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つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

旅の空の下、2024秋。

2024年10月13日 21時00分00秒 | 旅行
                             
<はじめに>
先日、旅をした。
行先は兵庫~京都、かつて播州・但馬・丹波・丹後と呼ばれたあたり。
これから数回に亘り、旅の様子を投稿したい。
個人的な視点で綴る記録だ。
冗長や偏りを感じたりするだろうが、よろしかったらお付き合いください。
そして、何かしら共感や関心を呼び起こし、思いを致してもらえたなら嬉しい限りである。
ではいざ---。

<本 編>
最初の訪問地は、兵庫県南部の播州平野ほぼ中央に位置する加西市(かさいし)。
人口4万人あまりの市域は、東西12km強、南北20km弱。
瀬戸内式気候に属する。
市の中心部を流れる川の西、鶉野(うずらの)台地には、昔、飛行場があった。
第二次世界大戦時、戦局が悪化しはじめた昭和18年(1943年)、
パイロットを養成する「姫路海軍航空隊」の基地が開設されたのだ。
訓練飛行に加え、ランウェイに隣接した工場で組立てた機体の試験飛行も実施された。
--- その傍に、加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」がオープンしたのは2年前である。





館内には、戦闘機の“実物大模型”を展示。
前述「川西航空機 姫路製作所 鶉野工場」で組立ていた「紫電改(しでん・かい)」と、
パイロット訓練に用いられた「九七式艦上攻撃機」だ。



「紫電改」は、紆余曲折を経て大空に辿り着いた傑作機。
開発史は、海軍が飛行艇や水上機に強い川西航空機に対し、
飛行場が造成できない島嶼部(とうしょぶ)で運用する水上戦闘機を求めたことに始まる。
高すぎる性能リクエストに苦しみながら「強風(きょうふう)」を完成させたが、
時間を要したため、既に他社の機体が採用されてしまっていた。
ならばと「強風」をベースにした陸上局地戦闘機「紫電(しでん)」を製造。
急ごしらえが災いしたのか--- 難点と利点、優と劣が共生する同機の評価は芳しくない。
しかし、川西のエンジニアたちはあきらめない。
技術的改良を加え、生産しやすさ資材節約の観点から部品数を大きく減らし簡略化。
名機「紫電改」が誕生した。

・2000馬力級エンジンが叩き出す最高速は、時速630km。
・操縦者を守る防弾装備、20mm機関砲4門の重武装。
・目まぐるしく変化する戦闘中の機体に最適な揚力を与える機構、自動空戦フラップ。
これら高性能を以て強力な米機と互角に渡り合い、
B29による本土空襲が激しさを増す大戦末期、日本の防空を担った。



上掲画像の天井から吊り下げられた機体「九七式艦上攻撃機」は、
日本海軍初の全金属製の低翼単葉機。
昭和16年(1941年)12月8日、鮮烈なデビューを飾る。
日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾への奇襲で、
米太平洋艦隊に対し魚雷攻撃を仕掛け大打撃を与えた。
ちなみに「トラ・トラ・トラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)」の暗号電は、
この機体から打電されている。
大戦初期は戦場各地を飛び回るも、速力不足などから戦争半ば以降は主役の座を降り、
姫路海軍航空隊では、訓練機材として転用されていた。



だが、戦局悪化に伴い「九七艦攻」は、再び第一線に駆り出されることになる。
昭和20年(1945年)2月、姫路の練習航空隊は実戦部隊に再編。
特別攻撃隊「白鷺隊(はくろたい/姫路城別名・白鷺城から命名)」として、鹿児島へ進出。
“時代遅れの艦攻”は800kg爆弾を抱いて、若者たちと共に沖縄の空に散った。



「soraかさい」前に、白鷺隊、飛行場建設について刻んだ平和祈念の碑が建つ。
また滑走路跡周辺には、戦時遺構が点在。
ざっと紹介していきたい。




機銃座跡
 滑走路を越え、左右に田園を眺めながら歩くうち機銃座跡の囲いが視界に入る。
 低空から侵入してくる敵機に対する対空機銃。
 飛行場周辺には5ヶ所設置された。
 温室のようなガラス張りの中には実物大の対空機銃模型が展示。
 平成17年(2005年)公開の映画『男たちの大和』の撮影に使用されたものだ。


巨大防空壕跡
 上部が草で覆われ、遠目には小さな丘のように見えるのはカモフラージュのため。
 地下に広がる、奥行き14.5m、幅5m、高さ5mの空間は発電施設として使われていた。
 そこを利用し、令和2年から巨大防空壕シアターを開設。
 CGを交えた映像で「白鷺隊」隊員たちの遺書を公開しているとのこと。
 入場無料で、ガイドによる説明、映像の視聴が可能ながら、事前予約制で日程限定。
 あいにく僕の訪問時はタイミングが合わなかったのが残念でならない。


防空壕跡
 コンクリート製の強固な防空壕。
 内部は30名ほどが入れるスペースで、換気口も設けられていた。
 竹藪に覆われた2つの出入口の中は凸型に屈曲して繋がり、爆風を防ぐ構造である。




爆弾庫跡
 見るからに頑丈そうな分厚い1mコンクリート造。
 アーチ状の天井部はショックに強く、前面には爆風から格納品を守る土堤。
 強度は、今尚健在との事だ。



姫路海軍航空隊鶉野飛行場が、歴史上に存在した期間は僅か3年に満たない。
甲子園球場およそ70個分に相当する広大な敷地にはパイロット以外にも、
整備、兵科、運用、主計、航海、機関、通信、工作、兵器、砲術、医務など、
多岐に及ぶ任務をこなす兵士たちがいた。
全長1200m、幅45mの滑走路跡に佇み、
彼らの息遣いを胸いっぱいに吸い込んだ時、
僕の心は束の間---79年前の夏の空へ飛んだ。

<次回に続く>
                        
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続・湖国小旅行 2024夏。

2024年08月25日 20時46分46秒 | 旅行
                        
前回投稿の続篇。
びわこ競艇場で4つのレースへの投票を終えた僕は、
結果を待たず次なる訪問地へ向けハンドルを切った。
大津市街中心部から車で20~30分の地点にある「坂本」は、比叡山延暦寺の門前町。
昨年は戦国期の石工集団・穴太衆(あのうしゅう)が築いた石垣(LINK)を見に出かけたが、
今年の目当ては「比叡山鉄道 坂本ケーブル」である。





門前町の坂本と延暦寺を結ぶ比叡山坂本ケーブルの歴史は古い。
開業は昭和2年(1927年)。
その少し前、大正14年(1925年)に完成したのが、前掲の駅舎だ。
往時の姿を留める洋風木造二階建の建物は、国の登録有形文化財に指定されている。
雑木林に囲まれ、蝉時雨に包まれた駅舎外観には、風格が漂う。
内装も木造のベンチが置かれ、乳白色ガラスの照明など雰囲気があったのだが、
他のお客さんも多く撮影を遠慮した。







京阪グループ比叡山鉄道によって運営されているケーブルカーは、全長2,025m。
日本一の長さを誇る。
急勾配に沿うため車両は平行四辺形。
車内もホームも階段状になっている。
車両にエンジンは付いておらず、レール上にあるロープを車両に接続し、
頂上からモーターで巻き上げる「つるべ式」で登り降りする。
その間、車窓に広がる比叡山の自然は美しく、登るにつれて涼しさが増す。
所要時間は11分。
降り立った山頂の「延暦寺駅」からは、琵琶湖が一望できた。



そこから徒歩10分。
木立の間を抜け、苔むした石仏の前を通り、比叡山延暦寺に到着。







ご存じの方も多いだろうが、比叡山に延暦寺という建物はない。
比叡山そのものが延暦寺を表し、
東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の3地区に分かれている。
近江出身の平安時代初期の僧侶「最澄」が開いた天台宗の総本山は、
数々の歴史に彩られてきた。
特に知られるそれは「織田信長による焼き討ち」だろう。





その発端は、姉川の合戦後、敗走する浅井・朝倉の軍勢を比叡山が匿ったこと。
数千の僧兵を抱える一大軍事力に対し「信長」は、
『中立を守って欲しい。 傍観してくれれば所領は侵さない。
 しかしあくまで浅井・朝倉に肩入れするなら容赦しない』と伝達。
比叡山は態度を示さず、黙殺。
「信長」は軍勢を動員して比叡山を囲んだが、この時は大事に至らず。
近畿一円の仏教勢力が「信長」に反発したため、渋々手を引いた格好。
“魔王”の胸中に遺恨の火が灯った。

翌年、諸勢力を各個撃破し体制を整えた「信長」は、比叡山攻めに取り掛かる。
元亀2年(1571年)晩夏、総攻撃開始。
建物ことごとくを焼き、経典類は灰燼に帰し、高僧も稚児も女も首をはねられた。
---と『信長公記』にはあるが、発掘調査の結果、焼き討ち時に焼失したのは
前掲画像「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」(※現在大改修中)と、
「大講堂(だいこうどう)」のみという説もある。



史実詳細は分からないが、比叡山延暦寺での出来事が強烈なメッセージとなったのは明らか。
『敵対する者はたとえ宗教的権威であろうと容赦なく滅ぼす!』
天下布武のため「信長」が人ならぬ領域へ一歩を踏み出した瞬間だったのかもしれない。



かつては大陸から導入された仏教の道場となり、
やがて血塗られ業火に焼かれ動乱の舞台となり、
歴史に名を刻んだ比叡山延暦寺。
今はただ静かな時が降り積もる。
ひとしきり感慨に浸った僕は、帰りのケーブルカーに乗って麓に戻った。
そして、スマホで投票したレースの結果を知る。

わが舟券、全敗---。

思い通りにいかないのが旅であり、人生もまた然り。
肩を落として琵琶湖を後にした、夏の思い出である。
                      
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湖国小旅行 2024夏。

2024年08月24日 14時14分14秒 | 旅行
                       
猛暑・酷暑の夏、少々夏バテ気味だ。
体力・気力が萎え、忙しさにかまけてブログ更新も滞りがち。
久しぶりの投稿である。

--- さて先日、仕事の合間をぬって日帰り旅に出かけた。
行先は滋賀県・大津、びわこ競艇場他。
賭け事も楽しみなのだが、毎年「夏の琵琶湖」の景観を味わいに行くのは、
個人的に欠かせない恒例行事となっている。



往路途中に立ち寄った北陸自動車道のPA「杉津(すいず)」。
福井県・敦賀市にあるここは、廃線となった国鉄北陸線・杉津駅の跡。
かつては機関車が煙を上げて峠をスイッチバックとトンネル群で越え、
北陸線屈指の車窓風景とだったと聞く。
確かに眺めが良い。
駐車場~道路越しに広がる日本海・若狭湾を望み一息ついていると、句碑を発見。



名月や 北國日和 定なき(めいげつや きたぐにびより さだめなき) 芭蕉

<芭蕉が月の名所と呼ばれる敦賀の港に到来したのは元禄二年八月十四日で、
 翌日の中秋観月が目的である。
 待望の十五夜は雨月となってしまったが、
 はかり難い越後路の陰晴に翁は北陸の風情をひとしお感じて、
 この句を「おくのほそ道」に遺した。>(※<  >内句碑傍の解説パネルより引用)

今宵は煌々たる秋の月を期待していたが、あいにくの雨。.
昨夜の晴れがウソのよう。北陸の天気は変わりやすく、それだけに味わい深い。
肩を落としながらも自然の営みに感慨を抱く。
思い通りにいかないのが旅であり、人生もまた然り。
そんな作者の面持ちが偲ばれる一句である。

この句碑が建立されたのは昭和63年(1988年)。
北陸道が全通したタイミングは「奥の細道」の旅から300周年。
これを記念して北陸を通りかかった際に詠んだ一連の歌を石に刻み、
幾つかのSA・PAに置いたうちの一つだ。



しばし俳聖の姿に思いを馳せていたら空腹を覚え、
PA内のレストランで「越前おろしそば」をいただいた。
喉越しよく美味しかったが、残念なのは「辛味大根」じゃなかった点。
ツンと鼻に抜ける爽やかな辛味を期待していたが違った。

まあ、「芭蕉」先生に倣い、思い通りにいかないのも旅の醍醐味。
そう考えるとしよう。
何しろ訪問先の競艇などは「不如意」そのものなのだから。



今年はあいにく雲量が多く薄曇りだったのが玉に瑕ながら、
やはり夏のびわこ競艇場は風光明媚だと思う。
碧い水、青い空、白い雲。
遊覧船ミシガンやヨットが行き交う湖面。
現れては消える、モーターボートの描く航跡。
静と動が交錯する「借景」パノラマのようだ。





当日は4日間開催の2日目、予選最終日。
競艇は1日12回のレースが行われる。
銭を張るのは後半戦と決めていて、
各人機の調子を見極めようと、到着からしばらくは観戦に徹した。
自分なりにデータを収集し、8レース、10レース、11レース、12レース、
計4つのレースに投票することに。
あとは買い目をどうするかだ。



一旦、場内2階の食堂に落ち着き「ホルモンうどん」を注文。
スープは醤油仕立て。
甘辛く煮込んだ牛のフワ(肺)をたっぷりのせた麺が、実に旨い。
びわこ競艇に来たら外せないメニューとなっている。
舌鼓を打ちながら沈思黙考。
マークシートに記入して投票を終えた僕は、結果を見ずに競艇場を後にした。
もう一つ、訪れたい場所があったからだ。

※次回へ続く
                          
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月日は百代の過客~大垣散策 昭和風味~

2024年04月17日 09時09分09秒 | 旅行
                           
岐阜県西南部「西美濃の旅」続篇2。
“偏った視点の街歩き”である。

今回の旅で草鞋を脱いだ大垣市の位置は、岐阜県の濃尾平野・北西部。
県庁所在地の岐阜市に次いで2番目の人口(15,000あまり)を有する。
異名は「水の都」。
木曾川・長良川・揖斐川など木曽三川を利用した舟運(しゅううん)が盛んで、
江戸~明治にかけ重要な交易ルートとして活用されていた。
また、地下自噴水も豊かで今も上水道の水源となっている。

一方、豊かな自然は、時として「脅威」にもなり得る。
大垣市も、度重なる水害に悩まされてきた。
水が付きやすい土地で発達したのが「輪中(わじゅう)」。
読んで字のごとく輪の中のことで「低地集落を堤防で囲んだ」のだ。

そして、戦時下の昭和20年、6度の空襲を受ける。
特に7月28日から29日にかけての第6回目の空襲は、苛烈。
上空に飛来した米軍の「B29戦略爆撃機」90機は、
100ポンド焼夷弾3000発、4ポンド焼夷弾17000発を投下。
多くの被害者を出し、広範囲が焼け野原に。
この時、国宝に指定されていた「大垣城」も消失。
(現在は昭和34年に再建された鉄筋コンクリート製の天守が建つ)

こうした経緯から、戦災復興を果たして以降の市街地が多い大垣は、
「昭和の面影」を留めているのではないか?
そう推測した僕は、スマホ片手にJR大垣駅周辺を歩き回ってみた。
以下、何枚かスナップを掲載する。
尚、画像は少々「フィルム写真」っぽく加工してみた。

























いかがだろうか。
旅人にとっては郷愁を誘う光景なのだが、やや寂しさも漂う。
少子高齢化、中心部の空洞化などを反映しているかもしれない。
勿論それは大垣に生活基盤のない異邦人の勝手な言い分である。





大垣散策中に店構えが気になった喫茶店を見つけ、モーニングサービスを楽しむ。
厚切りバタートースト、ゆで卵、フルーツを乗せたヨーグルトを、
コーヒー代だけでいただけるのだ。
モーニングは愛知県・一宮市の発祥と聞くが、お隣・岐阜にも普及しているらしい。

後で調べてみると、ここは大垣の人気スポットとの事。
開店は昭和38年。
店名「サンパウロ」のロゴは日本を代表するグラフィックデザイナーの1人、
「亀倉雄策(かめくら・ゆうさく)」氏のデザイン。
(1964年東京五輪のエンブレムとポスター
 1970年大阪万博、72年札幌五輪などのポスター
 NTTのシンボルマークなどを手掛けた)
店内の雰囲気は、やはり昭和風味なのである。
充実、美味しい朝食になった。
ご馳走様でした!



<むすびに>

今回、大垣市内の移動は徒歩に加え、無料のレンタサイクルを使わせてもらった。
再整備した放置自転車を活用した「すいとGO!(水都号)」だ。
晴天に恵まれた旅の空の下、あちこち見て回るには最適。
数時間もサドルに跨ったのは何十年ぶりだろう?
乗り始めの運転はおぼつかなかったが、すぐに身体が思い出し快適に過ごせた。
ほゞ初めての散策だったため、ほんの一端しか覗けていない。
次はより深い魅力を探してみたい。
また訪れたい町ができた。

さて、前々回、前回、今回の小旅行3回シリーズ、
タイトルは全て「松尾芭蕉」に由来している。
--- と言うのも、大垣は「奥の細道 結びの地」。
元禄2年(1689年)「芭蕉」は江戸深川を出発。
東北・北陸地方を巡ること150日あまり、
全行程およそ2400kmの旅を大垣で終えた。
大垣には“俳聖”にまつわるスポットも少なくないが、
そのあたりは回を改め「不定期イラスト連載」で書いてみたいと考えている次第だ。
乞うご期待。
                               
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夢は枯野をかけ廻る~関ヶ原にて~

2024年04月14日 21時45分45秒 | 旅行
                          
岐阜県西南部「西美濃の旅」続篇。

大垣市で一泊した僕は、隣接する「関ヶ原町」へ向けハンドルを切った。
関ケ原町は人口6000あまり。
岐阜県の西端に位置し、北は伊吹山地、南は鈴鹿山脈に囲まれている。
平野部でも海抜100m~200mの高低差があり、変化の多い地形が特徴。



ここでは、天下分け目の戦いが二度行われた。
一度目は古代日本最大の内戦「壬申の乱」。
二度目が、かの「関ケ原合戦」である。
取り分け後者は有名だからご存じの向きも多いだろうが、
簡潔にあらましを振り返るところから、筆を起こそう。

<戦場>
主戦場は、美濃国関ヶ原(現:岐阜県関ケ原町)。
東西およそ4km、南北2km、標高130メートルの関ヶ原台地で展開された。
岐阜と滋賀の県境に近く、現在も東海道新幹線や名神高速道路などが通るここは、
古くから北国街道、中山道、伊勢街道など主要街道が交わる「交通の要衝」。
周囲を大小の山に囲まれた盆地で、小さな集落と田畑や荒野が広がっていた。



<戦の背景>
戦いは、慶長5年(1600年)9月15日に行われた。
(※但し日付は「旧暦」。今の暦に直すと10月21日にあたる)
端的にいえば、天下人・豊臣秀吉死去に伴う「徳川家康」と「石田三成」との主導権争い。

<戦の全体像>
「東軍」---総大将「徳川家康」。
主に東国の大名を中心に、豊臣秀吉の子飼い福島正則や黒田長政など総勢7万4000。
「西軍」---総大将「毛利輝元」、実権「石田三成」。
西国の大名が中心で、宇喜多秀家、小西行長、小早川秀秋など総勢8万2000。

合わせて16万(20万説アリ)の将兵と、
2万5000挺あまりの鉄砲・大砲が配備され、激しい戦いを繰り広げた。
日本史上最大の野戦、世界史上初の大規模近代野戦といわれる。


(※関ヶ原七武将 ウォーキングマップを撮影/掲載)

<戦の推移>
西軍は、鶴が翼を広げたような陣形「鶴翼(かくよく)の陣」。
中央に位置する本陣が後ろに、左翼と右翼が最前線に立ち、
敵軍を両翼の二軍が挟み込んで戦うスタイル。
敵よりも兵力で勝り、敵を包囲する際に有利とされる。

東軍は、魚の鱗のように配置された陣形から名前が付いた「魚鱗(ぎょりん)の陣」。
寡兵で多くの敵と戦う際に用いられ、三角形のピラミッドの形に部隊を配置するのが特徴。
最前線で刃を交えた部隊を一定時間で引き、後続と入れ替えながら戦闘を継続する。
敵軍の中央突破に有効と言われる。

「三成」の巧妙な采配により、合戦当日は西軍が有利に布陣。
東軍は西軍に囲まれる立ち位置になり苦しい戦いを余儀なくされた。
戦端が開いた当初は、一進一退。
むしろ西軍が押し気味だったが、西軍には家康と内通してか傍観を決め込む大名も多く、
やがて、松尾山に布陣する小早川秀秋の「裏切り」によって均衡が破られる。
形勢は一気に東軍へ傾き、わずか1日で東軍の勝利に終わった。 



今回、関ヶ原観光をするにあたり、
同地観光協会の「せきがはら史跡ガイド」に申し込んだ。
土地勘がないうえに徒歩移動をするなら、
「分かる人」に連れて行ってもらうのが賢明と判断。
正解だった。
赤い陣羽織を着た方がガイドさん。
隣を歩くのはもう一人の同行者。
勿論お2人とは初対面で、2時間余りの道連れ。
名前も名乗らなかったが「歴史という共通言語」を解する者同士。
会話には困らず、楽しく充実したひと時を過ごすことができた。





やはり、自分の足で歩いてみたからこそ分かることがある。
地名にある文字「原」を辞書で引くと『草などが生えた平らで広い土地』と記載されるが、
実際は小さくない起伏が連なる「丘陵」に近い趣き。
歩兵の移動はまさに悪戦苦闘だっただろう。
合戦当日の地面は、前夜までの雨の影響で泥濘(ぬかるみ)。
陣笠、胴鎧、槍・刀剣、旗指物、携行食を身に着けて、草鞋履き。
大変さは想像に難くない。



騎馬も同様だ。
足元の悪さに加え、上掲画像のような「馬防柵」に行く手を阻まれた。
この頃の軍馬はサラブレッドに非ず。
タフネス、パワフルではあったが体格は大きくない。
更に前述したとおり、数多くの銃が導入され、数万人がひしめく戦場である。
縦横無尽に駆け回るのは難しかっただろう。



関ケ原の戦いから420年の節目にあたる2020年10月22日、
「岐阜県関ケ原古戦場記念館」がオープンした。
(コロナ禍の中、船出は何かと苦労したと察する)
この施設、見応え充分。
僕がアレコレ書くよりも以下リンクからご覧になった方がいい。
記念館公式HP 
記念館PV
おススメである。

少しだけ補足しておくならば「二段構えの体験型映像」は圧巻。
一段目は、大きな床面のスクリーンを見下ろし、
東西陣営の動きを俯瞰できる「グラウンド・ビジョン」。
人気講談師「神田伯山(かんだ・はくざん)」の名調子が気分を盛り上げてくれる。

続く二段目は、縦4.5m、横13mのワイド曲面スクリーンの「シアター」。
作品に合わせ、風や振動、光、音による「4DX」の演出が、
東西両軍激突の戦場に迷い込んだかのような気持ちにさせてくれた。

--- こうして資料を観覧し、古戦場を歩きながら僕は思った。
『やはり役者が違うな』と。
片や、天下人・秀吉の側近として頭角を現した優秀な官僚「三成」。
片や、戦国の辛酸を舐めサバイバルゲームを生抜いた武将「家康」。
2人を比較すると、役者の格は一枚も二枚も「家康」が上。
事前の根回し、攻守切り替えの勘所など卒がない。



しかし、戦いは偶発の連続で、丁半博打・オセロゲームの要素を孕むもの。
開戦まで「三成」による采配は見事で、戦いが彼のシナリオどおりに進み、
小早川秀秋の裏切りがなければ、西軍勝利の可能性は高い。
もしそうなっていたら---。
大坂で「豊臣(秀頼)」を中心に据えた政治が行われたかもしれない。
あるいは再び戦乱の世に逆戻りしたかもしれない。
いずれにしても、合戦の3年後に江戸開幕(かいばく)はなく、
僕たちの知るそれとは「異なる歴史」「異なる日本の姿」があったはずだ。



--- さて「関ケ原古戦場記念館」では“東西文化分け目”の展示も目を引いた。

『日本の東西では同じ食べ物でも、見た目や味が異なることがある。
 日本料理で重要な出汁は、一般的に関西は昆布ベース、関東は鰹ベースといわれる。
 昆布の主産地は北日本だが、海運が盛んになった江戸時代、
 「天下の台所」と称された大阪へ西廻り航路で直接入るようになったため、
 京・大坂の庶民に広まったともいわれる。
 かたや江戸を中心とする関東では、濃い味の鰹出汁が好まれた。
 江戸幕府は政治機能を江戸に移した後も、大阪を流通の集積地とした。
 関ヶ原の戦いの結果は、東西の味の違いにも影響を与えたのかもしれない。』
(『   』内、展示パネル原文ママ)

うどんか蕎麦か、餅は丸か角か、カレー肉、ところてんの味付け、うなぎの裂き方など、
関ヶ原を境にした流儀の違いの代表例に頷く。



そして、当日の昼飯である。
偶然通りかかり看板が目に付いた食堂、
「やまびこ路(じ)」でエンジンを切った僕は暖簾を潜った。



国道21号線沿い、東軍の6武将が陣を張った場所に構えた店内には、
合戦に登場する武将の提灯、陣旗、資料などを展示。
東の鰹出汁の蕎麦を食べようか?
あるいは西の昆布出汁うどんか?
悩んだ末に豆味噌で作るモツ煮込みメニュー、尾張の「どて丼」を注文。



味噌汁も赤だし。
これなら東西の角が立たないだろう?!
美味しゅうございました!

<次回へ続く>
                            
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