ひきこもり生活が続いている。仕事には行くが、買い物を除けば外に出て過ごすことがなくなった。
私は、雑談ということが嫌いで、興味がない話に付き合うということがない。それが嫌なので、友人付き合いというものもない。
成熟した大人が人付き合いも出来ないというのも、未熟を表すようにも思えるが、興味がないことに付き合うという同調意識そんなものは、何の価値もない幻想、そうする事しか知らない人の狭い了見なのだと思う。
協調と同調は、違うものだ。飲み会に参加するのは、同調、協調ではない。協調は、義務についての他者とのコミュニケーション、調整能力のことだ。そこに、義務観念がなければ、人を殺す相談でも協力しなくては成らなくなる。同調すると、人を殺す事も、むしろ義務観念になるだろう。同調から義務が生じてくるという逆転が起こる。戦前、全体主義下の日本やドイツで起こったことだ。
私は、協調はするが、同調はしない。何が正しいのか、初めにその事を考えて、義務が何であるか、そう考えないと、オウムやカルトのように、偉い人が言うものが正しいとなる。
これは、つまらない価値観だ。会社でも、馬鹿ほどこの考えに縛られて、自分が客観視できない者がいる。滑稽な姿だ。
まあ、そういう私も、周りから見ると滑稽な人物なのだろうが、この断絶が人付き合いを面倒なものにするのだろう。
我々は、本来、一人で生きている。物理的には、他者の力を利用しないと生きていけない事とは別に、自分の視界、眼に見えている世界、この視点で世界を見る者は私しかいない。この事、人は、初めから終わりまで一人なのだということ。
この気づきのあるなしで、同調や断絶というものがあるのだろうと思う。
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