないのですが、やはり本作は、その演出意図をしっかり受けとめて見事に演じきる俳優さん方がいて初めて実現するものなのです。
この映画に登場する俳優さんは、小学校の生徒を演じる子役たちにいたるまで全員達者なのですが、やはり特にと言うのならば、クリスティーナを演じるヴェラさんと憎々しいミシェルを演じるポール=ムーリス、そして、いぶし銀の存在感でいいところをかっさらっていく探偵フィシェ役のシャルル=ヴァネルの3人が素晴らしいと思います。フィシェって、よれよれのコートを着て常に猫背というパッとしない外見だけを見るとあきらかに「刑事コロンボ」の大先輩とも言うべき人物なのですが、ダーティながらも抜けたところが全然ない眼光の鋭さが常にあるので、コロンボ的な愛されキャラではないですよね。
ムーリスもまぁ……外ヅラだけはフランス人みが強くなった高田純次さんにしか見えないのですが、やることなすことほんとに最低で。でも、序盤での「こいつは殺されても当然かな」と観客に感じさせる素行の数々もまた、クルーゾー監督が仕掛けた無数のトラップの中のひとつなんですよね~!! 本当にこの映画は114分間、頭からしっぽの先まで無駄なところが一瞬たりとも、無い。
あと、俳優さんの魅力と言うのならば、クライマックスとなる深夜の小学校の場面で、灯りの点いたミシェルの部屋にこわごわ近寄るクリスティーナを演じるヴェラさんの肌が恐怖のあまり汗びっしょりになってネグリジェが透けるぐらいになっている様子が、可哀そうでありながらも同時に非常にセクシーだというところも、見逃すわけにはまいりません。興奮するとかいう方向性ではないのですが、他人が追い詰められるさまを観てドキッとしてしまう背徳感がものすごいショットだと思います。これを計算して撮影してるからね……しかも、実の嫁にやらせてるという! こういうところ、仕事(映画)とプライベートをしっかり分けようとしている(けど公私混同もある)ヒッチコック監督にはできない芸当だと思います。クルーゾー監督こわすぎ!!
とまぁこんな感じで、この映画『悪魔のような女』はほんと、すごいと思うところを数え上げたらキリがない大傑作であるわけなのですが、本ブログの常で字数もいい加減にかさんでまいりましたので、最後に、ホラー映画が大好きな私としては絶対に無視することのできない「最後の最後のどんでん返し」に触れておしまいにしたいと思います。
いやこれ、言うのはやめてネと、先ほども申した通りにクルーゾー監督からじきじきに字幕で止められているので具体的な説明は控えるのですが、「え! そこまで来ておいて、最後にそのオチ!?」と唖然としてしまうくらいの大転換がくるんですよね。本編終了の数秒前に映画のジャンルが変わっちゃうんだもん、そりゃビックラこきますよね。
いや~、この豪胆さよ。でも、ここでの「しょっちゅう罰を受けさせられるダメ生徒」の発言のくだりは伏線として張られてるんですよね。うまいんだよな~! 全然唐突な感じはしない、「やられた!」みたいなフィニッシュなんですよ。
あと、デジタル撮影全盛となった2020年代ではほぼ死滅した文化といっても良い、薄らぼんやりとした荒い画像の中に「なにか」が見える心霊写真の恐怖を取り入れた「集合写真」のくだりも、またいいですよね。忍びよる幽霊の恐怖とはまた違った、当時最新モードの恐怖も盛り込んでいる貪欲さは、さすがはファッションの本場おフランスの映画といった感じでしょうか。導入に迷いがない!
私、個人的なことになるのですが、この映画を見ると必ず思い出すのが高校時代のエピソードでして、当時ものすごく怖がりな友達と一緒に夜道を帰っている時に私が、灯りの消えたビルに50個くらい並んでいる窓のどこかを指さして「あっ。」と言っただけで、その子がギャー!!と叫んで私をバンッバン殴ってきたものでした。
そうなんですよ、この映画、やっぱりモノクロで撮影される古い校舎という舞台設定からして怖くて、そこもまた、クルーゾー監督は見逃さずに最後の最後にひろって、ふつうに並んでいる窓さえもが勝手に怖く見えてくる魔法をかけておしまいにしてしまうのです。
ほんと、お金なんか大してかけなくても、アイデアと演出の腕だけでむちゃくちゃ怖い映画は、いくらでも作れるのよねぇ。人間の想像力は無限大なんだから、作り手も、見る側も。男も女も!
いや~何度見てもすごい映画だ。でも、クルーゾー監督みたいなお人がプライベートで近くにいるのは、カンベンかな~!?
あいだに深くて暗い河があるくらいの距離で、お願いしま~っす!!
最近、私の住む山形もやっと朝夕が涼しくなってきたような気がします。秋ももうすぐですね~。
ちょっと紅葉のタイミングからはズレてしまうのですが、個人的に今年一番のビッグイベントと目している、「山形~山梨間を車で往復1泊3日の旅」の日程が、もうすぐ先の10月あたまに近づいてまいりました。ほんと、個人的な話ですんません!
いや、何が今年一番なのかってあーた、「死ぬ確率が今年一番」なんですよね……片道500km 。せめて、よそさまには迷惑をかけずに楽しんできたいものでございますが。
この旅程自体は昨年の初夏に始めたもので、前回は山梨県北西部の北杜市を中心にめぐって増富ラジウム温泉というものすんごい秘湯につかってきたのですが、それで味を占めてしまいまして、できたら毎年行きたいなという運びになって。今年はちょっとズレて南アルプス市と韮崎市をメインにさまようつもりです。最大のお目当ては武田勝頼肝いりの要塞・新府城跡の散策かな!?
ま、とにもかくにも、旅の最中もその前後も、健康・安全第一でまいりたいものでございます。この秋は観たい映画やドラマも山ほどあるしね! いや~、まだまだ死ねませんな☆
そんなこんなで今回のお題なのでございますが、ちょっと最近の作品ではなくて昔の映画になってしまうのですが、ミステリーやスリラーの好きな方だったら観ないと絶対に損をするゾという、世界映画史上に残る大傑作についてをば。
映画『悪魔のような女』(1955年1月 114分 フランス)
『悪魔のような女』(原題:Les Diaboliques)は、フランスのサイコスリラー映画。フランスの共作推理小説家ボワロー&ナルスジャックのサスペンス小説『 Celle qui n'était plus』(1952年発表)を原作とするが、登場人物の設定が全く違うものとなっている。
本作は、アメリカで1996年3月に主演シャロン=ストーン、イザベル=アジャーニでリメイク映画が制作された。
また日本でも、設定を現代日本にアレンジしたリメイクドラマが2005年3月5日にテレビ朝日系列『土曜ワイド劇場』枠内にて放送された。監督・脚本は落合正幸、主演は浅野ゆう子、菅野美穂、仲村トオル。
あらすじ
パリ郊外の私立小学校デュラサール学園を運営するミシェルは、病弱な妻クリスティーナがありながら部下の女教師ニコールと愛人関係にあった。粗暴なミシェルに我慢が出来なくなったニコールとクリスティーナは結託し、ミシェルを殺害して校内のプールに沈める計画を決行する。その後、やむをえずプールの水を抜いた時、沈めたはずのミシェルが消えていた。それから2人の周囲には、ミシェルがあたかも生きているかのような現象が次々と発生し、ついにはミシェルの不在に疑問をいだいた警察の捜査介入を招いてしまう。
おもなスタッフ
監督・製作 …… アンリジョルジュ=クルーゾー(47歳)
脚本 …… ジェローム=ジェロミニ(?歳)、アンリジョルジュ=クルーゾー
音楽 …… ジョルジュ=ヴァン・パリス(52歳)
撮影 …… アルマン=ティラール(55歳)
編集 …… マドレーヌ=ギユ(41歳)
おもなキャスティング
ニコール=オネール …… シモーヌ=シニョレ(33歳)
クリスティーナ=デュラサール …… ヴェラ=クルーゾー(41歳)
ミシェル=デュラサール校長 …… ポール=ムーリス(42歳)
私立探偵のフィシェ …… シャルル=ヴァネル(62歳)
ドラン先生 …… ピエール=ラルケ(70歳)
レイモン先生 …… ミシェル=セロー(27歳)
用務員のプランティヴォー …… ジャン=ブロシャール(61歳)
エルボウ夫人 …… テレーズ=ドーニー(63歳)
エルボウ氏 …… ノエル=ロクヴェール(62歳)
ガソリンスタンドの給油係 …… ロベール=ダーバン(51歳)
ほんと、なんで今、この映画なの!? いやいや、面白い映画はいつ観たっていいんですよ。
ご存じの通り、本作のメガホンを執ったクルーゾー監督はフランス映画界において「サスペンス・スリラー映画の巨匠」と讃えられる天才監督で、当然ながらほぼ同時代にイギリスとハリウッドでブイブイ言わせていた「サスペンス・スリラーの神様」ことアルフレッド=ヒッチコック監督としのぎを削る存在となっていた方でした。実年齢的にもキャリア的にもクルーゾー監督はヒッチコック監督よりも後輩なのですが(8歳年下で監督デビューも12年あと)、『恐怖の報酬』(1953年)と本作『悪魔のような女』を撮ったという時点で、ヒッチコック監督に十二分に伍する才覚を持った映画監督であることは間違いないでしょう。クルーゾー監督が生涯で完成させた長編フィクション映画は11作ということで、さすがにヒッチコック監督に比べたら寡作ではあるのですが、フランスから遠く離れたジャポンに住む私達も、少なくとも上に挙げた2作は必ず観ておいたほうが良いのではないでしょうか。『恐怖の報酬』なんか、あらすじ1~2行で充分だもんね! セリフすら必要のないサスペンス超特化型エンタテインメントです!! でも、私はやっぱりクルーゾー監督のオリジナル版よりも、死のかほりが濃厚にただよう1977年リメイク版(監督ウィリアム=フリードキン!)のほうが好きかなぁ。
ちなみに、クルーゾー監督がこの『悪魔のような女』を世に問うた1955年前後にいっぽうのヒッチコック監督はハリウッドでどういった作品を撮っていたのかといいますと、『ダイヤルM を廻せ!』(1954年5月公開)、『裏窓』(同年8月)、『泥棒成金』(1955年8月)、『ハリーの災難』(同年10月)という天下無敵のキラキラマリオ状態でありました。え、2~3ヶ月のスパンで新作出してたの!? ジャンプコミックスじゃないんだから。
……まぁ、この時期のヒッチコック監督とは比較するだけムダという感じなのでスルーしますが、それでもクルーゾー監督の『悪魔のような女』は、荒唐無稽でファンタジックですらあるヒッチコックワールドではついぞ描写が避けられていたような「男と女のじめっとした関係」を、これでもかというほどにバッチリとフィルムに収めた、唯一無二の黒々とした輝きを放っています。ヒッチコックが陽ならばクルーゾーは陰、ヒッチコックがヒマワリならばクルーゾーは月見草ときたもんだ! まさに、この『悪魔のような女』がモノクロ作品であることには意味があるのです。この物語に、色彩は必要ない。必要なのは、夜の闇の深さなのだ……
ここで、映画の内容にいく前に、本作の原作とされるボワロー&ナルスジャックのサスペンス小説『 Celle qui n'était plus』について触れておきましょう。
この小説は、映画公開の3年前に発表された作品なのですが、日本で翻訳されたときは映画がすでに公開されていたので、映画のタイトル『 Les Diaboliques』の直訳である『悪魔のような女』がそのまんま、小説の邦訳タイトルに逆輸入されています(現在でもハヤカワ文庫版が手に入りやすい)。ただし、もともとの小説のタイトルは日本語訳すると「いなくなった人」という意味になるので、映画版で言うと殺したはずのミシェル校長の死体が学校のプールから消えてしまった謎のことを指しているようですね。
そして、これは言わずにはおられない事実なのですが、小説版と映画版とでは、その内容がビックリするくらいに別のものとなっているのです。これはねぇ、後発の映画版がかなり大胆に小説をアレンジしちゃった、って感じですよね。そして、それが結果的に大成功している!
具体的に言いますと、小説版は映画版と同じく「三角関係にある人間のうちの2人が共謀してもう1人を殺すが、殺したはずの死体が消える」という展開と、その真相だけが共通しているのですが、それ以外は人物設定から何から、全てがまるで別のお話となっています。
すなはち、映画版では女性2人が共謀して男性を殺そうとするのですが、小説版は男と女(愛人のほう)が共謀して正妻の女性を殺そうとする発端となります。小説版ではなんと、ミシェル校長にあたる男性が主人公なんですね!
その他にも小説版は、「男はセールスマンで正妻は専業主婦、愛人は女医」だったり、「夫婦はパリ近郊の都市アンギャン=レ=バン在住で、愛人の女医はフランス北西部の都市ナント在住(両都市間の距離は約350km )」だったり、「映画の終幕直前の展開(探偵と生徒のくだり)がない」といった大きな違いが目白押しとなっています。あと、ご丁寧に登場人物の名前もぜ~んぶ違いますね。ざっと見ると夫ミシェル→フェルナン、正妻クリスティーナ→ミレイユ、愛人ニコール→リュシエーヌ、探偵のフィシェ→メルランといった感じで、だいたい夫と正妻の役割が逆転している以外はキャラクターはほぼ同じなのですが、全員名前が変わっています。その他、映画版でいい味を出していた学園の先生方は学園ごと登場せず、その代わりに正妻ミレイユの兄夫婦が登場します。
小説版の内容を見ていきますと、主人公であり主犯でもある男性の犯行動機は単純な「愛人への執着&嫉妬深い正妻への嫌悪」となっており、映画版に比べるといささかありきたりで凡庸な印象になっています。当然、男性が正妻に「おびえつつ」殺そうとするという力関係も発生していません。
かいつまんで申しますと、映画の原作となった小説『 Celle qui n'était plus』は、かなり読みやすくあっさりとした味わいの犯罪小説だったのです。ただし、港に濃密にたちこめる夜霧の描写や、正妻の死体が消えてしまったことで疑心暗鬼に陥り精神がゴリゴリに削られてゆく男性の心理描写は非常に読者を引き込むものがあり、決して単なるイロモノ小説とはあなどれない雰囲気に満ちています。
完全な余談なのですが、私、この小説をハヤカワ文庫版(1996年のイザベル=アジャーニ版が表紙のやつ)で読んだんですが、何にびっくりしたって、小説の内容よりも小説家の皆川博子先生の解説にビックラこいちゃいましたよ。小説の内容にほとんど触れてないんだもの! 先生、小説読んだ!? それどころか、クルーゾー監督の作品でもないフランス映画『しのび泣き』(1945年 監督ジャン=ドラノワ)の話で盛り上がっちゃってるし……先生、ご機嫌ななめですね~!!
さて、いよいよ話を本題の映画版の方に向けていきたいのですが、以上のような、タイトル通りに「消えた死体の謎」に焦点を絞って可能な限りシンプルな構成に徹していた小説版と比較してみますと、本作がいかに苦心して物語を「よりリアルでより陰湿なもの」にブラッシュアップし、なおかつサスペンス・スリラー映画として見どころたっぷりな作品に仕上げようとしていたのかがよくわかります。ほんと、創意工夫の見本市みたいな総リニューアルっぷり! でも、お話の骨格「三角関係と消えた死体」だけには全く手を加えずに肉付けだけを変えてるんですよね。だから小説版と映画版は、どこまでいっても双生児のように同じ「夜の闇のかおり」をはなっているのです。粋だね~! このへん、ホントに自分のやりたいように強引にアレンジしまくっちゃいがちなヒッチコック監督とは手つきがまるで違いますよね。おフランス~♡
映画版の変更点として見逃せないのは、やはり「主人公が正妻」になり、「三人とも同じ職場にいる」という2点でしょう。修羅場だ! 小説版はなにかと配慮して350km もの物理的な距離さえ作っていたのに、映画版は思いッきり近づけて一つ屋根の下にしちゃったよ!! 修羅場、ら~らばんば♪
このアレンジは強烈だ……しかも、監督のマジの正妻のヴェラ=クルーゾーさんが主人公の正妻を演じてるんですから、ここにリアルすぎる三角関係のギスギスが発生しないわけがないのです。クルーゾー監督は、ノンフィクション映画のつもりでこの映画を撮ってるのか!?
具体的な人間関係を見ていきますと、映画版の主人公の正妻クリスティーナは夫ミシェルが校長を務める寄宿制の私立学園の教師なのですが、もともと学園を立ち上げる資金を持っていたのはクリスティーナの実家だったようで、校長としての権力をかさに学園を私物化するミシェルに対して彼女は強い反感を持っており、夫婦としての倦怠期も相まってかなり冷え冷えとした関係になっています。教育の現場はクリスティーナらに任せてミシェルは何をしているかというと、腐りかけの食材を安く買いあさって給食に使わせたりする強引な経営を推し進めているために、生徒や教師陣の不満はたらたらで、もっとひどいのは教師の一人であるニコールと、周囲にもほぼバレバレの不倫関係を続けていることです。これは当然のように、同じ現場で働いている妻のクリスティーナも知っている事実なのですが、ニコールもニコールでミシェルにはすでに飽きているという頭打ち感になっていて、本来憎らしい同士であるはずのクリスティーナとニコールが互いに「あいつほんとサイテーよね……」と慰め合っている始末です。教育の現場にふさわしくねぇ~!!
さらにミシェルは、まるで周囲に見せつけるかのように妻クリスティーナに対する暴力、パワハラ、モラハラを日常的に繰り返しており、ニコールとの不倫も、もしかしたらニコールへの愛というよりはクリスティーナへの嫌がらせが第一の目的なのではないかと思われるふしがあるほどです。
こういう、ただれにただれまくった三角関係を見ていますと、なんでこんなサイテー男にクリスティーナはさっさと見切りをつけないんだ、家庭の財布を握っているのはクリスティーナ(の実家)なんだし、別れたって困ることもないじゃないかと思ってしまうのですが、ここが原作小説には無かった映画版のすごいところで、もはやクリスティーナとミシェルが、好いた腫れたや金の切れ目どうこう程度では離れられない「共依存」の関係になっていることが、映画を見ているとじわじわ伝わってくるのです。もう理屈じゃないの! これぞ、リアルすぎる男と女の関係……
すなはち、ほぼ常に暴れまくっているミシェルではあるのですが、9割がたクリスティーナやニコールに対して粗野で愛情のかけらもない態度を取り続けていながらも、残りの1割で唐突に、「お前が嫌いなわけないじゃないか……わかってるだろう?」みたいな猫なで声で肩に手をかけたりしてくる時もあるのです。
これよ! この、憎ったらしいまでに狡猾なアメとムチ!! これにクリスティーナは完全に洗脳されてしまっているのです。さすがにニコールにその手は通じないのですが、客観的に見れば明らかにミシェルの思うつぼであるしらじらしい素振りに、ひとりクリスティーナだけはだまされ続けているわけなのですね。
これは、こわいですね……この映画の場合は男女の愛憎関係という話ですが、こういう心理的な支配と隷属の力関係って、世の中にはどこにでも転がっている風景なのではないでしょうか。学校、職場、家庭……性別も年代差も関係なく、この映画版におけるクリスティーナの苦しみは、21世紀の今現在でも全く消えていない日常的な「よくあること」なのです。映画から半世紀以上経っているのに全然改善していない……クルーゾー監督がオリジナルで盛り込んだエグすぎる要素は、いささかもその鋭さを劣化させずに観る者に突き刺さってくるのです。こわ~!!
映画『悪魔のような女』は、短く言えば「非常に怖い映画」です。しかしよくよく見てみると、その怖さはいくつもの違った種類の恐怖が集合しているものであることがよくわかります。
そもそもの原作小説の怖さというものは、その原題が示す通りに「殺したはずの人がいなくなった」というもの一つに絞られており、それが「殺人がバレて逮捕されるのではないか」という怖さから、徐々に「殺したはずの人が生きている!?」という別の恐怖へと変容していく様子が丁寧に描かれていくのでした。
それに対して映画版は、物語の中核にその恐怖を据えることは変わらないながらも、クリスティーナとニコールによるミシェル殺害計画決行の前段には、ミシェルによるクリスティーナの精神支配という「人間関係の怖さ」をしっかりと描き切っているのです。つまり、映画なの流れで言うと怖さの種類は「人怖(ひとこわ)サスペンス→犯罪サスペンス→心霊ホラーサスペンス」へとぐんぐん変容していくわけなのです。そして、そのどれもがちゃんと全力投球で怖く、ハラハラドキドキする! こういうねちっこくてこだわり抜いた構成は、あのヒッチコック作品でもなかなかない精密さなのではないでしょうか。う~ん、さすがおフランス!!
そして、この「怖さの種類のめまぐるしいジェットコースター」は、これ以上はネタバレになるので申し上げにくくなるのですが、死んだはずのミシェルの影がクリスティーナに迫る!?という映画版のクライマックスの後のわずか数分間で、また猫の目のようにコロッコロ変わっていくのです! ここも原作小説では「1回」のどんでん返しがあって終わるのですが、映画版では私の数え方で言うと「3回」驚きの展開があって、最後に有名な「この結末は誰にも言わないでください。」というテロップが流れて終幕となるのです。え、どれ? どの結末を言っちゃいけないの!?
いや~、この、イヤすぎるサービス精神の旺盛さね。クルーゾー監督は本当にやらしいお人ですよ! 映画を通して、観る人全員の感情を手玉にとる……やはりクリスティーナを演じたヴェラさんの夫でもあったクルーゾー監督は、ある意味でクリスティーナの夫であるミシェルと同等かそれ以上に狡知に長けた異能の人だったのでしょう。
やらしいと言うのならば、まず三角関係の人物全員を「一つ屋根の下」に集合させて、しかもその場が「青少年の教育の場」であるという不謹慎きわまりないシチュエーションを考えつくのがやらしいし、ミシェルのハラスメントの不必要なまでの引き出しの多さも、やらしいことは間違いありません。
でも、もっとやらしいのは、あの大傑作『恐怖の報酬』のごとく、ただでさえ心臓が弱いと言っているクリスティーナを痛めつけるように配置されていく「犯罪がバレるかも知れない」ハラハラ障害のラッシュですよね。あんなもんほぼ全部、原作小説になんかありません!
ニコールの部屋のバスタブに水が貯められる時刻を正確に記録する同じアパートの住人とか、ミシェルが入ったつづらを入れたトラックの荷台に入ろうとする酔っ払いとか、ミシェルが着ていた背広がなぜかクリーニング店に出されている謎とか、もう観客の心臓にも悪い演出のオンパレードですよね。ミシェルの寝室に調査に来た探偵のフィシェがなにげなく扉を閉めると……のところなんか、別に幽霊とかモンスターがそこにいるわけでもないのに、閉めた時に見えるアレにビクッとしちゃうんだよなぁ! 怖いっすよ!!
ただ、何といっても一番やらしいのは、ミシェルを沈めたプールがクリスティーナの授業している教室から丸見えってところなんですよね~!! これは嫌だ!!
生徒が遊び時間中に投げたボールが入ってもビクッ! 用務員のおじさんが浮かんでいる枯れ葉を拾ってもビクッ! ニコールが投げた鍵が落ちてもビクッ! いやこれ、絶対捨てる場所間違ってるって~!! クリスティーナ、やる前に「プールはダメでしょ……」ってちゃんと言わないと!
いやホント、この映画って最初っから最後までこんな調子で、「観客をハラハラドキドキさせるネタがあればガンガン投入していこうぜ」というアグレッシブスタイルなのです。この引き出しの充実っぷりがすごい! 映画というよりも、もはやお化け屋敷を楽しんでいる感覚に近いサービスっぷりですよね。
ただ、ここまで言うとなんだかクルーゾー監督のアイデアだけがこの映画の見どころであるかのように感じられるかもしれないのですが、やはり本作は、その演出意図をしっかり受けとめて見事に演じきる俳優さん方がいて初めて実現するものなのです。
この映画に登場する俳優さんは、小学校の生徒を演じる子役たちにいたるまで全員達者なのですが、やはり特にと言うのならば、クリスティーナを演じるヴェラさんと憎々しいミシェルを演じるポール=ムーリス、そして、いぶし銀の存在感でいいところをかっさらっていく探偵フィシェ役のシャルル=ヴァネルの3人が素晴らしいと思います。フィシェって、よれよれのコートを着て常に猫背というパッとしない外見だけを見るとあきらかに「刑事コロンボ」の大先輩とも言うべき人物なのですが、ダーティながらも抜けたところが全然ない眼光の鋭さが常にあるので、コロンボ的な愛されキャラではないですよね。
ムーリスもまぁ……外ヅラだけはフランス人みが強くなった高田純次さんにしか見えないのですが、やることなすことほんとに最低で。でも、序盤での「こいつは殺されても当然かな」と観客に感じさせる素行の数々もまた、クルーゾー監督が仕掛けた無数のトラップの中のひとつなんですよね~!! 本当にこの映画は114分間、頭からしっぽの先まで無駄なところが一瞬たりとも、無い。
あと、俳優さんの魅力と言うのならば、クライマックスとなる深夜の小学校の場面で、灯りの点いたミシェルの部屋にこわごわ近寄るクリスティーナを演じるヴェラさんの肌が恐怖のあまり汗びっしょりになってネグリジェが透けるぐらいになっている様子が、可哀そうでありながらも同時に非常にセクシーだというところも、見逃すわけにはまいりません。興奮するとかいう方向性ではないのですが、他人が追い詰められるさまを観てドキッとしてしまう背徳感がものすごいショットだと思います。これを計算して撮影してるからね……しかも、実の嫁にやらせてるという! こういうところ、仕事(映画)とプライベートをしっかり分けようとしている(けど公私混同もある)ヒッチコック監督にはできない芸当だと思います。クルーゾー監督こわすぎ!!
とまぁこんな感じで、この映画『悪魔のような女』はほんと、すごいと思うところを数え上げたらキリがない大傑作であるわけなのですが、本ブログの常で字数もいい加減にかさんでまいりましたので、最後に、ホラー映画が大好きな私としては絶対に無視することのできない「最後の最後のどんでん返し」に触れておしまいにしたいと思います。
いやこれ、言うのはやめてネと、先ほども申した通りにクルーゾー監督からじきじきに字幕で止められているので具体的な説明は控えるのですが、「え! そこまで来ておいて、最後にそのオチ!?」と唖然としてしまうくらいの大転換がくるんですよね。本編終了の数秒前に映画のジャンルが変わっちゃうんだもん、そりゃビックラこきますよね。
いや~、この豪胆さよ。でも、ここでの「しょっちゅう罰を受けさせられるダメ生徒」の発言のくだりは伏線として張られてるんですよね。うまいんだよな~! 全然唐突な感じはしない、「やられた!」みたいなフィニッシュなんですよ。
あと、デジタル撮影全盛となった2020年代ではほぼ死滅した文化といっても良い、薄らぼんやりとした荒い画像の中に「なにか」が見える心霊写真の恐怖を取り入れた「集合写真」のくだりも、またいいですよね。忍びよる幽霊の恐怖とはまた違った、当時最新モードの恐怖も盛り込んでいる貪欲さは、さすがはファッションの本場おフランスの映画といった感じでしょうか。導入に迷いがない!
私、個人的なことになるのですが、この映画を見ると必ず思い出すのが高校時代のエピソードでして、当時ものすごく怖がりな友達と一緒に夜道を帰っている時に私が、灯りの消えたビルに50個くらい並んでいる窓のどこかを指さして「あっ。」と言っただけで、その子がギャー!!と叫んで私をバンッバン殴ってきたものでした。
そうなんですよ、この映画、やっぱりモノクロで撮影される古い校舎という舞台設定からして怖くて、そこもまた、クルーゾー監督は見逃さずに最後の最後にひろって、ふつうに並んでいる窓さえもが勝手に怖く見えてくる魔法をかけておしまいにしてしまうのです。
ほんと、お金なんか大してかけなくても、アイデアと演出の腕だけでむちゃくちゃ怖い映画は、いくらでも作れるのよねぇ。人間の想像力は無限大なんだから、作り手も、見る側も。男も女も!
いや~何度見てもすごい映画だ。でも、クルーゾー監督みたいなお人がプライベートで近くにいるのは、カンベンかな~!?
あいだに深くて暗い河があるくらいの距離で、お願いしま~っす!!
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