日記のようなもの

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意味の意味 雑感

2016-07-02 16:25:08 | 人生の意味

  「意味」の意味は何か、意味が分かっているから問うているのだろう。意味が分からずに問うことはできない。かといって、意味を明確に説明することは難しい。

  人は、何らかの意味を尋ねたくなるものだ。何らかの理由があるから、何かが存在しているだとか。何のために、何をしているだとか。生きている上で、何のために生きているのだとか、何のために仕事をしているのだとか。何らかの意味を求めて生きている。実は、何のためでなく、理由はないが生きているというのが、私が思う本当のところなのだが、この本当のところに、何か意味をつけたくなるのだ。
  意味がないということに、意味がないことを受け入れることは、一つの仏教的な態度だと思う。キリスト教的態度であれば、神の栄光を称えるために人が存在しているというような理解になるのだろうが、何も意味がないということを受け入れることは、無常を受け入れることになるだろう。
  この意味のなさを受け入れるということは、頭で分かっても実態として受け入れることは難しい。人にちやほやされたいとか、偉いと思われたいとか、そういうことを求める時に、何か意味をそこにつけてやりたくなるのだ。
  意味がないんじゃない。こんなに意味があるんだと、その時に自分の偉さを自分で認め満足したい、そういうところに意味、生きる意味というものを押し込んでいる。それが、意味がないと考えるのか、社会にとって意味があると考えるのか。自分ひとりの満足で意味を自分で満足できない時、ほぼそうなのだが、社会に、まわりの人に意味を認められたいと考える。そのような、人に認められた思える時に、自分自身で意味を認めることが本当にできるのだろう。それまでは、自分が認めた意味など、自分でも信用できず、意味づけることができていないのだ。
  世界に意味があるとすれば、それは自分が意味をつけるものなのだが、その自分が意味をつけるだけでは、意味をつけることに満足できない。自分の世界における意味なのに、他者の意味付けに依存する。
  別の見方をすれば、他者と自分との意味の共有、それを人生の意味とか、生きる意味とかいうことになるのだろうが、人は、本当の意味で人と一緒に生きることができるのだろうか。それぞれの(自分の)世界に、人は生きている。世界は、人に開示されているが、そこで世界を見ることができるのは、自分ひとりしかいない。横に妻がいても、彼女はそこに違う世界を見ている。同じ世界を共有することはできない。この意味で、世界は無常で移ろう。永遠の一つの世界などなく、その人の世界があるだけだ。
  この世界の意味と、人生の意味、私の存在の意味、意味の意味、
  世界の意味は、意味の意味をしることができれば、それが世界の意味であり、また人生の意味であり、私の存在の意味であろう。
  全てのものに意味があるとすれば、意味の意味は世界の意味を意味することになるだろう。意味が何を意味しているか、それは存在が何を意味するのかを言っているのだと思う。
  ただ、この意味というものも、意味はない。意味という言葉には指示対象がないのだ。抽象的存在者である意味というものも理解しがたい。幻想なのだろうと思う。その時、世界は無常であり、流れ去るものだと思う。
  人は、幻想の中に、意味の中に、意味のプールの中で泳いでいる。この流れは、一つの幻想なのだが、幻想もリアル、現実でもある。
  人は、食べていかなければ生きることはできない。一つの歴然とした現実だが、食べていけてもそこに、何か意味という幻想なしには、また生きていくことも難しい。それが幻想と知りつつも、幻想に意味を、幻想を現実と信じて、幻想ということを忘れやっていく。幻想といえども一つの現実、幻想を幻想と呼ばなければ現実でしかない。
何かを、言葉で意味づける時、それが幻想になるのだが、言葉によらない現実は幻想ではなく、本当の世界、私の世界だろうと思う。子供の笑顔を見るときや、きれいなものを見た時の気持ち、これは幻想ではなく現実である。これも、言葉に直して、噛みしめると幻想になっていく。
 
 
 
 
 


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