20年ぶりにカラヤンのベートーベンの交響曲第4番を聴いた。昔に数回聴いて、そのままにとなっていたのだが、ふと目についたので聴いてみた。
20年以上前に買ったのだが、今でも楽しめるのが面白い。古いや新しいというのが、ほぼない。古くても、見劣りしないどころか、今よりいいんじゃないかと思う。
カラヤンも、晩年はオーケストラともめて、ウィーンフィルで指揮をしているが、やはりベルリンのカラヤンの方が覇気があって良い。晩年のウィーンフィルのブルックナーの演奏もいいんだけど、枯れているというか逍遥とした音楽になったような気がする。
この人の音楽を聴くといつも思うのだが、栄枯盛衰、初期の頃の元気いっぱいと、晩年の枯れた感じ、そして音楽には、何か曲のイデア、理想形を追い求めているかのような感がある。独特の世界観があるのだろうと思う。
その世界も、この人が亡くなったことによって失われ、記録だけが残っている。多くの人が亡くなるが、その人の見識、技能というものはその人にしか属さない。その人が亡くなると、一つの世界が終焉することになる。その情報量は膨大なものがあるのだが失われるだけだ。一部は、波紋のように共通世界、人の知識に残っていくのだろうが。この失われていく世界は、ただ失われるだけ。そこに永続性はない。だからこそ、生命なのだと思う。
何らかの名前や、記録で永続すること、子供が残ることもそうだが、本当はそこに永続はない。世界は断絶している。あなたの属する世界と、子供が属する世界は全く別のものなのだ。失われる世界は、あなたの世界でしかない。
一つの世界を泡に例えるのなら、共通世界というものは無数の泡が同じ地平上にひしめいている。そこには、消える泡に、生まれる泡がある。
カラヤンは、泡の一つなのだが、他の泡に自分の泡のコピー、小さな一つを落とし込んだのだろう。世界は、他の世界にも影響を与えることができる。だが、永続することはできない。演奏される音楽のようなものだ。
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