日記のようなもの

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ニュースピーク

2011-04-23 07:31:14 | 原発問題
  原発事故以来、安全が多く語られているが、この言葉の意味は逆転しつつある。安全を語ることは、危険を語ることである。健康を語ることは、疾病を語ることである。
  これまでに安全を語ってきた者は危険をもたらした。安全を語る者に疑問を持たない人は、自らに危険を受容することとなった。
  今、危難の際に安全の基準を変更し、これまで危険と考えてきた事象を安全の側に振り分ける。そこで、安全を宣言する。事象自体には変化がなく、受け止め手の考え方を変更しただけで安全となる。安全と危険の境界は確かに、受け止め手の考え方しだいである。危険という言葉は概念に過ぎない。ただそのままに事象がある。
  何故、今、安全を語るのだろうか。
  安全を語る目的を考える。社会には、一定の犠牲が必要である。これは、交通事故の死亡者と社会での利便との対比で語られるとおり。便利な社会を享受するには、確率的に死亡者が発生することを受容しなければならない。
  安全の基準を変更することは、便利な社会の維持に必要な一定の犠牲者数を変更することである。犠牲者は確率的に発生をするので、集団を構成する人員に必要な係数をかけることによって算出される。今、安全を語ることはこの係数をどの値でとるかを考えることである。
  便利な社会を享受している人、その中で係数の算定に指導的な役割を持つ者が、この係数を変更し、必要な犠牲者数を社会的に提供する。そしてその計算をする者は、自分はその母数の中には含まれないことを承知している。
  この母数の一員となるか否かは、ケースによっては自分で選択が可能である。これまで、安全を言葉の意味そのままに受け入れてきたがこれは失敗である。語られた安全について評価をしない者は、安全を語る者の目的に自身を差し出すこととなる。安全を語るものは説明をしない。これは安全を語る者の裏のメッセージである。私が提供する安全に満足できない者は自身で判断せよ。
 
愛の反対は無関心。私の子が学校で覚えてきた。
  今新しいスローガンを、安全の反対は無関心。安全は危険、真理は嘘