新約聖書を読むと、ユダがイエスを裏切る場面がある。最後の晩餐のところなのだが、イエスは使徒の1人が裏切ることを見抜いている。そして、そのような者は生まれなかった方がよかったと、言う。キリスト教を信じていない者にとっては、生まれなかった方がよかったという人間の存在を認めることは、人間の価値そのものが否定されているように思える。
どのような者でも、生まれたからには、そのことだけで価値がある。そうでなければ、生まれなかった方が良かった人間が存在するならば、その者の存在自体を認めないことになる。
ヒトラーは、多くの人を死に追いやった、彼に協力した人々も複数いるが、また核兵器を開発、使用した者もいる。生まれなかった方が良かったと、今の視点から見ると思うところがあるが、それでもその存在を否定することはできない。
イエスが、生まれなかった方がよかったと本当に言ったかは分からないし、言ったとしてもどういう意図で言ったか分からない。だが、聖書にそれがそのままに残っているところは、正統なキリスト教の教えであることは否定できない。
ユダヤ人の存在が厭われるのは、ここに起因しているのではないかと思う。現代の倫理観からすれば、およそ存在しない方がよかった人間を認めることはできないのだが、キリスト教におけるこの点の解釈がどうなっているのか、おいおい調べていこうと思う。
ユダの福音書という、資料が近年発見されており、その中ではユダだけがイエスの理解者であり、協力者、その協力により、イエスが天に帰った。もちろんイエスの復活もない。そのような解釈があるのだが、もちろん異端として抹消されていた歴史である。この福音書に登場するイエスが、驚くほど星の王子様によく似ているのがびっくり、星の王子様が書かれた時には、この資料は世に出ていないので、関係性はないのだが。
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