安全の基準はどこにあるのだろうか。テレビでは、100ミリシーベルト以下であれば安全というコメントが多い。100ミリシーベルトであれば被爆しても安全であれば、何故、医療関係者の被爆限度はこれより低い数値なのだろう。何故一般人の被爆限度はさらに低い数値なのか。
一方で文部科学省のホームページでは時間あたりマイクロシーベルト単位、マイクロシーベルトと言われれば少ないように感じるが、時間当たりを1日に置き換えれば24倍、さらに一ヶ月に置き換えれば30倍、さらに長期化を予想するれば1年で12倍の被爆となる。これに、呼吸をしなければならないので内部被爆を考えれば、単純に倍の被爆、これに水と食品の被爆を考慮すれば、さらに係数をかけなければならない。こうして累積した被爆量は、ミリ単位な量となる。1ミリを基準とすれば、注意が必要な値だ。
この計算を、モニタリングされた数値で1月あたりに換算(720倍・内部被爆で1440倍以上)すれば大きな数字になる。このことに注意している人と、注意していない人では大きく受け止め方が違う。
テレビのニュースでは、学校の校庭で放射線量のモニタリングをしている様子が映されていた。モニタリングに従事している人、これを映すTV関係者の複数皆がマスクをしていた。一方で入学式を向かえた保護者や子供達はマスクをしていない。
モニタリングをしている者は皆が花粉症なのだろうか。彼らは何から身を防いでいるのだろう。何故子供達はマスクをしていないのだろうか。発ガンの可能性は子供の方が高いはずだが。低い値の被爆であっても余計な被爆は避ける方が良いということは当然と思われる。
私は放射能の見識はとても少ない。ただ、これまでは厳重と思われるように管理されてきた基準が今大きく、変わりつつあることが分かる。
基準は、時勢に合わせて変化するべきなのだろうか。非常時には変化する安全基準は安全を示しているのだろうか。安全な時には、厳格な数値を使用し、本当に危険な時にこれまでより緩い数値を使用する。これが安全管理の姿勢として正しいのだろうか。緩い基準で原発を作り事故が生じ、今、これまでにあった被爆限度を変更し、緩い基準にすることは、新しい事件の発端にならないのだろうか。
危険な時こそ、厳格な基準を元に判断すべきであり、将来のリスクを減少させることになるではないだろうか。
緩い基準を作り、その結果、事故が起きた時に責任を取れる者はいない。