こんばんは、そうだいです。今日は天気わるかったですねぇ。大雨ってわけでもなかったんですが、ずっとさめざめした雰囲気の日でした。でもそれはそれで、よし!
実は今日のうちから、明日に銀座の日生劇場に観に行く予定のお芝居『カエサル』が楽しみでワックワクしてるんですよ。
『カエサル』! 原作・塩野七生、演出・栗山民也、主演・松本幸四郎!
もともとは、この公演に出演している役者の永栄正顕さんと共演したつながりでお誘いをもらった経緯があったんですが、カエサルよ、カエサル!
まっさに、今わたくしがやっている「ざっくり世界史」に関連しまくりではないですか。もうちょっとしたら出てくるんですよ、カエサルさんが! こりゃ必見だわ。
しかも、かの大女優であらせられる小島聖さんも高橋惠子さんも出演されるという……素晴らしい。これを観ずして2010年は締めくくられません。ちと早すぎるか?
じゃあ、そんなこんなで今日もいってみましょう、カエサルさんの時代まであと450年! いつになったらたどりつけるんだよ……
時は紀元前509年。イタリア半島中部にある小さな都市国家・ローマ王国。7代国王・タルクィニウス傲慢王による度重なる対外遠征への負担に耐えられなくなったローマ国民は、ついにクーデターを決行してタルクィニウスを追放してしまいます。
これによって、およそ250年間続いたローマ王国は消滅し、国民によって選挙で選ばれた2人の執政官(コンスル)が統治するローマ共和国が誕生したわけなんですが、ここには、ただ国のかたちが変わっただけという説明ではすまされない事情がからんでいました。
それが、ラテン人とエトルリア人との民族問題だったのです。
当時、ローマ国民の多くはラテン人でしたが、イタリア半島中部で最も繁栄していた民族はエトルリア人だったのです。エトルリア人は古代ギリシア文明の流れもくむ先進的な文化をようしており、ローマの人々に水道橋・城壁などの高度な建築技術をもたらしたのもエトルリア人でした。
やがてエトルリア人はローマの政治にも関わっていくようになり、いつしかローマの国王までもがエトルリア人になるようになっていました。
もっとも、最後のタルクィニウス王が追放された直接の原因は彼の暴政によるものだったのですが、エトルリア人の国王がラテン人の国民に追い出されたというニュースは、ローマを囲むようにしてイタリア半島全体に分布していた多くのエトルリア人の都市国家に微妙な影響を与えることになりました。
「ラテン人、ちょっと、調子にのってんじゃねぇ?」
当然のように、ローマ共和国と周辺のエトルリア人国家との関係は雲行きが怪しくなり、ローマ国内にいたエトルリア人も戦乱のにおいを敏感に感じ取って国外にのがれるようになってしまいました。
あやうし、生まれたてのローマ共和国! 復讐に燃えるタルクィニウスが同族であるエトルリア人国家にローマ攻撃を呼びかける。さて、その結果は?
結果として、ローマ共和国はタルクィニウスの人望のなさに助けられることとなりました。タルクィニウスの呼びかけにエトルリア人国家が今イチのってこなかったのです。
タルクィニウスが追放されたのは紀元前509年でしたが、彼がエトルリア人諸国家の支援を得て始めた「第1次ラティウム戦争」の開戦は、11年後の紀元前498年を待たなければならなかったのです。
まぁ、それもそうですよね……もともとタルクィニウスがローマ国民に嫌われた理由は、強引なまでにまわりの国家への戦争を続けていたからだったのです。同じエトルリア人のよしみとはいえ、たとえ手助けして国王に復帰させても、その恩を忘れてすぐ自分の国に攻め込んで来かねない狂犬に力を貸すものはあまりいなかったでしょう。11年。本格的な戦争が始まるまでのこのブランクは、ローマ共和国にとって態勢をととのえる願ってもない猶予期間となったのです。
ぼちぼち、そんな感じの低いテンションで始まったエトルリア人の周辺国家とローマ共和国との第1次ラティウム戦争(「ラティウム」とは、要するにローマを含めたイタリア半島中部の地方名です)だったのですが、そんな状態でタルクィニウスが黙っているはずがありません。
「ええい、もうよい! ワシみずからが先陣に立つ! 軍隊かせ!」
とばかりに、エトルリア人国家の1つであるトゥスクルム王国の軍隊を借りてローマに仕掛けたのが、第1次ラティウム戦争最大の決戦ともいえる、紀元前496年の「レギッルス湖畔の合戦」だったのです。
レギッルス湖は、ローマの30キロほど東の地にありました。その湖畔で、戦争好きのタルクィニウス率いる軍勢と新鋭のローマ共和国軍が激突することとなったのです。さぁ、どっちが勝つか!?
ローマの運命を左右したこの決戦なのですが、残念ながら紀元前5世紀の出来事だったため(日本は弥生時代!)、具体的な日時や軍勢同士の規模ははっきりとしていません。ただし、タルクィニウスが戦場に現れると聞いて、対するローマ軍の戦意も高まったことは間違いありません。
当時のイタリア半島で行われていた戦争のかたちは、青銅でできた鎧と大きな楯、そして槍で武装した「重装歩兵」が主戦力となるものでした。だいたいあとは、似たような武装をした兵士が馬に乗った「騎兵」部隊がそれをサポートするという編成です。
重装歩兵の戦法は、軍隊がひとかたまりになって楯を前面にズラっとならべて身を守りながら、槍を突きだして相手に突進していくという「ファランクス戦法」。「ファランクス」とは「丸太」のことです。丸太のように勢いよく前方に激突する超シンプルなやり方! これは1000年ほど前の古代ギリシア時代から伝わっていたヨーロッパ伝統の戦法です。現代日本の私たちが想像するとしたら、ジュラルミンの楯をたてていっせいに前進する警察の機動隊のイメージが最もそれに近いでしょうか。
おそらく、どちらの軍勢も似たような戦法をとったと思われるレギッルス湖畔の合戦だったのですが、互角にやりあっていた戦況も、しだいに戦争経験の豊富なタルクィニウスの方に有利に動いていきます。
重装歩兵のファランクス戦法の弱点は、前面以外の方向からの反撃に対応できないところにありました。軍隊がひとかたまりなので、陣形を変えるのに時間がかかるのです。
それを突いたタルクィニウスは、素早くローマ軍の後方にまわって奇襲をかけ、ローマの執政官も経験したことのある将軍を討ち取ったのです。
「よっしゃあ! 見たか若僧ども、ダテに戦争ばっかやってきたわけじゃないんじゃあ!」
「んだとぉ! じゃこっちも奇襲でぇ!!」
戦争上手なタルクィニウスでしたが、対する若いローマ軍も、戦場での対応は早かった。今度はローマ軍の大将だった独裁官(ディクタトル)・ポストゥミウスが、親衛隊の精鋭をタルクィニウス軍に潜入させ、タルクィニウスとともに軍隊を指揮していたトゥスクルム王国の王子を討ち取ってしまったのです。
「あっ、大変だぁ! おらが王国の王子様がおっ死んじまっただ!」
よそもののタルクィニウスよりもトゥスクルム軍の兵士にとって大事だった王子が殺されたことにより、タルクィニウスの軍は総崩れ。こうむった損害も大きかったものの、ローマ軍はからくもこの合戦でタルクィニウスを撃退することに成功したのです。
自らの力で「王」を捨てたローマの人々は、逆に「王」が強い影響力を持っていることを逆手にとった作戦でこの合戦に勝利したわけだったのです。反則スレスレだけど、かしこい!
さすがにここでの敗戦にガックリきたタルクィニウスは、翌年の紀元前495年に異国の地で死去。彼の引き起こした第1次ラティウム戦争も、紀元前493年にローマ共和国と周辺のエトルリア人国家との和睦という形でいったんは終息しました。
こうして当面の危機を脱することに成功したローマ共和国だったのですが、休む間もなく今度は、中から外から新たな問題が……
新生したローマの受難の時期は続きます。がんばれローマ、負けるなローマ!
実は今日のうちから、明日に銀座の日生劇場に観に行く予定のお芝居『カエサル』が楽しみでワックワクしてるんですよ。
『カエサル』! 原作・塩野七生、演出・栗山民也、主演・松本幸四郎!
もともとは、この公演に出演している役者の永栄正顕さんと共演したつながりでお誘いをもらった経緯があったんですが、カエサルよ、カエサル!
まっさに、今わたくしがやっている「ざっくり世界史」に関連しまくりではないですか。もうちょっとしたら出てくるんですよ、カエサルさんが! こりゃ必見だわ。
しかも、かの大女優であらせられる小島聖さんも高橋惠子さんも出演されるという……素晴らしい。これを観ずして2010年は締めくくられません。ちと早すぎるか?
じゃあ、そんなこんなで今日もいってみましょう、カエサルさんの時代まであと450年! いつになったらたどりつけるんだよ……
時は紀元前509年。イタリア半島中部にある小さな都市国家・ローマ王国。7代国王・タルクィニウス傲慢王による度重なる対外遠征への負担に耐えられなくなったローマ国民は、ついにクーデターを決行してタルクィニウスを追放してしまいます。
これによって、およそ250年間続いたローマ王国は消滅し、国民によって選挙で選ばれた2人の執政官(コンスル)が統治するローマ共和国が誕生したわけなんですが、ここには、ただ国のかたちが変わっただけという説明ではすまされない事情がからんでいました。
それが、ラテン人とエトルリア人との民族問題だったのです。
当時、ローマ国民の多くはラテン人でしたが、イタリア半島中部で最も繁栄していた民族はエトルリア人だったのです。エトルリア人は古代ギリシア文明の流れもくむ先進的な文化をようしており、ローマの人々に水道橋・城壁などの高度な建築技術をもたらしたのもエトルリア人でした。
やがてエトルリア人はローマの政治にも関わっていくようになり、いつしかローマの国王までもがエトルリア人になるようになっていました。
もっとも、最後のタルクィニウス王が追放された直接の原因は彼の暴政によるものだったのですが、エトルリア人の国王がラテン人の国民に追い出されたというニュースは、ローマを囲むようにしてイタリア半島全体に分布していた多くのエトルリア人の都市国家に微妙な影響を与えることになりました。
「ラテン人、ちょっと、調子にのってんじゃねぇ?」
当然のように、ローマ共和国と周辺のエトルリア人国家との関係は雲行きが怪しくなり、ローマ国内にいたエトルリア人も戦乱のにおいを敏感に感じ取って国外にのがれるようになってしまいました。
あやうし、生まれたてのローマ共和国! 復讐に燃えるタルクィニウスが同族であるエトルリア人国家にローマ攻撃を呼びかける。さて、その結果は?
結果として、ローマ共和国はタルクィニウスの人望のなさに助けられることとなりました。タルクィニウスの呼びかけにエトルリア人国家が今イチのってこなかったのです。
タルクィニウスが追放されたのは紀元前509年でしたが、彼がエトルリア人諸国家の支援を得て始めた「第1次ラティウム戦争」の開戦は、11年後の紀元前498年を待たなければならなかったのです。
まぁ、それもそうですよね……もともとタルクィニウスがローマ国民に嫌われた理由は、強引なまでにまわりの国家への戦争を続けていたからだったのです。同じエトルリア人のよしみとはいえ、たとえ手助けして国王に復帰させても、その恩を忘れてすぐ自分の国に攻め込んで来かねない狂犬に力を貸すものはあまりいなかったでしょう。11年。本格的な戦争が始まるまでのこのブランクは、ローマ共和国にとって態勢をととのえる願ってもない猶予期間となったのです。
ぼちぼち、そんな感じの低いテンションで始まったエトルリア人の周辺国家とローマ共和国との第1次ラティウム戦争(「ラティウム」とは、要するにローマを含めたイタリア半島中部の地方名です)だったのですが、そんな状態でタルクィニウスが黙っているはずがありません。
「ええい、もうよい! ワシみずからが先陣に立つ! 軍隊かせ!」
とばかりに、エトルリア人国家の1つであるトゥスクルム王国の軍隊を借りてローマに仕掛けたのが、第1次ラティウム戦争最大の決戦ともいえる、紀元前496年の「レギッルス湖畔の合戦」だったのです。
レギッルス湖は、ローマの30キロほど東の地にありました。その湖畔で、戦争好きのタルクィニウス率いる軍勢と新鋭のローマ共和国軍が激突することとなったのです。さぁ、どっちが勝つか!?
ローマの運命を左右したこの決戦なのですが、残念ながら紀元前5世紀の出来事だったため(日本は弥生時代!)、具体的な日時や軍勢同士の規模ははっきりとしていません。ただし、タルクィニウスが戦場に現れると聞いて、対するローマ軍の戦意も高まったことは間違いありません。
当時のイタリア半島で行われていた戦争のかたちは、青銅でできた鎧と大きな楯、そして槍で武装した「重装歩兵」が主戦力となるものでした。だいたいあとは、似たような武装をした兵士が馬に乗った「騎兵」部隊がそれをサポートするという編成です。
重装歩兵の戦法は、軍隊がひとかたまりになって楯を前面にズラっとならべて身を守りながら、槍を突きだして相手に突進していくという「ファランクス戦法」。「ファランクス」とは「丸太」のことです。丸太のように勢いよく前方に激突する超シンプルなやり方! これは1000年ほど前の古代ギリシア時代から伝わっていたヨーロッパ伝統の戦法です。現代日本の私たちが想像するとしたら、ジュラルミンの楯をたてていっせいに前進する警察の機動隊のイメージが最もそれに近いでしょうか。
おそらく、どちらの軍勢も似たような戦法をとったと思われるレギッルス湖畔の合戦だったのですが、互角にやりあっていた戦況も、しだいに戦争経験の豊富なタルクィニウスの方に有利に動いていきます。
重装歩兵のファランクス戦法の弱点は、前面以外の方向からの反撃に対応できないところにありました。軍隊がひとかたまりなので、陣形を変えるのに時間がかかるのです。
それを突いたタルクィニウスは、素早くローマ軍の後方にまわって奇襲をかけ、ローマの執政官も経験したことのある将軍を討ち取ったのです。
「よっしゃあ! 見たか若僧ども、ダテに戦争ばっかやってきたわけじゃないんじゃあ!」
「んだとぉ! じゃこっちも奇襲でぇ!!」
戦争上手なタルクィニウスでしたが、対する若いローマ軍も、戦場での対応は早かった。今度はローマ軍の大将だった独裁官(ディクタトル)・ポストゥミウスが、親衛隊の精鋭をタルクィニウス軍に潜入させ、タルクィニウスとともに軍隊を指揮していたトゥスクルム王国の王子を討ち取ってしまったのです。
「あっ、大変だぁ! おらが王国の王子様がおっ死んじまっただ!」
よそもののタルクィニウスよりもトゥスクルム軍の兵士にとって大事だった王子が殺されたことにより、タルクィニウスの軍は総崩れ。こうむった損害も大きかったものの、ローマ軍はからくもこの合戦でタルクィニウスを撃退することに成功したのです。
自らの力で「王」を捨てたローマの人々は、逆に「王」が強い影響力を持っていることを逆手にとった作戦でこの合戦に勝利したわけだったのです。反則スレスレだけど、かしこい!
さすがにここでの敗戦にガックリきたタルクィニウスは、翌年の紀元前495年に異国の地で死去。彼の引き起こした第1次ラティウム戦争も、紀元前493年にローマ共和国と周辺のエトルリア人国家との和睦という形でいったんは終息しました。
こうして当面の危機を脱することに成功したローマ共和国だったのですが、休む間もなく今度は、中から外から新たな問題が……
新生したローマの受難の時期は続きます。がんばれローマ、負けるなローマ!
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