クリスマス終わっちゃったー!! みなさまどうもこんばんは、そうだいでございます。
みなさまの住んでいらっしゃる土地は、もう寒くなりましたか? わたくしの住む山形市は、そりゃもう突然に今日から寒くなりまして! 今まではウンともスンとも言わなかったのに、当たり前のようにほぼ一日中雪がしんしんと降り続ける気候に変わってしまいました。いや、それでこそ東北という感じでちょっと安心している部分もあるんですが、やっぱ寒いのはイヤ~!! ホワイトクリスマスにならなかったのは少し残念でしたけど。
そうなんです、クリスマスもあっという間に過ぎてしまいまして、もはや気分は完全に年末! えっちらおっちら年賀状づくりにいそしまなければならないタイミングになってまいりました。気がつけば明日が私の職場の仕事納めだし。あさっては久しぶりに温泉に行くぞコノヤロー☆
そんな感じでうかれ気分で大忙しの今日この頃なのですが、昨日は今月2回目となる東京行きとしゃれこんでまいりました。今回は下剤飲んでません! 実に軽やかな気分ですね。
決して裕福なわけでもない、吝嗇家で出不精のわたくしめがどうしてそんなにしょっちゅう上京したのかといいますと、それは今月12月に入った2つの重大なイベントである城山羊の会さんの舞台公演と、その城山羊の会さんの主宰であらせられる山内ケンジさんの映画監督作品の公開が微妙にずれていたからなのでした。映画は渋谷の映画館で単館上映というかたちだったので(全国順次上映予定)、こっちも東京に行く必要があったのです。
というわけで、今回はゆるぎないメインイベントに映画鑑賞があったのですが、どうせ東京に行くんならということで、映画はその日最終回の夜7時半からの回を観ることにしまして、日中は東京近辺に住む大学時代の親友のみなさま方と集まることにいたしました。なんだかんだいっても私の山形暮らしは今年の2月から始まったばっかしですので、私にとっては波乱のひと言に尽きた今年を締めくくる前に、ぜひとも顔を出して「安心してください、生きてます!」という報告をしておきたかったのです。
そんなこんなで朝8時発の新幹線に乗った私は、お昼過ぎに東京某所で親友お3方と、お子様お3方と集まることとなりました。
親友の皆さんはまったく変わらずお元気そうだったのですが、お子様がたが0歳に2歳に4歳っていうことで、まぁ~集まるたんびに生まれてるわ大きくなるわしゃべりだすわ個性が出まくるわで! これはね、親友と会うことだってそりゃ楽しいわけですが、その成長を見て楽しむという意味で、お子さんがいるというのはとっても強力なモチベーションになるんですな! まだ素直なまんまだもんなぁ。かわいい盛りですよ。
結局、1時から6時くらいまで楽しい時間をあっという間に過ごしたのですが、親友のひとりが来年の初夏にいよいよ結婚式を挙げるという朗報もいただきまして、必ず近いうちにまた集まろうという確約をして解散しました。みなさん30代も半ばになりましたが、まだまだ幸せなニュースばかりでいっぱいなのはすばらしいことです。来年もそんな感じでいってほしいものですな!
さぁ、そんな稀に見るほんわか気分で渋谷にたどり着いたわたくしでしたが、予想はしていたものの、渋谷名物「人ごみごみ」は今日も山形人にキビしかった……まぁ~どこもかしこも人、人、人! 目指す映画館は駅からちょっと離れた場所にあったので、ごちゃごちゃな空気に私のうわついた気分もさーっとクールダウンしていき、実に落ち着いた心持ちで映画にのぞむことができました。ありがとう渋谷! 明確な用事がないかぎりあなたには近寄りません。なんであんなに人が集まってるんだろう……ちょっだ、やまがださもわげでけろ~!
映画『友だちのパパが好き JE SUIS FOLLE DU PAPA DE MA COPINE』(監督・山内ケンジ 2015年12月19日公開 105分 東京・渋谷ユーロスペース)
主なキャスティング
吉川 マヤ …… 安藤 輪子(23歳)
箱崎 恭介 …… 吹越 満(50歳)
恭介の娘・妙子 …… 岸井 ゆきの(23歳)
恭介の妻・ミドリ …… 石橋 けい(37歳)
恭介の愛人・生島 …… 平岩 紙(36歳)
高校教師・田所 …… 金子 岳憲(38歳)
妙子の彼氏・村井 …… 前原 瑞樹(23歳)
ミドリの同僚・川端 …… 宮崎 吐夢(45歳)
ミドリの同僚・野崎 …… 島田 桃依(33歳)
ミドリの上司・桑田 …… 岡部 たかし(43歳)
踏切の若者 …… 白石 直也(34歳)
ヘルパーの加藤さん …… 永井 若葉(38歳)
はい、そんなわけで観たのはこの映画だったんですけれども。
えぇ、『友だちのパパが好き』です。『007』でも『スターウォーズ』でもなく、『友だちのパパが好き』です。
いやぁもう、なんてったってみなさん、どうですか、この真心あふるるタイトル! 『友だちのパパが好き』ですよ? タイトルを読んだ時点であらすじ終了ですよ! 親切きわまりないねぇ~。高校球児なみに気持ちのいい直球どストレート!
2004年から演劇プロデュース集団「城山羊の会」の主宰&劇作家&演出家として活躍しておられる山内ケンジさんの映画監督作品としては、2011年12月公開の『ミツコ感覚』以来の第2作となるのですが、1980年代から CMディレクターとしての才をいかんなく発揮されてこられた山内さんの手になる長編映像作品なのですから、これは舞台公演とはまた異空間が展開されるに違いない!と、2011年の暮れに私は喜び勇んで『ミツコ感覚』を観るために新宿へと向かったものでした。
しかして、その期待は全く裏切られることはありませんでした。「ヘンなやつら」に満ち満ちたこの世界にもみくちゃにされ、自分のまいたトラブルの種の豊穣すぎるみのりの連続に酸欠状態になりクッタクタになりながらも、それでもゼロからまた歩き始めていこうと手を取り合う姉妹の「崩壊と再生の物語」として感動的な傑作となっていた『ミツコ感覚』に、私は非常に満ち足りた年末を送ることができたのでした。そこらへんの感想記は、当時の我が『長岡京エイリアン』の記事に残っております。
もう4年も前のことになるのか……2011年といえば、そりゃもう東日本に住む人々にとっては死ぬまで忘れられないようなムチャクチャな年だったわけで、その年末は、3月に比べれば関東あたりはいくらか落ち着いたとはいうものの、それでもこれからこの国がどうなるのかまったくわからないという不安と隣り合わせのまま、習慣だからいちおう浮かれてはみるという薄皮一枚の日常にうっすらと覆われた不気味な季節でございました。
ついでに言えば、私個人もその年に劇団員をやめたばかりで、ほぼ丸一年間、アルバイトをして食いつなぎながら、さてこれからなにをしていこうか……と、ヒマさえあれば意味なく横浜の京急線沿いとか東横線沿いをあてどもなくフラフラさまよう不審きわまりない生活を続けておりました。でも、全く生産性のない年ではあったんですけれども、そうやってぜいたくに1年間もの思いにふけることができたのは、現在の自分にとってかけがえのない財産になっています。
そんな年の締めくくりに観た『ミツコ感覚』は、あきらかに新しい年を迎える私にたいして「世界も未来もどうせムチャクチャなんだ、迷ってないでとにかく歩き出せ!!」という喝を与えてくれた作品だったのです。感謝の言葉もありません。
そんな名作を世に問うてくださった山内監督の最新作ということで、私の期待がいやがおうにも高まりに高まっていたことは間違いなく、さらにいえば、つい先日に観た城山羊の会さんの最新公演『水仙の花』もまぁ~おもしろかったということで、もはや私の心の中に勝手に構築された「期待値ハードル」は雲を衝く高さにまで達していたのでした。しかも、こちらには『水仙の花』に出演されなかった石橋けいさんが出演なされているとか! これで成層圏突入しました。
そして大緊張の観賞の結果は……おもしろくないわけがねぇ!! おもしろいもなにも、前作『ミツコ感覚』の2倍増しでおもしろかったです!
決して前作を貶めているつもりはないんだけどなぁ。どうして『友だちのパパが好き』は、そんなに前作と段違いにおもしろかったのだろうか。
それはたぶん、ひとつの物語を形作っていく「視点の数」が増えて、さらにはそれぞれの「深み」も遥かに掘り下げられていたからだったのではないのでしょうか。そして最も大事だったのは、それらが収斂されて実に山内監督らしい「ある視点からはハッピーエンド、ある視点からはどっちらけエンド」な結末を迎えていたからだったのでしょう。ある戦いが終わり、新たな人間関係が勝ち残ったことを明示するラストカットが用意されていたわけです。
『ミツコ感覚』でも、確かに劇的な展開は後半にあったのですが、それはあくまでも「姉と妹」という人間関係を暗黒の中で手探りで再確認する、当たり前だけど大事な作業のきっかけにとどまっていました。その意味で、『ミツコ感覚』は「壮大なプロローグ」に徹していたと、私は観たのです。しかし、今回の『友だちのパパが好き』は、同じくある登場人物たちの新たな生のプロローグにはなるのでしょうが、それ以上に作品自体が登場人物同士の生きざまと生きざまの火花散る闘いの記録になっていたわけなのです。
これはつまり、『ミツコ感覚』が「姉妹」の視点から枝分かれするように物語が進んでいったのに対して、『友だちのパパが好き』は「家族」の視点ももちろんありつつも、全く別の位置から発生した「トラブルメイカー」の視点も負けじと同時スタートで本編に組み込まれているという違いなのでしょう。その結果、1本の木の成長をつづる観察日記ではなく、木と木が争うように生い茂り、その枝と枝との絡み合いの中に全く異質な「鳥」がやってきて巣を作ってしまうような叙事詩となった、ということなのです。
鳥だ、鳥なのです! さすがは山内監督、だからテーマ曲はシューマンの『予言の鳥』だったのねぇ! 鳥は一体、木々にどのような世界の到来を予言したというのでしょうか。最後は包帯ぐるぐる巻きで飛べそうにも見えない痛々しさではありましたが、あの鳥はしぶといぞ~! 宿り木はもう、すぐ目の前に勝ち取っているのです。
たとえば、木という植物が、まぁ植物には目という感覚器官が無いのだとしても、空を飛ぶ動物の鳥という存在を感じたとき、それは全く自分とは相容れない生態を持った「ぜんぜん違う世界の生き物」だと理解するでしょう。
つまり、この『友だちのパパが好き』のキャッチコピーとなっている「純愛は、ヘンタイだ。」における「ヘンタイ」というものの存在は、その世界における「ふつうの人々」にとっては、まさに植物と鳥類くらいに性質のまったく異なるものなのでしょう。しかし、ふつうの人々とヘンタイが密接に絡み合って生きているのがこの世界の複雑さなのであり、お互いが結局はおんなじホモサピエンスなのであるという表裏一体の不安定さこそが、城山羊の会ワールドが醸し出す妙味の本質なのではないのでしょうか。そんな世界の複雑さを、むしろ楽しまずんばこれ如何と!!
通り一遍にこの物語を見てみますと、この作品における「ヘンタイ」とは、冒頭から結末にいたるまで恐ろしいまでに一貫して「友だちのパパが好き」という動機のみで周囲の人々を翻弄しまくって暴走しまくるマヤただ一人を指すかのように思えてしまうのですが、その首尾一貫かつ不純物いっさい無添加のドントルックバックな生き様には、観終わった後に拍手を送りたくなるような爽快感があり、多くの他の登場人物にとっては悪夢以外の何物でもないクライマックスにおけるマヤの笑顔も、彼女の迷いのないエネルギーの奔流が勝ち得た当然の勝利のように感じられるハッピーエンド色にいろどられています。
しかし、そういう気分になって作品を観終えたとき、私はふと思いいたってしまうのです。果たして、そんなマヤを「ヘンタイ」と異端視して良いのか? なぜ社会は、自分に正直な、別に法に触れているわけでもない「純愛」という生を謳歌する人間をヘンタイと言ってしまうのか?
この作品の中でマヤのことを「ヘンタイ!」と激しく糾弾するのは、もっぱらマヤの親友で恭介の娘である妙子なのですが、それは「自分の実の父親と友だちがセックス!?」という生理的嫌悪感も当然あるのでしょうが、物語の中で妙子が嫌悪しているものは、ヘンタイのマヤもさることながら、それ以上にそんなマヤの求愛を離婚した直後、というか離婚前から受け入れてしまう恭介の「動物っぽさ」であるような気がしてなりません。そして、それはとりもなおさず、ふつうの社会の中での「大学生の娘を持つ50歳前後の父親」という立場にどっしり20年ほど根を張っていたかのように見えた恭介という木が、身軽にパタパタとやってきたマヤという鳥のさえずりにのって、いきなりズボッと地面から根っこを抜いて、葉っぱが翼に変わって「じゃあね~。」と大空に飛翔していくかのような、まさしく世界が変わるかのような衝撃を妙子にもたらしたのでしょう。
パパがパパじゃなくなった!!……どころか、知り合いの彼氏に!? これはとてつもないショックだったことでしょう。
しかし、そこだけにとどまれば三角関係の中で起きた事件で済むわけなのですが、マヤのヘンタイとしての猛威はそこにとどまるものではありませんでした。それは、すでに離婚することを前提にしていた恭介の妻ミドリにとっても、離婚した後はまぁ恭介の後添いになるんだろうな、と自他ともに認める関係になっていた愛人の生島さんにとっても青天のカタストロフィ以外の何物でもない天変地異をもたらしたのです。生島さんにとってはつらすぎるだろう……自分も妊娠したし相手もやっと離婚してくれたっていうのに、若いとんびに油揚げかっさらわれっちゃったんだもの! なんだあのクソ鳥!!ってなもんですよ。
いっぽう、よくよく考えてみればどうせ他人同士になるんだから、恭介が誰と付き合おうがどうでもいいんじゃないの?と思えなくもない冷え切った関係になっている妻ミドリなのですが、こちらもまた恭介に対してハイさよならともいけない複雑な心理が働いているようでして、それはストレートに言ってしまえば、離婚することによって、金銭的な制約が発生することはあるにしても、どことなく自由な人生を謳歌できそうな雰囲気を身にまとってしまう恭介に対する、同世代の人間としての単純な嫉妬なのではないのでしょうか。
そこで効いてくるのが、セリフでは明確に言及されないにしても「離婚したら恭介が家を出て行く」という前提が家族の中ではっきりしているという事実なのでありまして、そりゃ家は残るんだからミドリと妙子の母娘にとって生活的には有利なのかもしれませんが、本編中で舞台背景として画面に映り込むミドリの家は、意図的に重苦しくて2人暮らしをするにはひたすら大きすぎて寒々しい「おもし」のように見えてならないのです。あの、離婚することが決まり切っている夫婦の冷たい会話の後ろに控える、蒼ざめた蛍光灯の下にさらされた膨大な食器の存在感ときたら……そんな陶器の白さに負けないくらいに、フェルメールの絵にでも出てきそうな蒼白さを帯びているミドリの横顔には、間もなく生島のもとに身軽に駆け寄って行くことになる恭介の動物性が非常にうらやましくねたましいものに見えたのではないのでしょうか。離婚するのが惜しいわけでなく、ただただ、ミドリという森から去っていく恭介の「足」が憎かったのではなかろうかと。
と同時に、大病を患った後でも、自分の「おんなとしての肉体」と、女でありたいという「動物性」はまだ確かに残っている、という事実にさいなまれるミドリの複雑な心境は、同僚の川端との「結局やっちゃうのかよ!」というぐずぐずの関係によく象徴されていたと感じました。この業の深さときたら……これは日ノ本広しといえども、石橋けいさんほど克明に演じ切られる女優さんはいないのではないのでしょうか。な、な、なんなんだ、よりによってあのタイミングであのパーツに流れた、あの「ひとすじの汗」は!? 興奮するとか感動するとか言葉で表現するのもおこがましくなる、思わず手を合わせたくなる気分になってしまいました。菩薩さまじゃ~!!
話を戻しまして、そのへんの「家」というアイテムの重苦しさは、前作『ミツコ感覚』でも暗示されていたものがあったと思うのですが、それに加えて、「家の重圧に無縁な男」という要素は、実は先日上演されたお芝居のほうの『水仙の花』でもほのめかされていました。
『友だちのパパが好き』でも『水仙の花』でも、父親を演じた吹越さん演ずる男が婿養子であると明言されることはなかったのですが、『友だちのパパが好き』では男が家を出て行くことは当然のように語られていましたし、『水仙の花』でも、亡くなった妻の持っていた不動産の処理を病院経営者である妻の妹夫婦が担当するといういきさつがそれとなく語られていました。つまり、経済的な側面から見れば、この映画とお芝居における男の立場はきわめて小さなものになっているのです。
しかし、その立場の小ささこそが、俳優の吹越満さんの妙な「家庭人じゃなさそうな雰囲気」と相まって、人間としてのフットワークの自由さに見えてしまうのが、両作品の隠れたミソなのではないのでしょうか。吹越さんは常に、周囲からなんとな~くねたましい視線で横目に見られ続けているのです。そこに映画でいうマヤとか、お芝居でいう映子のような、「真正面からすなおに自分を見つめてくれる存在」が現れてくれるのですから、それはもう落ちないわけがないという寸法なんですな。城山羊の会ワールドにおける男の主人公は常にラッキーでありロマンチストであり純情なのです。うらやましいったら、ありゃしねぇ! まぁ、その結果として恭介はクライマックスでヒドい目に遭うわけですが。
さて、ここで視点を物語でなく映像のほうに転じてみますと、今回の『友だちのパパが好き』は、全体的に「曇天」「白っぽい」「顔面蒼白」といった、純白とまではいいがたい不健康そうな「白さ」が、常に画面のどこかに横溢しているように見受けました。
特に「顔面蒼白」に関しては、離婚問題を無感情にささっと済ませようと努めるミドリ、唐突に両親の離婚に直面する妙子、マヤに一方的に縁を切られる彼氏の高校教師・田所、離婚はしたもののどうにも生島のもとへと走るふんぎりのつかない恭介、そしてその恭介の熱のなさに忸怩たる気分をおぼえる生島さんといった面々がかわりばんこに顔色を悪くしていくという「まっさおリレー」が続く印象があり、その中心でただマヤだけが純愛に胸をときめかせて紅顔をたもっているという、出てくる人たちの顔だけで日本の国旗ができそうな人間関係が構成されているのが素晴らしいと感じました。ヘンタイの異端性が、ここでも視覚的に明示されているのです。いや、平岩紙さんは基本的にどの役やっても白いんですけどね……
そうなのです、この顔面の色合いにおいて、ヘンタイであるはずのマヤは本作品における唯一無二の「太陽」とも言うべきエネルギーと暴虐さを兼ね備えた存在になっているわけなのです。あまねく登場人物はすべて、マヤに無視されて冷たい曇天の中を生きるのか、はたまたマヤの熱すぎる愛にさらされて身を焦がす苦難に襲われるのか、そのどちらかしか選べない運命にあるといっても過言ではないでしょう……いや、過言かな。
ところでそれに合わせて、山内監督の作品といえば、前作にもあったような「屋外の街路樹くらいの高さからの定点俯瞰ロングカットシーン」が名物となっていると私は勝手に楽しみにしておりまして、今回も曇天の中での団地のうらぶれた駐車場を背景にした、妙子を味方にしたマヤが田所にバサッと別れ話を持ちかける爆笑シーンでそのカメラワークはいかんなく発揮されていました。いや、爆笑するのはいかにも不謹慎なんですが……そりゃまぁ、笑っちゃうよねぇ。
『ミツコ感覚』でも効果的に挿入されていたこの定点俯瞰シーンは、城山羊の会さんの演劇の毒に満ちた空気を映画作品の中で再現するという長回しならではの効果があったかと思うのですが、今作ではそれに加えて、同じ長回しでも「夕暮れの接写撮影シーン」という手法が2ヶ所できわめて味わい深く使用されていたことがものすごく印象に残りました。
これは、生島が偶然に、線路の踏切で投身自殺しようとしていたところを若者に止められた田所に出会うシーンと、マヤと恭介の密会を執念く尾行していた田所が、これまた偶然に自分の母親の介護に来たヘルパーの加藤さんに出会うシーンで使われていたカメラワークで、それぞれで生島と田所に接近したカメラが、そこで彼女や彼が出会った人々とのやり取りを狭い視点で捉えるという映像になっています。
そして、この2シーンはどちらも時間帯が夕暮れになっていて、田所を救った若者も、田所に偶然出会ったヘルパーの加藤さんも、ちょっと表情がはっきり読み取れないくらいのギリギリの薄暗さの中で撮影されているのでした。全体的にうすぼんやりとしたオレンジ色の背景に包まれた中で、人々のやり取りがまるで影絵のように展開されているのです。
すれ違う相手の顔も定かでなくなる夕暮れ時とは……これぞまさに「逢魔が時」! 英語でいえばトワイライト!! トワイライトぞ~ん。
非常に古典的ですが、この時間帯のシーンに共通して登場した田所という人物が、この作品で最終的に果たした役割のことを考えれば、この2シーンに意図的に夕暮れ時を選んだ山内監督の、几帳面にも限度というものがある誠実きわまりないこだわりを感じずにはいられないのではないのでしょうか。なんとわかりやすい!
ただ、ここで確認しておきたいのは、マヤに無下に捨てられた田所が「魔」になったのではなく、線路の踏切で田所を救った若者や、ラブホテルの前で不審すぎる挙動を取っていた田所を見とがめた加藤さんという形をとって田所の生き方を大いに翻弄した「運の悪さ」こそが「魔」なのである、という山内監督の透徹すぎる照準の当て方なのです。線路の若者も加藤さんも、別に怪しい田所を笑おうとして接近したわけではないのに、その無償の善意がかえって田所を笑うしかないみじめさにおとしめてしまう……ここ! こここそが、山内ケンジさんの執拗に追いかけ続ける、笑いの本質的な恐ろしさなのではないのでしょうか。
映画を観たお客さんのあなた、この線路の若者も加藤さんも、やけに実力のある俳優さんをキャスティングしてるなと思いませんでした!? あんなに顔が見えてるかどうかもわかんないシーンだったのに……あれはつまり、そういうことだったんですね。前作『ミツコ感覚』であれほどに恐ろしい役を演じ切った永井若葉さんがやってたんだもの、そりゃただの通りすがりのチョイ役なわけがありませんって!
え~、そんなこんなをくっちゃべってるうちに、字数もはや1万字になんなんとする頃合いになってまいりましてェ。
この『友だちのパパが好き』に関しては、もっともっと切り込んでいきたい視点がいっぱいあるのですが、そろそろおひらきにしたいと思います。
ただ、最後にひとつだけ! この作品における「ヘンタイ」って一体なんなんだろうか、ということなんですね。
我々は果たして、愛する者を手に入れるためにすべてのエネルギーを投入する、そして愛する者のいない世界を予想して即座に死を決意する勇気を持ったマヤを「ヘンタイ」と断ずる権利があるのだろうか!? そのまっすぐで美しすぎる生き方の前には、「友だちのパパが好き」とか「離婚した直後の男を寝取る」とか「子どもは邪魔なだけだからいらない」といったマヤの選択は小さすぎる問題なのではなかろうか?
そしてそのいっぽう、本人に対してさえも「好き」と即座に言わず、結婚なんかするわけないと断言する彼氏との交際をだらだらと続ける妙子の恋愛観は果たして「ふつう」なのか? 妊娠した愛人がいるのに、離婚届を元妻が提出した当日なのにマヤとラブホテルに行ってしまう恭介は? 同じく仕事先の同僚に言い寄られるままに同衾してしまうミドリは? 本妻が病気に苦しんでいた時期から4年間も恭介とのただれた関係を続けていた生島は? 介護が必要な母親の行く末も案じずにマヤと恭介を追った田所は?
よくよく考えれば、主要な登場人物たちの中でふつうな人なんか1人もいないじゃないか! 実は、キャッチコピー「純愛は、ヘンタイだ。」は、どの人物から他のどの人物を見ても「ヘンタイ」に見えるという、万華鏡のような、あるいは映画『燃えよドラゴン』(1973年)のクライマックスでブルース=リーと総帥ハンが血みどろの死闘を繰り広げた使いづらいにもほどのある「鏡の間」のような、無間地獄の中で楽しく和気あいあいと行われるワルツの情景をさしていたのではないのでしょうか。
前作『ミツコ感覚』は、「あんたらとはやっとれんわ。」という姉妹の醒めきった表情で締めくくられていました。そして今作も、かようなヘンタイたちとの饗宴に呆れかえった母娘や愛人が「もうええわ。」と去っていくところでエンディングに……いきそうになったのでしたが、本当の最後のカットは、お互いのために生死の境をさまよって生還するという試練の果てに、当然の対価として愛する者を手にした2人の笑顔で終わったのです。
これはまさに、『友だちのパパが好き』が相方のしめの文句で終わる登場人物の少ない「漫才」のような小品ではなく、実に娯楽映画らしい恋人同士の笑顔で終わる完全無欠の「恋愛映画」であったことを如実に示す心意気だったのではないのでしょうか。
山内ケンジ監督……今回も、一年の締めにふさわしい作品を、本当にありがとうございました。2016年は、私もどストレートで王道をあゆむヘンタイでいく所存でございます!! 来年からもひとつ、どうぞよろしくお願いいたします。
余談ですが、私が観た回の映画館は前作に引き続いて野太い笑い声をガハハとあげる通っぽいおじさん客がメインだったのですが、ちゃんとマヤと妙子っぽい2人連れの若い女性客も観に来ていたのが印象的でした。そうそう、若い人もぜっひとも、この世界に早いうちから触れていただきたい!
そして、この国には石橋けいさんという、世界一顔色の悪いコンディションが似合う稀代の女優さんがおられることを知ってもらいたいのです!!
石橋さん、来年もどうぞ、すこやかに城山羊の会ワールドで不健康な状況におちいる役を演じてください。
不健康な身体で不健康なことは、できないもんねぇ。
みなさまの住んでいらっしゃる土地は、もう寒くなりましたか? わたくしの住む山形市は、そりゃもう突然に今日から寒くなりまして! 今まではウンともスンとも言わなかったのに、当たり前のようにほぼ一日中雪がしんしんと降り続ける気候に変わってしまいました。いや、それでこそ東北という感じでちょっと安心している部分もあるんですが、やっぱ寒いのはイヤ~!! ホワイトクリスマスにならなかったのは少し残念でしたけど。
そうなんです、クリスマスもあっという間に過ぎてしまいまして、もはや気分は完全に年末! えっちらおっちら年賀状づくりにいそしまなければならないタイミングになってまいりました。気がつけば明日が私の職場の仕事納めだし。あさっては久しぶりに温泉に行くぞコノヤロー☆
そんな感じでうかれ気分で大忙しの今日この頃なのですが、昨日は今月2回目となる東京行きとしゃれこんでまいりました。今回は下剤飲んでません! 実に軽やかな気分ですね。
決して裕福なわけでもない、吝嗇家で出不精のわたくしめがどうしてそんなにしょっちゅう上京したのかといいますと、それは今月12月に入った2つの重大なイベントである城山羊の会さんの舞台公演と、その城山羊の会さんの主宰であらせられる山内ケンジさんの映画監督作品の公開が微妙にずれていたからなのでした。映画は渋谷の映画館で単館上映というかたちだったので(全国順次上映予定)、こっちも東京に行く必要があったのです。
というわけで、今回はゆるぎないメインイベントに映画鑑賞があったのですが、どうせ東京に行くんならということで、映画はその日最終回の夜7時半からの回を観ることにしまして、日中は東京近辺に住む大学時代の親友のみなさま方と集まることにいたしました。なんだかんだいっても私の山形暮らしは今年の2月から始まったばっかしですので、私にとっては波乱のひと言に尽きた今年を締めくくる前に、ぜひとも顔を出して「安心してください、生きてます!」という報告をしておきたかったのです。
そんなこんなで朝8時発の新幹線に乗った私は、お昼過ぎに東京某所で親友お3方と、お子様お3方と集まることとなりました。
親友の皆さんはまったく変わらずお元気そうだったのですが、お子様がたが0歳に2歳に4歳っていうことで、まぁ~集まるたんびに生まれてるわ大きくなるわしゃべりだすわ個性が出まくるわで! これはね、親友と会うことだってそりゃ楽しいわけですが、その成長を見て楽しむという意味で、お子さんがいるというのはとっても強力なモチベーションになるんですな! まだ素直なまんまだもんなぁ。かわいい盛りですよ。
結局、1時から6時くらいまで楽しい時間をあっという間に過ごしたのですが、親友のひとりが来年の初夏にいよいよ結婚式を挙げるという朗報もいただきまして、必ず近いうちにまた集まろうという確約をして解散しました。みなさん30代も半ばになりましたが、まだまだ幸せなニュースばかりでいっぱいなのはすばらしいことです。来年もそんな感じでいってほしいものですな!
さぁ、そんな稀に見るほんわか気分で渋谷にたどり着いたわたくしでしたが、予想はしていたものの、渋谷名物「人ごみごみ」は今日も山形人にキビしかった……まぁ~どこもかしこも人、人、人! 目指す映画館は駅からちょっと離れた場所にあったので、ごちゃごちゃな空気に私のうわついた気分もさーっとクールダウンしていき、実に落ち着いた心持ちで映画にのぞむことができました。ありがとう渋谷! 明確な用事がないかぎりあなたには近寄りません。なんであんなに人が集まってるんだろう……ちょっだ、やまがださもわげでけろ~!
映画『友だちのパパが好き JE SUIS FOLLE DU PAPA DE MA COPINE』(監督・山内ケンジ 2015年12月19日公開 105分 東京・渋谷ユーロスペース)
主なキャスティング
吉川 マヤ …… 安藤 輪子(23歳)
箱崎 恭介 …… 吹越 満(50歳)
恭介の娘・妙子 …… 岸井 ゆきの(23歳)
恭介の妻・ミドリ …… 石橋 けい(37歳)
恭介の愛人・生島 …… 平岩 紙(36歳)
高校教師・田所 …… 金子 岳憲(38歳)
妙子の彼氏・村井 …… 前原 瑞樹(23歳)
ミドリの同僚・川端 …… 宮崎 吐夢(45歳)
ミドリの同僚・野崎 …… 島田 桃依(33歳)
ミドリの上司・桑田 …… 岡部 たかし(43歳)
踏切の若者 …… 白石 直也(34歳)
ヘルパーの加藤さん …… 永井 若葉(38歳)
はい、そんなわけで観たのはこの映画だったんですけれども。
えぇ、『友だちのパパが好き』です。『007』でも『スターウォーズ』でもなく、『友だちのパパが好き』です。
いやぁもう、なんてったってみなさん、どうですか、この真心あふるるタイトル! 『友だちのパパが好き』ですよ? タイトルを読んだ時点であらすじ終了ですよ! 親切きわまりないねぇ~。高校球児なみに気持ちのいい直球どストレート!
2004年から演劇プロデュース集団「城山羊の会」の主宰&劇作家&演出家として活躍しておられる山内ケンジさんの映画監督作品としては、2011年12月公開の『ミツコ感覚』以来の第2作となるのですが、1980年代から CMディレクターとしての才をいかんなく発揮されてこられた山内さんの手になる長編映像作品なのですから、これは舞台公演とはまた異空間が展開されるに違いない!と、2011年の暮れに私は喜び勇んで『ミツコ感覚』を観るために新宿へと向かったものでした。
しかして、その期待は全く裏切られることはありませんでした。「ヘンなやつら」に満ち満ちたこの世界にもみくちゃにされ、自分のまいたトラブルの種の豊穣すぎるみのりの連続に酸欠状態になりクッタクタになりながらも、それでもゼロからまた歩き始めていこうと手を取り合う姉妹の「崩壊と再生の物語」として感動的な傑作となっていた『ミツコ感覚』に、私は非常に満ち足りた年末を送ることができたのでした。そこらへんの感想記は、当時の我が『長岡京エイリアン』の記事に残っております。
もう4年も前のことになるのか……2011年といえば、そりゃもう東日本に住む人々にとっては死ぬまで忘れられないようなムチャクチャな年だったわけで、その年末は、3月に比べれば関東あたりはいくらか落ち着いたとはいうものの、それでもこれからこの国がどうなるのかまったくわからないという不安と隣り合わせのまま、習慣だからいちおう浮かれてはみるという薄皮一枚の日常にうっすらと覆われた不気味な季節でございました。
ついでに言えば、私個人もその年に劇団員をやめたばかりで、ほぼ丸一年間、アルバイトをして食いつなぎながら、さてこれからなにをしていこうか……と、ヒマさえあれば意味なく横浜の京急線沿いとか東横線沿いをあてどもなくフラフラさまよう不審きわまりない生活を続けておりました。でも、全く生産性のない年ではあったんですけれども、そうやってぜいたくに1年間もの思いにふけることができたのは、現在の自分にとってかけがえのない財産になっています。
そんな年の締めくくりに観た『ミツコ感覚』は、あきらかに新しい年を迎える私にたいして「世界も未来もどうせムチャクチャなんだ、迷ってないでとにかく歩き出せ!!」という喝を与えてくれた作品だったのです。感謝の言葉もありません。
そんな名作を世に問うてくださった山内監督の最新作ということで、私の期待がいやがおうにも高まりに高まっていたことは間違いなく、さらにいえば、つい先日に観た城山羊の会さんの最新公演『水仙の花』もまぁ~おもしろかったということで、もはや私の心の中に勝手に構築された「期待値ハードル」は雲を衝く高さにまで達していたのでした。しかも、こちらには『水仙の花』に出演されなかった石橋けいさんが出演なされているとか! これで成層圏突入しました。
そして大緊張の観賞の結果は……おもしろくないわけがねぇ!! おもしろいもなにも、前作『ミツコ感覚』の2倍増しでおもしろかったです!
決して前作を貶めているつもりはないんだけどなぁ。どうして『友だちのパパが好き』は、そんなに前作と段違いにおもしろかったのだろうか。
それはたぶん、ひとつの物語を形作っていく「視点の数」が増えて、さらにはそれぞれの「深み」も遥かに掘り下げられていたからだったのではないのでしょうか。そして最も大事だったのは、それらが収斂されて実に山内監督らしい「ある視点からはハッピーエンド、ある視点からはどっちらけエンド」な結末を迎えていたからだったのでしょう。ある戦いが終わり、新たな人間関係が勝ち残ったことを明示するラストカットが用意されていたわけです。
『ミツコ感覚』でも、確かに劇的な展開は後半にあったのですが、それはあくまでも「姉と妹」という人間関係を暗黒の中で手探りで再確認する、当たり前だけど大事な作業のきっかけにとどまっていました。その意味で、『ミツコ感覚』は「壮大なプロローグ」に徹していたと、私は観たのです。しかし、今回の『友だちのパパが好き』は、同じくある登場人物たちの新たな生のプロローグにはなるのでしょうが、それ以上に作品自体が登場人物同士の生きざまと生きざまの火花散る闘いの記録になっていたわけなのです。
これはつまり、『ミツコ感覚』が「姉妹」の視点から枝分かれするように物語が進んでいったのに対して、『友だちのパパが好き』は「家族」の視点ももちろんありつつも、全く別の位置から発生した「トラブルメイカー」の視点も負けじと同時スタートで本編に組み込まれているという違いなのでしょう。その結果、1本の木の成長をつづる観察日記ではなく、木と木が争うように生い茂り、その枝と枝との絡み合いの中に全く異質な「鳥」がやってきて巣を作ってしまうような叙事詩となった、ということなのです。
鳥だ、鳥なのです! さすがは山内監督、だからテーマ曲はシューマンの『予言の鳥』だったのねぇ! 鳥は一体、木々にどのような世界の到来を予言したというのでしょうか。最後は包帯ぐるぐる巻きで飛べそうにも見えない痛々しさではありましたが、あの鳥はしぶといぞ~! 宿り木はもう、すぐ目の前に勝ち取っているのです。
たとえば、木という植物が、まぁ植物には目という感覚器官が無いのだとしても、空を飛ぶ動物の鳥という存在を感じたとき、それは全く自分とは相容れない生態を持った「ぜんぜん違う世界の生き物」だと理解するでしょう。
つまり、この『友だちのパパが好き』のキャッチコピーとなっている「純愛は、ヘンタイだ。」における「ヘンタイ」というものの存在は、その世界における「ふつうの人々」にとっては、まさに植物と鳥類くらいに性質のまったく異なるものなのでしょう。しかし、ふつうの人々とヘンタイが密接に絡み合って生きているのがこの世界の複雑さなのであり、お互いが結局はおんなじホモサピエンスなのであるという表裏一体の不安定さこそが、城山羊の会ワールドが醸し出す妙味の本質なのではないのでしょうか。そんな世界の複雑さを、むしろ楽しまずんばこれ如何と!!
通り一遍にこの物語を見てみますと、この作品における「ヘンタイ」とは、冒頭から結末にいたるまで恐ろしいまでに一貫して「友だちのパパが好き」という動機のみで周囲の人々を翻弄しまくって暴走しまくるマヤただ一人を指すかのように思えてしまうのですが、その首尾一貫かつ不純物いっさい無添加のドントルックバックな生き様には、観終わった後に拍手を送りたくなるような爽快感があり、多くの他の登場人物にとっては悪夢以外の何物でもないクライマックスにおけるマヤの笑顔も、彼女の迷いのないエネルギーの奔流が勝ち得た当然の勝利のように感じられるハッピーエンド色にいろどられています。
しかし、そういう気分になって作品を観終えたとき、私はふと思いいたってしまうのです。果たして、そんなマヤを「ヘンタイ」と異端視して良いのか? なぜ社会は、自分に正直な、別に法に触れているわけでもない「純愛」という生を謳歌する人間をヘンタイと言ってしまうのか?
この作品の中でマヤのことを「ヘンタイ!」と激しく糾弾するのは、もっぱらマヤの親友で恭介の娘である妙子なのですが、それは「自分の実の父親と友だちがセックス!?」という生理的嫌悪感も当然あるのでしょうが、物語の中で妙子が嫌悪しているものは、ヘンタイのマヤもさることながら、それ以上にそんなマヤの求愛を離婚した直後、というか離婚前から受け入れてしまう恭介の「動物っぽさ」であるような気がしてなりません。そして、それはとりもなおさず、ふつうの社会の中での「大学生の娘を持つ50歳前後の父親」という立場にどっしり20年ほど根を張っていたかのように見えた恭介という木が、身軽にパタパタとやってきたマヤという鳥のさえずりにのって、いきなりズボッと地面から根っこを抜いて、葉っぱが翼に変わって「じゃあね~。」と大空に飛翔していくかのような、まさしく世界が変わるかのような衝撃を妙子にもたらしたのでしょう。
パパがパパじゃなくなった!!……どころか、知り合いの彼氏に!? これはとてつもないショックだったことでしょう。
しかし、そこだけにとどまれば三角関係の中で起きた事件で済むわけなのですが、マヤのヘンタイとしての猛威はそこにとどまるものではありませんでした。それは、すでに離婚することを前提にしていた恭介の妻ミドリにとっても、離婚した後はまぁ恭介の後添いになるんだろうな、と自他ともに認める関係になっていた愛人の生島さんにとっても青天のカタストロフィ以外の何物でもない天変地異をもたらしたのです。生島さんにとってはつらすぎるだろう……自分も妊娠したし相手もやっと離婚してくれたっていうのに、若いとんびに油揚げかっさらわれっちゃったんだもの! なんだあのクソ鳥!!ってなもんですよ。
いっぽう、よくよく考えてみればどうせ他人同士になるんだから、恭介が誰と付き合おうがどうでもいいんじゃないの?と思えなくもない冷え切った関係になっている妻ミドリなのですが、こちらもまた恭介に対してハイさよならともいけない複雑な心理が働いているようでして、それはストレートに言ってしまえば、離婚することによって、金銭的な制約が発生することはあるにしても、どことなく自由な人生を謳歌できそうな雰囲気を身にまとってしまう恭介に対する、同世代の人間としての単純な嫉妬なのではないのでしょうか。
そこで効いてくるのが、セリフでは明確に言及されないにしても「離婚したら恭介が家を出て行く」という前提が家族の中ではっきりしているという事実なのでありまして、そりゃ家は残るんだからミドリと妙子の母娘にとって生活的には有利なのかもしれませんが、本編中で舞台背景として画面に映り込むミドリの家は、意図的に重苦しくて2人暮らしをするにはひたすら大きすぎて寒々しい「おもし」のように見えてならないのです。あの、離婚することが決まり切っている夫婦の冷たい会話の後ろに控える、蒼ざめた蛍光灯の下にさらされた膨大な食器の存在感ときたら……そんな陶器の白さに負けないくらいに、フェルメールの絵にでも出てきそうな蒼白さを帯びているミドリの横顔には、間もなく生島のもとに身軽に駆け寄って行くことになる恭介の動物性が非常にうらやましくねたましいものに見えたのではないのでしょうか。離婚するのが惜しいわけでなく、ただただ、ミドリという森から去っていく恭介の「足」が憎かったのではなかろうかと。
と同時に、大病を患った後でも、自分の「おんなとしての肉体」と、女でありたいという「動物性」はまだ確かに残っている、という事実にさいなまれるミドリの複雑な心境は、同僚の川端との「結局やっちゃうのかよ!」というぐずぐずの関係によく象徴されていたと感じました。この業の深さときたら……これは日ノ本広しといえども、石橋けいさんほど克明に演じ切られる女優さんはいないのではないのでしょうか。な、な、なんなんだ、よりによってあのタイミングであのパーツに流れた、あの「ひとすじの汗」は!? 興奮するとか感動するとか言葉で表現するのもおこがましくなる、思わず手を合わせたくなる気分になってしまいました。菩薩さまじゃ~!!
話を戻しまして、そのへんの「家」というアイテムの重苦しさは、前作『ミツコ感覚』でも暗示されていたものがあったと思うのですが、それに加えて、「家の重圧に無縁な男」という要素は、実は先日上演されたお芝居のほうの『水仙の花』でもほのめかされていました。
『友だちのパパが好き』でも『水仙の花』でも、父親を演じた吹越さん演ずる男が婿養子であると明言されることはなかったのですが、『友だちのパパが好き』では男が家を出て行くことは当然のように語られていましたし、『水仙の花』でも、亡くなった妻の持っていた不動産の処理を病院経営者である妻の妹夫婦が担当するといういきさつがそれとなく語られていました。つまり、経済的な側面から見れば、この映画とお芝居における男の立場はきわめて小さなものになっているのです。
しかし、その立場の小ささこそが、俳優の吹越満さんの妙な「家庭人じゃなさそうな雰囲気」と相まって、人間としてのフットワークの自由さに見えてしまうのが、両作品の隠れたミソなのではないのでしょうか。吹越さんは常に、周囲からなんとな~くねたましい視線で横目に見られ続けているのです。そこに映画でいうマヤとか、お芝居でいう映子のような、「真正面からすなおに自分を見つめてくれる存在」が現れてくれるのですから、それはもう落ちないわけがないという寸法なんですな。城山羊の会ワールドにおける男の主人公は常にラッキーでありロマンチストであり純情なのです。うらやましいったら、ありゃしねぇ! まぁ、その結果として恭介はクライマックスでヒドい目に遭うわけですが。
さて、ここで視点を物語でなく映像のほうに転じてみますと、今回の『友だちのパパが好き』は、全体的に「曇天」「白っぽい」「顔面蒼白」といった、純白とまではいいがたい不健康そうな「白さ」が、常に画面のどこかに横溢しているように見受けました。
特に「顔面蒼白」に関しては、離婚問題を無感情にささっと済ませようと努めるミドリ、唐突に両親の離婚に直面する妙子、マヤに一方的に縁を切られる彼氏の高校教師・田所、離婚はしたもののどうにも生島のもとへと走るふんぎりのつかない恭介、そしてその恭介の熱のなさに忸怩たる気分をおぼえる生島さんといった面々がかわりばんこに顔色を悪くしていくという「まっさおリレー」が続く印象があり、その中心でただマヤだけが純愛に胸をときめかせて紅顔をたもっているという、出てくる人たちの顔だけで日本の国旗ができそうな人間関係が構成されているのが素晴らしいと感じました。ヘンタイの異端性が、ここでも視覚的に明示されているのです。いや、平岩紙さんは基本的にどの役やっても白いんですけどね……
そうなのです、この顔面の色合いにおいて、ヘンタイであるはずのマヤは本作品における唯一無二の「太陽」とも言うべきエネルギーと暴虐さを兼ね備えた存在になっているわけなのです。あまねく登場人物はすべて、マヤに無視されて冷たい曇天の中を生きるのか、はたまたマヤの熱すぎる愛にさらされて身を焦がす苦難に襲われるのか、そのどちらかしか選べない運命にあるといっても過言ではないでしょう……いや、過言かな。
ところでそれに合わせて、山内監督の作品といえば、前作にもあったような「屋外の街路樹くらいの高さからの定点俯瞰ロングカットシーン」が名物となっていると私は勝手に楽しみにしておりまして、今回も曇天の中での団地のうらぶれた駐車場を背景にした、妙子を味方にしたマヤが田所にバサッと別れ話を持ちかける爆笑シーンでそのカメラワークはいかんなく発揮されていました。いや、爆笑するのはいかにも不謹慎なんですが……そりゃまぁ、笑っちゃうよねぇ。
『ミツコ感覚』でも効果的に挿入されていたこの定点俯瞰シーンは、城山羊の会さんの演劇の毒に満ちた空気を映画作品の中で再現するという長回しならではの効果があったかと思うのですが、今作ではそれに加えて、同じ長回しでも「夕暮れの接写撮影シーン」という手法が2ヶ所できわめて味わい深く使用されていたことがものすごく印象に残りました。
これは、生島が偶然に、線路の踏切で投身自殺しようとしていたところを若者に止められた田所に出会うシーンと、マヤと恭介の密会を執念く尾行していた田所が、これまた偶然に自分の母親の介護に来たヘルパーの加藤さんに出会うシーンで使われていたカメラワークで、それぞれで生島と田所に接近したカメラが、そこで彼女や彼が出会った人々とのやり取りを狭い視点で捉えるという映像になっています。
そして、この2シーンはどちらも時間帯が夕暮れになっていて、田所を救った若者も、田所に偶然出会ったヘルパーの加藤さんも、ちょっと表情がはっきり読み取れないくらいのギリギリの薄暗さの中で撮影されているのでした。全体的にうすぼんやりとしたオレンジ色の背景に包まれた中で、人々のやり取りがまるで影絵のように展開されているのです。
すれ違う相手の顔も定かでなくなる夕暮れ時とは……これぞまさに「逢魔が時」! 英語でいえばトワイライト!! トワイライトぞ~ん。
非常に古典的ですが、この時間帯のシーンに共通して登場した田所という人物が、この作品で最終的に果たした役割のことを考えれば、この2シーンに意図的に夕暮れ時を選んだ山内監督の、几帳面にも限度というものがある誠実きわまりないこだわりを感じずにはいられないのではないのでしょうか。なんとわかりやすい!
ただ、ここで確認しておきたいのは、マヤに無下に捨てられた田所が「魔」になったのではなく、線路の踏切で田所を救った若者や、ラブホテルの前で不審すぎる挙動を取っていた田所を見とがめた加藤さんという形をとって田所の生き方を大いに翻弄した「運の悪さ」こそが「魔」なのである、という山内監督の透徹すぎる照準の当て方なのです。線路の若者も加藤さんも、別に怪しい田所を笑おうとして接近したわけではないのに、その無償の善意がかえって田所を笑うしかないみじめさにおとしめてしまう……ここ! こここそが、山内ケンジさんの執拗に追いかけ続ける、笑いの本質的な恐ろしさなのではないのでしょうか。
映画を観たお客さんのあなた、この線路の若者も加藤さんも、やけに実力のある俳優さんをキャスティングしてるなと思いませんでした!? あんなに顔が見えてるかどうかもわかんないシーンだったのに……あれはつまり、そういうことだったんですね。前作『ミツコ感覚』であれほどに恐ろしい役を演じ切った永井若葉さんがやってたんだもの、そりゃただの通りすがりのチョイ役なわけがありませんって!
え~、そんなこんなをくっちゃべってるうちに、字数もはや1万字になんなんとする頃合いになってまいりましてェ。
この『友だちのパパが好き』に関しては、もっともっと切り込んでいきたい視点がいっぱいあるのですが、そろそろおひらきにしたいと思います。
ただ、最後にひとつだけ! この作品における「ヘンタイ」って一体なんなんだろうか、ということなんですね。
我々は果たして、愛する者を手に入れるためにすべてのエネルギーを投入する、そして愛する者のいない世界を予想して即座に死を決意する勇気を持ったマヤを「ヘンタイ」と断ずる権利があるのだろうか!? そのまっすぐで美しすぎる生き方の前には、「友だちのパパが好き」とか「離婚した直後の男を寝取る」とか「子どもは邪魔なだけだからいらない」といったマヤの選択は小さすぎる問題なのではなかろうか?
そしてそのいっぽう、本人に対してさえも「好き」と即座に言わず、結婚なんかするわけないと断言する彼氏との交際をだらだらと続ける妙子の恋愛観は果たして「ふつう」なのか? 妊娠した愛人がいるのに、離婚届を元妻が提出した当日なのにマヤとラブホテルに行ってしまう恭介は? 同じく仕事先の同僚に言い寄られるままに同衾してしまうミドリは? 本妻が病気に苦しんでいた時期から4年間も恭介とのただれた関係を続けていた生島は? 介護が必要な母親の行く末も案じずにマヤと恭介を追った田所は?
よくよく考えれば、主要な登場人物たちの中でふつうな人なんか1人もいないじゃないか! 実は、キャッチコピー「純愛は、ヘンタイだ。」は、どの人物から他のどの人物を見ても「ヘンタイ」に見えるという、万華鏡のような、あるいは映画『燃えよドラゴン』(1973年)のクライマックスでブルース=リーと総帥ハンが血みどろの死闘を繰り広げた使いづらいにもほどのある「鏡の間」のような、無間地獄の中で楽しく和気あいあいと行われるワルツの情景をさしていたのではないのでしょうか。
前作『ミツコ感覚』は、「あんたらとはやっとれんわ。」という姉妹の醒めきった表情で締めくくられていました。そして今作も、かようなヘンタイたちとの饗宴に呆れかえった母娘や愛人が「もうええわ。」と去っていくところでエンディングに……いきそうになったのでしたが、本当の最後のカットは、お互いのために生死の境をさまよって生還するという試練の果てに、当然の対価として愛する者を手にした2人の笑顔で終わったのです。
これはまさに、『友だちのパパが好き』が相方のしめの文句で終わる登場人物の少ない「漫才」のような小品ではなく、実に娯楽映画らしい恋人同士の笑顔で終わる完全無欠の「恋愛映画」であったことを如実に示す心意気だったのではないのでしょうか。
山内ケンジ監督……今回も、一年の締めにふさわしい作品を、本当にありがとうございました。2016年は、私もどストレートで王道をあゆむヘンタイでいく所存でございます!! 来年からもひとつ、どうぞよろしくお願いいたします。
余談ですが、私が観た回の映画館は前作に引き続いて野太い笑い声をガハハとあげる通っぽいおじさん客がメインだったのですが、ちゃんとマヤと妙子っぽい2人連れの若い女性客も観に来ていたのが印象的でした。そうそう、若い人もぜっひとも、この世界に早いうちから触れていただきたい!
そして、この国には石橋けいさんという、世界一顔色の悪いコンディションが似合う稀代の女優さんがおられることを知ってもらいたいのです!!
石橋さん、来年もどうぞ、すこやかに城山羊の会ワールドで不健康な状況におちいる役を演じてください。
不健康な身体で不健康なことは、できないもんねぇ。
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