日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

いつか冷たい雨が

2011-04-10 19:55:15 | 原発問題
  明日から子の新学期が始まる。いつもなら桜が咲きのどかな季節と思うところだが、今年はそれだけではない。この天気もいつまで続くのだろうかと思う。
 いつか冷たい雨が降るのではないだろうか、、、、、
 福島県の校庭での被爆線量を年20ミリシーベルトまでとすることで文部科学省が方針を固めたという報道があった。さらに悲観的にならざるを得ない。
 この20ミリの基準についても、内部被爆が加味されているのだろうか。子供であれば、校庭で遊び、運動をすれば粉塵を巻き上げる。運動をすれば通常以上に呼吸も増える余計に粉塵を吸い込むことになるだろう。直ちに健康に影響のない校庭で、運動会で家族そろってお弁当を食べる姿は、想像したくない光景だ。
 何故、これまで成人で1年1ミリ限度が、いきなり子供で20ミリまでOKとなるのだろう。子供の放射能への感受性が高いことは、既に指摘されていることだ。白血病の増加が起こることは予想されないのだろうか。  
 福島の子供達は、文部科学省の方針があれば、直ちに成人の20倍の被爆の耐性を持つことができるのだろうか。
 20ミリを限度とするということは、毎日、子供の被爆量を測定し、はい今日で、ちょうど20ミリシーベルトになりました。今日から避難を始めます。と子供達に言うのだろうか。何故、初めから避難しないのだろう。一年経てば、被爆量がチャラになると考えているのだろうか。
 この20ミリの基準があれば、自分の仕事が楽になる人は出てくるだろう。自分が責任を負わなくてよくなる人が出てくるのだろう。しかし、20ミリの基準の結果責任は誰が負うのだろう。
 原発事故の責任は、結局誰もとらないだろう。年20ミリを限度に被爆する子供達への責任について誰が責任をとるのだろうか。
 子供達への結果は、親が信じるものこれに左右される。今何を信じるのか考えよう。 
 
 
 

天気予報とコマーシャル

2011-04-09 21:18:29 | 原発問題
  何故、日本でイギリスとドイツの天気予報を見なければいけないのだろう。日本在住の英語圏とドイツ語圏の人は、母国が発表する天気予報を見て行動をし、今日は、不要な外出を控えよう、帽子をかぶろう、マスクをしようと。
 ドイツや、イギリスの天気予報で詳細に日本の放射能の拡散の様子を伝える目的はこれしかないように思う。
 日本では、風向きを見て行動するように促すメディアはない。ドイツやイギリスの天気予報が伝える福島からの風で日本全体が放射性物質につつまれる姿は、強いイメージを与える。
 このイメージを日本人は正しく理解できないと、一番の当事者である日本人自身が考えているところが、この理解がおそらく正しいのだろうと思えるところが、日本人である私には皮肉である。
 余計な、心配はしないようにメディアはひたすらに説明を繰り返すが、長期化した場合のこと、直ちに影響はなくとも防ぐことのできる被爆は避けるべきことは、まるで主張しない。
 また、東電の汚染水の海洋投棄について、日本のメディアは冷静に報道をした。以前であれば、ものすごい反応があったはずだが、今は非常時で政権協力体制がひかれているようだ。この行為は世界から見た日本人に対する印象を大きく変えるものがあったと思う。日本人は、自分の身を守るために世界に繋がる海を意図して汚染した。風に乗り放射性物質が世界をつつんだこととは、質的に大きな違いがある。
 もし、中国、北朝鮮、韓国が同じ行為をしたとしたら、日本人は彼らに理解を示すだろうか。原発事故に加えて、この意図的な海洋汚染によって何十年に及ぶか分からない影響を、信頼を日本人は失くしたと思う。
 今、福島第1原発で働いている労働者は、自己を犠牲とする侍の心を持つのだろう。しかし、海洋投棄という東電の行為に、海外が賞賛する侍の心は見えはしない。
 私の暮らしは、海外の日本への信頼が低下しようが、直ちには影響しない。しきい値以下であるので全く安心して良いと言える。
 しかし、私の子は今後この評価のもとに暮らしていくことになる。
 また、被爆の影響は私の余命から考えてもおそらく有効な数値としての影響はないだろう。(確率的影響はあるので、運が悪ければ、私も低確率下での影響で発ガンすることはある。)しかし、私の子は汚染された海や土地の影響の下でこれから暮らしていかなければならない。
 この子たちのために、どれだけ希少に見える数値であっても、余計な被爆は避けるよう考えたい。多くの親がそのように考えることも期待したいが、これも一部の人たちで収まるように思う。
  いただきマウス、ありがとウサギに続くポポポポーンのCMは、安心感、安定感抜群だ。これは日本人が好きな「かわいい」を連発してくるのだから。このCMで日本中の不平不満がどれだけおさまっていることだろう。これを見れば、協力しなければ、こんな時だからこそ不満を口にしないと思ってしまう。
 このCMの影響が、良いほうだけに向かえばいいと思うのだが、多くの人が不平をもらさない人間になることは、政治的にはやりやすいだろうと思えてしまう。
 私にはこのCMの垂れ流しは、どうしても、プロパガンダにしか見えない。
 私は、本来反省すべきところを逃すことになるように思う。
 

基準

2011-04-07 23:13:58 | 原発問題
  安全の基準はどこにあるのだろうか。テレビでは、100ミリシーベルト以下であれば安全というコメントが多い。100ミリシーベルトであれば被爆しても安全であれば、何故、医療関係者の被爆限度はこれより低い数値なのだろう。何故一般人の被爆限度はさらに低い数値なのか。
 被爆すれば確率的に発ガンする人が増える。シーベルトの発想自体がこの発想であり、であればこそ、放射線利用は厳格に管理されてきたのでないのか。
 この100ミリシーベルトの基準もあっさりと2.5倍になり、一般人の被爆の限度は1ミリシーベルト以下を基準としていたが、これも100ミリから比べれば、直ちに健康に影響はないそうだ。
 一方で文部科学省のホームページでは時間あたりマイクロシーベルト単位、マイクロシーベルトと言われれば少ないように感じるが、時間当たりを1日に置き換えれば24倍、さらに一ヶ月に置き換えれば30倍、さらに長期化を予想するれば1年で12倍の被爆となる。これに、呼吸をしなければならないので内部被爆を考えれば、単純に倍の被爆、これに水と食品の被爆を考慮すれば、さらに係数をかけなければならない。こうして累積した被爆量は、ミリ単位な量となる。1ミリを基準とすれば、注意が必要な値だ。
 この計算を、モニタリングされた数値で1月あたりに換算(720倍・内部被爆で1440倍以上)すれば大きな数字になる。このことに注意している人と、注意していない人では大きく受け止め方が違う。
 テレビのニュースでは、学校の校庭で放射線量のモニタリングをしている様子が映されていた。モニタリングに従事している人、これを映すTV関係者の複数皆がマスクをしていた。一方で入学式を向かえた保護者や子供達はマスクをしていない。
 モニタリングをしている者は皆が花粉症なのだろうか。彼らは何から身を防いでいるのだろう。何故子供達はマスクをしていないのだろうか。発ガンの可能性は子供の方が高いはずだが。低い値の被爆であっても余計な被爆は避ける方が良いということは当然と思われる。
 私は放射能の見識はとても少ない。ただ、これまでは厳重と思われるように管理されてきた基準が今大きく、変わりつつあることが分かる。
 基準は、時勢に合わせて変化するべきなのだろうか。非常時には変化する安全基準は安全を示しているのだろうか。安全な時には、厳格な数値を使用し、本当に危険な時にこれまでより緩い数値を使用する。これが安全管理の姿勢として正しいのだろうか。緩い基準で原発を作り事故が生じ、今、これまでにあった被爆限度を変更し、緩い基準にすることは、新しい事件の発端にならないのだろうか。
 危険な時こそ、厳格な基準を元に判断すべきであり、将来のリスクを減少させることになるではないだろうか。
 緩い基準を作り、その結果、事故が起きた時に責任を取れる者はいない。
 
 
 

地底人

2011-04-03 10:56:04 | 日記
  毎年、交通事故で死ぬ者がいる。これは車がなければ、死なない人が毎年確実に存在するということだ。このことを誰もが、知りながら車を利用することを止めない。
 私は、車に乗る。車に乗るという行為は、最悪、人を殺す結果があることを知っている。私は、確率的に言えば車に乗る以上、全体では確実に死者が生じることを知っている。
 人は、利便のために他者の犠牲(ひるがえれば、自身がそうなる危険性も含めて、むしろ忘却、逃避しつつ)を容認している。現在の便利な生活を行うためには、必ずそうならざるをえない。安いTシャツや、高価なチョコレートは、他者の犠牲の上に成立していることを知りつつ、消費を続ける。極端に安いTシャツを購入することに喜びを感じ、極端に高いチョコレートに喜びを感じる。
 ウェルズのタイムマシンという小説では、地上に住む文化的な人種を地底人が食べる。地上の文化的な生活は、地底人の労働によって支えられている。
 この地上に住む文化人が、文化的な生活を続けるには、一定数が必ず地底人に食べられなければならない。そうでなければ、地底人が地上の文化人を飼う必要がないからだ。この犠牲者の存在によって地上の文化的な社会は成立している。
 確率的に、犠牲者の存在は確実であるが、だれが犠牲者となるか特定されていない。このことが、犠牲者を許容する最大の理由だろう。誰もが、自身の行為によって、特定の誰が死亡することが分かっていれば、その行為はできないだろう。もしくは社会的に容認されない。
 この誰が犠牲者か目の前に立ち現れないこと。不明なままにあることが、円滑な社会に必要なのだろう。あえて調べれば、多くのことが判明するはずだが、日々の生活の前には、その犠牲者のことを考える余裕がない。または考えたくない。このことを考えるよう社会に言い続ける者は、煙たがられ社会に疎外される。このことは、身近な労働を考えれば分かる。
 このことは、学生の頃に初めてウェルズの小説を読んだ時から感じていた。今の社会状況は特にそう思わざるを得ない。地底人とは、消費を目的とした文化そのもの、またその文化が個人を強要、圧迫する力、一定数の犠牲を前提とした社会構造であるとすればどうであろう。とすれば私は、地上人の一部であり、地底人の一部である。
 
 
 
 
 
 
 

再開

2011-04-02 21:48:09 | 原発問題
  しばらく、記事を書いていない。今回の地震と、それに続いた原発事件は衝撃だった。地震津波については、自然に起きてしまったこと、取り返しがつかない事件だ。
 一方、原発事件は現在進行中の人為的要素を多分に含んだ事件だ。このことは、今この記事を書いている今も進行中である。私は、危険のない場所で文を作っている。
 そこで、このことを興味に文を作って良いのかと思う。ニュースであれ、メディアで興味を引くことは全て楽しみと言える。このことは、悲しむという行為でさえそうであると思う。人は、悲しみを対象にしてをさえTVに張り付いてしまう存在だ。それでいても私は、この事件ことについて何か考えをまとめ、整理していく必要があると思う。
 今回の事件は、多くの日本的な負の部分が生みだしたものだ。損切りができない、いつまでも負けを認めない体質。自分の失敗でなく、引き継いだ人間のせいにして逃げ切ろうとする体質。その場をしのげば組織が守ってくれるという期待、悪い方の予想をしない、むしろ悪い事態を想定すること自体が、子供じみた大人の判断のできない正義感ぶった個人主義者スタンドプレーヤー、空気の読めない奴、誤りは客観的事実でなく、損得勘定で事態を判断する。事実を一時の場の力の大小で判断する体質、これが全て今回の事故に繋がったと思う。第2次世界大戦の負けで明らかになった日本人の欠点がそのままに原発事故を生じさせたものと思う。
 私は、今回の事故をみて、旧日本軍の失敗そのものを思い浮かべざるを得ない。
私は、従軍経験はもちろんないが、状況的にあまりに似通っていると思う。
 50人の労働者が、ヒーローとされているが、彼らには特攻隊を想起せざるをえない。彼らにも家族がいる。にもかかわらず彼らは志願していると報道されていた。志願せざるを得ない環境が彼らをしてそうさせているのだろうが、東電社員であり、協力社員であってもどちらにしても彼らが自身の仕事を拒否することは、困難である。拒否することは可能であろうが、それは生活の基盤を喪失することを覚悟する必要がある。むしろ確実に基盤を失うだろう。さらに現在の基盤を失うことのみならず、労働者としては将来の基盤をも喪失する覚悟が必要だ。誰も目の前の危険から逃げ出した者を非難することはできないと思うが、現実には逃げた者を非難するのが日本人の体質だと思う。
 メディアでも、彼らの安全を配慮することは要請しているが、彼らが逃げ出す場所を用意しようとはしない。逃げ出す場所を与えずに、自由選択もない。誰もが彼らがいなくなれば、彼らの犠牲の上に自身の生活が成立することを知っている。
 私自身が、同じ立場に立たされた時に、拒否することが、自身の生存に万全をかけることが正しいことか苦しむことになるだろうと思う。私は、社長ではない。会社の行為に直接責任を負う必要はない。労働者としての責任を果たすことが私の責任だ。この責任には、自身の生存については自身が判断することが含まれている。会社の生存までを自身の責任することはできない。ましてや日本人の生存についてまで、労働者として責任を負うことできない。にもかかわらず、その責任を果たそうという労働者の存在は、その立場を超えてあるのだと思う。社会の多くの部分が、このような人達の存在をして成立しているものと思う。このことの大きい小さいはあるが、本来その責を負うべき人が、現場にいない現状において。
 今、TVでは普段の番組が戻ってきた。この非現実的と思える状況を忘れさせようとするかのように。 
 私は、今自分の持ち場でやるべきことをやろう。少なくとも、自分の持ち場で責を果たしていないと自分が思わないように。