長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第11回「備前国 岡山城」 こわすぎる殿様とイケメンすぎる殿様のおはなし

2012年03月28日 22時23分59秒 | 全国城めぐり宣言
 たいへんだ!! 春が近いぞぉ~! どうもこんばんは、今日も一日お疲れさまでした。そうだいでございます~。
 いよいよあたたかくなってきましたねぇ。通り雨もたいしたことはなく、明日以降も晴天が続くみたいですから、ここで一気に春到来となるのでしょうか? もう気がつけば3月も終わりですよ。いろいろ楽しい月になってよかったなぁ。

 今日、知り合いと話をしていた中で、最近ニンテンドーDS で『ポケモン+ノブナガの野望』という驚異のコラボゲームが発売されて売り上げ17万本の大ヒットとなっていることをいまさら知ってしまいました。たぶんこれ、TV でCM バンバンやってるんですよね……本当にいまさら!

 なるほどね~。確かに聞けば聞くほど、今までなかったことが不思議に思えてしまうくらいに相性のいいコラボです。
 考えてみると、『無双』だの『BASARA 』だのでさんざんものすごいことになっていた歴史上の人物の皆様なのですから、今になって「ポケモンを使役できるようになった。」と言われても、まぁそのくらいのことにはなるか、って感じですよね。
 内容も実在の人物がほんとに登場するのではなくて、あくまでも「ランセ地方」という架空の世界で群雄割拠している「ブショー」たちといったフィクション設定になっているのだそうです。

 そんなゲームの話を聞いて、私は一も二もなく「足利義昭は出てくるの? 松ちゃん(松永久秀)は? ミーちゃん(三好長慶)は? この人たちが出るんだったら俺もDS 本体ごと買うよ!!」と、鼻息を荒くして反応したのですが、実際に現在ゲームをプレイしている知り合いは冷静に「いや、出てこないんじゃないですか……島津義弘とか上杉謙信とかほんとにメジャーな人でしかプレイできないし、大友宗麟レベルでモブキャラ扱いになってる状態ですからね。」と答えてくれました。
 なんということか……まだまだ夜明けは遠いですね。でも、ほんとに織田信長家臣団はこういったゲームでは優遇されるよねぇ~!! まぁ『信長の野望』なんですから当然ですけど。
 ゲームに夢中になるかどうかは別としても、こういった作品にエントリーされる武将たちのラインナップを見て、現在人気を集めている方々の傾向みたいなものを読むのは楽しいですね。去年の大河ドラマの内容がいろいろ物議をかもしましたが、なんだかんだいっても今は「女性の時代」なんだなぁ、ということを『ポケモン+ノブナガの野望』も感じさせてくれますね。戸次千代(べつき ぎんちよ)が前面に押し出されているゲームを子供たちが喜々としてプレイしている時代!! すばらしいですね~!


 さぁさぁ、今月ももうすぐおしまいなんで、3月最大のトピックとなった私の「岡山城探訪ツアー」もちゃっちゃと進めていきましょう! 桜もいいかげんに咲いちゃいますよぉ~。

 現在そびえ立っている岡山城天守閣は、1966年に再建されたコンクリート造りの「2代目」なのですが、全国の再建天守のご他聞にもれず建物内部は博物館になっています。六階建ての博物館!
 私が行った期間は春季特別展として「城の攻めと守り・武具が物語る武家社会の本質」といった展示が開催されていたため、入館料はいつもより多少高い800円になっていました。この特集は5月6日までやっているようですね。
 でも、この展示は良かったですね! タイトルの通り、「城郭を攻めるさいに必要になる武器」が中心になっていたため、対人というよりは対建造物といった仕様の巨大火縄銃「大筒(おおづつ)」や、城側からの火縄銃射撃に耐えながら進撃するための「鉄盾」(機動隊のジュラルミンの盾のような鉄板を2枚つなげて“く”の形にしたもの)、射撃して落下した地点で激しく炎上する作りになっている和製グレネードランチャー「焙烙火矢(ほうろくびや)」などといった、よくある普通の甲冑や日本刀がメインの展示では見られないようなものが間近で観察できたことは非常にいい収穫でした。

 この特別展示を別にしても、最上階の第6階から360°みわたす備前国の眺望は実に最高でしたねぇ~。丘の上の石垣のさらに上に20m の天守閣がたっているわけなので、山以外はほんとに周囲にさえぎるものがありません。高層ビルなんていう野暮なものはないんですね。すばらしい!
 あと、私が入館したのは開館直後の午前9時半だったのですが、まだほとんど他のお客さんがいなかった状態で最上階にのぼった時に、モスグリーンの作業服を着てモップを持ったおばさんが「はい、おはようさ~ん。」とフランクに声をかけてきてくださったことも地味に味わい深かったです。これは関東にはないサービスだ。

 天守閣博物館は当然ながら「岡山城の歴史」を詳細にひもといた常設展示も充実しており、俳優さんによる再現シーンと力のこもったナレーションで送られる物語じたての映像資料「岡山城物語」も鑑賞することができました。

 そういったつらつらを眺めていると、岡山城という建物というか土地が、実に波乱万丈な歴史をあゆんでいたことがよくわかります。戦国、桃山、江戸と、時代によってその性質と表情がまるで違っているんですね。これをロマンと言わずして一体なんと言うのでしょうか。


 まず、岡山城の原型となる城砦(じょうさい)が最初に日本の歴史の中に登場したのは、現在わかっているかぎりでは、南北朝時代の正平年間(1346~69年)に南朝方の武将・上神高直(うわがみ たかなお)の居城「石山城」としてでした。高直さんは中国地方を拠点としていた南朝の重臣・名和長年(なわ ながとし)の一族だったそうなのですが、敵の北朝方、つまりは足利幕府軍に攻められて石山城をまくらに討死されました。初登場から落城ですか……ほろ苦いデビュー!

 この上神時代の石山城は、その名の通りに岡山城本丸の土台となった丘「岡山」から300m ほど西にズレた場所にあった丘「石山」に建造されていたお城でした。石山だった地区は現在は岡山県庁や県立美術館がたっており、それ以前に開発されて岡山城二ノ丸ができていたため、丘だった痕跡はそうとう薄いものになっています。そう言われれば気持ち高くなっているか、みたいな?

 この岡山市北部の地域には、旭川の西岸に西から見て「岡山」「石山」「天神山」と3つの丘が並んでおり、それらをぜんぶまとめてひとつの城郭にしたのが「のちの岡山城」ということになるんですね。ちなみに、西端の天神山は岡山城の西ノ丸にあたる区域だったのですが、同じ岡山県でも、岡山市から見て北東にある和気郡の有名な「天神山城」とは別の土地ですので気をつけましょう。『信長の野望』とかで出てくる天神山城は和気のほうですね。

 上神高直の死後の石山城の動向はしばらく不明となってしまうのですが、もともと平安時代の昔から大河「旭川」を運行する船の停泊港(海じゃないけど)として栄えていた土地だったため、おそらくは室町時代に山陽地方を支配していた名族「赤松家」(幕府の四職のひとつ 名前聞いただけでテンションあがるなぁ!)の管轄にあったようです。重要なポイントだったんですねぇ。

 室町時代がすぎて戦国乱世の世に入ると、この土地は足利幕府の束縛をうけない在地の有力国人・松田家の手に入っており、石山城の主は松田家の重臣・金光宗高(かなみつ むねたか)となっていました。上神時代からの城域なのかは不明なのですが、この時期には石山城はすでに3つの丘を利用したものになっていたようです。

 そしてこの石山城に、岡山城の歴史を語る上で欠かすことのできない、「戦国時代」を絵にかいたような恐るべき人物が襲来することとなります。

 その名は、宇喜多直家(うきた なおいえ 1529~82年)!!

 このお方は、「戦国三大梟雄(きょうゆう)」と「戦国中国三大謀将(ぼうしょう)」のどちらにもエントリーされているという恐怖の戦国大名です……梟雄とか謀将とか、意味はよくわからなくても字ヅラからしておっそろしいですねぇ。ちなみに、「三大梟雄」の他は松永久秀と斎藤道三、「三大謀将」の他は尼子経久と毛利元就です。メンツが血なまぐさい。

 詳しい業績は長くなるので割愛しますが、直家さんは幼少期に「祖父の討死のために居城を失い、父とともに流浪している」という過酷なトラウマをかかえており、そのせいというのはあまりにも安直なのですが、暗殺と謀略と戦争を大得意とする「戦国の申し子」としか言いようのない人物に成長してしまいました。これは『ポケモン』ではメインはれねぇわ! 顔は出してるみたいですけど。

 彼が部下として仕えたのは、そのころ山陽地方を代表する戦国大名として備前国を中心に覇を唱えていた浦上宗景(うらがみ むねかげ)。この人も実に戦国らしいキャラクターで、「室町時代以来のご主人様だった赤松家を下克上で蹴散らした兄貴の浦上政宗をそのまた下克上で蹴散らして大名になる」という経歴を持っています。
 そして、そんな主人の宗景をそのまたまた下克上で蹴散らしたのが直家さんだったと。もう何回下克上するんでしょうか。

 時は元亀元(1570)年。その当時はまだ宗景の家来という立場だったのですが、祖父のかたき(島村盛実)やら、自分の嫁さんの父親(中山信正)やら妹のダンナ(穝所元常)らをバッタバタ血祭りにあげて勢力を拡大してきた直家は、ついにこれまた謀略で金光宗高を切腹させて石山城を手中に収めることとなりました。ついでにいうと、あわれな宗高さんの主人だった国人の松田元輝は、すでにその2年前に直家によって滅ぼされています。その松田さんだって、自分の息子と直家さんの娘とが結婚している「義理の兄弟」の関係にあったんですからね……
 いくら戦国の世とはいえ、なんなんでしょうか、この透徹した悪の美学。めでたいはずの身内の婚姻を「敵を油断させるための作戦」としかとらえていないふしがあります。こんなもん、宇喜多家と親戚関係になった時点で死亡フラグ点灯ですよ。

 直家さん、こわすぎ!! 『キル・ビル』のルーシー=リューかあんたは。
 直家さんには、実の弟の宇喜多忠家(ただいえ)という非常に優秀な腹心がいたのですが、その弟でさえ、「兄と会う時にはつねに『もしものこと』を考えて鎖かたびらを着用していた。」という逸話が残っています。なに、その兄弟!?
 大河ドラマの主人公には絶対になれないだろうけど、宇喜多直家が主人公のドラマは、いい役者さんがやったらとてつもない名作になりますよ~。
 日本の俳優さんではなかなか思いつかないですけど、ハリウッドだったらエドワード=ノートンかケヴィン=スペイシーにやってもらいたいですね、宇喜多直家。そうなったら、彼を恐れながらもついていく忠家の役はジェイク=ギレンホールあたりかな。ミスター不安顔。

 ところで、これはただ単に印象だけなんですけれども、直家さんのえじきになった方々の中には、信心深くて領民から「いいひと。」と慕われていた領主が多いような気がします。つまり、もともと人のいい土地柄だったからこそ直家さんの独擅場になったんじゃないでしょうか。これが当時の京だったら、直家さんも果たしてここまでうまくいったかどうか……まず、そのころの京には松ちゃんがいるし。戦国、こわ~い!!

 こういったキャリアなので、人間性のかけらもないトカゲかホオジロザメのような印象のある直家さんだったのですが、彼もまた領主としての眼には確かなものがあったらしく、石山城を占拠した3年後の天正元(1573年)に自身の本拠地をそこにうつし、城下に商人を大々的にまねいて備前国の商業的な利益を集中させる城下町を形成。その勢いに乗って主人の浦上宗景を駆逐し、備前国はおろか、周辺の備中・美作(みまさか)国をも統括する戦国大名になりました。言うまでもなく、「備前・備中・美作」は現在の岡山県を構成している領域です。

 つまり、宇喜多直家は最初に「岡山市」と「岡山県」の原型をつくったパイオニアだったのです。重要ですね~。

 ただし、この時点でも直家の住んでいた城は石山を中核にした旧来どおりのきわめてローカルなものでした。現在の岡山城本丸公園の地下にも直家時代の城跡はあるわけですが、発掘調査によると石垣のようなものはまだなく、戦国時代中期までのメインとなっていた「土塁」を活用したものだったそうです。それは確かにその通りで、まずは「良質な石材を確保して安全に搬送できる輸送ルートと財力」がなければ石垣のお城なんてつくれませんから。いかな戦国大名といへども、直家さんにその余裕はまだなかったと。

 余裕がないといえば、実は直家さんには自身のライフの余裕もなく、あの「本能寺の変」も半年後にさしせまった天正九(1581)年の年末に53歳という年齢で病没してしまいます(その死は翌年の正月明けまで公表されなかった)。
 まぁ、「人生五十年」といわれていた時代のことですからそれほど若死にだったとも言えないのですが、彼の最大の心残りとなったものは、やはりなんといっても一人息子の秀家くん(10歳)だったのではないかと。

 直家さんは女の子にはめぐまれたのですが男子は秀家くんしかおらず(直家の子でない義理の息子はいた)、宇喜多家も「東の織田信長」と「西の毛利元就」にはさまれて絶体絶命のところに立たされていたのです。直家さんの存命中に宇喜多家は「織田家に従属する」という選択肢をとったのですが、そのために激化してしまった毛利家との戦闘により、秀家くんをバックアップするはずだった従兄弟の宇喜多基家(直家の甥)も、直家さんの死の1ヵ月後に討死するというギリギリの状況になっていました。

 さぁ、そこにさっそうと現れたのが!! 他ならぬ「未来の天下人」こと織田家中国方面軍司令官の羽柴秀吉だったというわけ。

 残された命をふりしぼって宇喜多家の命運をあなたに預けますと直家に懇請された秀吉は、幼い秀家くんの将来はそれがしにまかせなさいと快諾し、以来、秀家くんは常に秀吉軍団の天下統一の中核に位置するルーキーとしてすくすく成長していくこととなります。
 しかし、あれほどまでに他人を信頼することを否定し続けていた直家さんが、自身の人生の終焉を迎えるにあたって、出会ったばかりの秀吉に無条件でなりふり構わずにわが子の将来を頼みこむとは……晩年の直家さんの脳裏に去来した感情は、一体どういった味わいのものだったのでしょうか。

 さて、個人的にそうとう秀吉に気に入られたと見える秀家くんは、なんと秀吉の無二の盟友である名将・前田利家の四女で秀吉の養女だった豪姫(ごうひめ 去年の大河ドラマの主人公だった「ごうひめ」とは別人)を正妻にめとり、「豊臣秀吉と前田利家の義理の息子」というとてつもない待遇を受けることとなります。なんたるラッキーボーイ!!
 ただ、ここまでの秀吉の優遇にはある裏の事情があったとも言われており、秀家くんの実の母親、つまりは直家さんの後妻だった「備前の方」こと「円融院」という未亡人(本名は不詳)の魅力に秀吉がメロメロになったからなんだとも言われておりまして……そこは「おとことおんな」の話ですから、余人には推察しかできない世界ですよねぇ。
 さきほどに言った天守閣博物館内の映像「岡山城物語」の語り手はこの円融院さんだったのですが、直接そうは言わないものの、そういった雰囲気を濃厚にただよわせた「秀吉評」を口にしていたのが実に印象的でした。「あぁ~……あそこ、そういうことになってんだ。」みたいな。
 そういえば、宇喜多秀家という人物は肖像画でも非常に目鼻立ちのはっきりしたイケメンに描かれており、身長もあの時代で170cm ほどもある「非のうちどころのない」貴公子そのもののお姿だったそうです。
 だとしたら、そのお母様も……肖像は残っていませんが、そ~と~の美人さんだったんじゃないんでしょうかね!? 秀吉コノヤロ~。

 ともかく、秀吉の天下統一のためにつかの間の平和がやってきたわけなのですが、そこで「豊臣一族のプリンス」ともなった秀家くんが着手したのが「居城の大改築」。
 秀家くんはすでに15歳になった時点で京の朝廷から「参議(さんぎ)」という官位を受けており、これは非常に乱暴にたとえるのならば、現代の「内閣閣僚」くらいのバリ高ポストです。
 この参議職の中国風の呼び方が「宰相」だったため、「備前宰相」といういかめしい別名を持つようにもなった秀家くんは、その威光にふさわしい総石垣づくりの最新鋭の大城郭と天守閣を建造する必要にせまられたというわけだったのです。

 そこで! 旧来の「石山」にかわって新しい中核部分となったのがその東側にある「岡山」だったと。
 この「新城郭プラン」ともいえる縄張り案には、秀吉その人のアドバイスもあったと言われているのですが、秀家くんはここにきて初めて「岡山に本丸を持つ城を建造する」という大改築を実行し、本丸の西側と南側には人工の水堀をめぐらせ、北から東にかけてはなんと大規模な掘削工事で旭川を拡張させてひきよせ天然の堀にするという、「四方を水でまもった小高い丘の平山城」としての新生「岡山城」を完成させたというわけだったのです。というか、それまでは「石山城」だったわけですから、正式にこのお城が「岡山城」と呼ばれるようになったのはこの秀家時代が最初だったんですね。
 驚くべきことに、このときの旭川の掘削工事で生まれた土砂を積んで岡山城本丸の「中段」の大部分と「本段」はつきあげられたのだとか! 地形、変えるよねぇ~!! 天下にその名をとどろかせる名城をつくりたいという秀家くんの気合いが伝わってきます。

 さまざまな大改装のほどこされた岡山城だったわけですが、なんといっても特筆すべきなのは前回にもさんざんベタぼめした「漆黒の天守閣」ですね! 現在あるのは2代目だとはいえ、あの美しき姿を創造したのは宇喜多秀家の偉業だったのです。ほんとにグッジョブ!


 さぁ、ここまできたわけなのですが、現在ある「岡山市という街と岡山県のおおわくをつくった」宇喜多直家と、「岡山城という城と天守閣をつくった」宇喜多秀家、その父子についてふれたわけなのでありますが。

 終わらない……終わらないよぉ~!!

 だって、現在の岡山城を語る上では、この2人のあとに少なくとも「もう2人」はあつかわなきゃいけない殿様がいるんですよ!! ここはどうしてもスルーできないんだ。


 3月、終わるっつうの! でも岡山城探訪記はまだ続く~。
 『数学♥女子学園』の話はいつできるんだ~!? 

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