つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

未だ過ぎ去らず。

2024年12月31日 15時15分15秒 | 日記
                             
思えば今年は震災から幕を開けた。
元日夕方に発生したマグニチュード7.6の「令和6年能登半島地震」である。
度重なる緊急地震速報。
何度も襲い掛かってくる震え。
その度に柱や壁がミシミシと音を立てる---。
怖ろしくて仕方のない時間は、忘れられない記憶だ。
「あの日」から明日で丸一年が経つが、それは「過去」ではない。





わが津幡町から車で20分あまりの内灘町・西荒屋。
能登半島地震では、激しい揺れとともに地下から水や砂が噴き出し、
家は沈み、道路は広範囲で波打ったような状態となった。
応急危険度判定で「危険」と判定された建物も少なくない。
上掲画像は1ヶ月ほど前に撮影したもの。
通行に支障のあった県道は、現在応急復旧工事が完了し「おおむね」平坦になったと聞くが、
元通りとなるまでは道半ばである。

甚大な被害が出た奥能登地域の道路事情も同様。
きのう(2024/12/30)輪島まで足を運んだ際に通った「のと里山海道」は、
ひび割れ・崩落により生じた路面のアップダウンが激しい。
場所によって車の底を擦ってしまうほどだった。
金沢との全面通行は実現したが、すんなりとはいかず不便なまま。
それが、偽りのない実感である。





明日(2025/01/01)、輪島市の「日本航空学園能登空港キャンパス体育館」に於いて
「令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨犠牲者追悼式」が催行される。
セレモニーは亡くなってしまった方々へ思いを致す意味で大切。
しかしこれは区切りでも、節目でもない。

奥能登4市町の人口は地震前と比べ7.8%減。
全国平均を大きく上回っている。
特に子育て世帯の流出は深刻だ。
輪島市では小中学生がこの1年間で3割マイナス。
過疎化の加速が懸念される。
1月の地震と9月の豪雨が与えた打撃は大きい。
整備・復旧は前進しているが、復興となると道のりは遠くゴールは見えない。
「あの日」から続く苦闘は、まだ過ぎ去ってなどいないのである。
                      
さて、今回が拙ブログ今年の投稿ラスト。
拙ブログをご覧いただき誠にありがとうございました。
読者諸兄姉におかれては、どうかよい年をお迎えくださいませ。
では、また。

令和6年(2024年)大晦日 りくすけ
                            
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これもまた旅打ちの醍醐味也。

2024年12月29日 19時00分00秒 | 旅行
                       
金沢発 22:50。
梅田着 翌6:00。
現場入 15:00。

2024年12月22日・日曜日、旅打ちのためやって来た大阪。
「住之江競艇場」に向かうまで、9時間の猶予があった。
夜まで然したる当てもない。
何の下調べもしていない。
が---1つだけ知っていることがあった。

『谷町というところに「近松の墓」があるらしい』

「近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)」は、江戸時代前期から中期に活躍した職業作家。
武士や貴族を主人公にした江戸期以前の物語---“時代物”。
町人を主人公に市井の義理人情を描いた物語---“世話物”。
幅広い作風で手がけた数は、浄瑠璃なら130作以上、歌舞伎狂言は30作あまり。
後に、多くの傑作を世に送り、時代の寵児となる彼は、
承応2年(1653年)、現:福井県・鯖江市に生まれた。

過去、拙ブログに投稿したとおり僕は生誕地へ足を運んだことがある。
(※リンク有/A Day trip 鯖江
また、代表作の一つ「曾根崎心中」についても絵と文を書いた。
(※リンク有/虚と実の狭間に開く夢芝居

せっかく近にいるから訪問したいと思い、地下鉄「谷町九丁目駅」で下車した。
グーグルマップに従い歩き始めるも、なかなか目的地が見つからない。
暫く彷徨った末に辿り着いてみて納得。





「国史跡」の墓所は、マンションとガソリンスタンドの間、隠れるように置かれていた。
分かりにくい訳だ。
かつては寺の境内だったが谷町筋の道路拡張のため寺院が移転。
墓だけが留まったとか。

「近松」が一世を風靡した元禄期(1688~1703年)は、
開幕以降続いた内乱が落ち着き、徳川体制が固まった頃。
国内開発に力が注がれ、人口が急増、農業・漁業、商工業が発達。
富を得た豪農や豪商が現れ、パトロンとなって文化振興に資金を投じた。
中心となったのは上方(かみがた)。
“天下の台所”は、先進的で自由な都市型町人文化が形成されてゆく。

また、学問が奨励され、各地に藩学や寺子屋などができ就学率・識字率がアップ。
浮世草子(小説)が刊行されるようになった。
その第一人者が大阪の豊かな商家に生まれた「井原西鶴(いはら・さいかく)」。
源氏物語のパロディ「好色一代男」、愛憎物語のオムニバス「好色五人女」など、
ヒットを連発した売れっ子作家の墓も、ごく近く谷町の誓願寺にある。



ちなみに過去投稿で「好色五人女」の1つ「八百屋お七」についても絵と文を書いた。
(※リンク有/バブルファンタジー。~ 八百屋お七
よろしかったら覗いてやってくださいませ。
---さて「近松」と「西鶴」、元禄時代の文豪2人の墓を詣でた後、僕は日本橋~難波をぶらついた。


道頓堀川、画像奥にはグリコイルミネーション輝く戎橋。
淀川河口地域を中心に発展し、水運輸が経済を支えてきた大阪には、数多くの橋がある。









街のスナップ数点。
きっと昼夜で随分雰囲気が変わるだろう。
どことなく「趣(おもむき)」を感じてしまうのは、
僕が通り過ぎるだけの異邦人だからかもしれない。
それぞれの場所に生々しい暮らしが息づいている。
それぞれの場所で人は歯を食いしばり生きている。



難波の食堂で「焼き魚定食(600円/税込)」を喰う。
実に美味かった。
接客してくれたのはミャンマーかベトナムの若者たち。
店内テレビではJRA競馬中継が映され、
日曜の昼前というのにオジサンたちがビールと新聞片手に刺身をつつき一喜一憂。
実に落ち着く空間だった。





ラストは「大阪中之島美術館」での「歌川国芳(うたがわ・くによし)展」。
偶然、駅構内でにポスターを見かけ足を延ばした。

<江戸末期の浮世絵師、歌川国芳(1797 – 1861)は、
 それまでの浮世絵の歴史を塗りかえる斬新な作品の数々を世に生み出し、
 国内外で高い人気を誇ります。
 その奇抜なアイデアや、現代に通ずるデザインセンスとユーモアは、
 浮世絵という枠や時代を超えて多くの人々を魅了しています。
 本展は国芳展の決定版として、武者絵や戯画をはじめとした
 幅広い画題の浮世絵版画や貴重な肉筆画など、約400点を展示する大規模な展覧会です。>
(※<   >内、美術館公式HPより引用 原文ママ)

館内で撮影を許された作品は限られる。
その中でよく知られたものはコレだろうか。


《みかけハこハゐがとんだいゝ人だ》
(見かけは怖いが とんだいい人だ)

人体を寄せ集めて顔かたちを表現する寄せ絵。
裸の男性の背中から尻が鼻にしたり、大胆で独創的。
モチロン、絵師の画力が高いのは言わずもがな。
素晴らしい。

今回は前回投稿の続篇にして番外篇。
旅も博打も普段の生活から離れた「非日常」。
ゆえに「旅打ち」は、二重の意味で楽しくて仕方がない。
やめられないのである。
                                 
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旅打ちの醍醐味。

2024年12月28日 05時55分55秒 | 賭けたり競ったり
                              
金沢発 22:55。
梅田着 翌6:00。

夜行バスから降り立った大阪は暗がりの中で微睡んでいた。
程なく朝日が昇ると、街が目覚め、人々が群れをなして動き始める。
次第に活気を帯びてゆく大都会に身を置いた僕は、孤独で自由だった。
「その時」を迎えるまで、まだ半日以上。
夜まで然したる当てもない。
何の下調べもしていない。
梅田~谷町九丁目~日本橋~難波~中之島---。
地下鉄を乗り継ぎ、気ままにぶらつき、腹が減ったら飯を喰った。

聞き馴れないイントネーションの会話と笑い声。
理由は判然としないが物凄い剣幕で駅員を怒鳴りつける男。
客引きの猫なで声。
クラクション、歩行者用青信号の誘導音。
あちこちから流れてくるクリスマスナンバー。
さんざめく街のノイズに包まれながら、心はどこか上の空。
「毒島 誠(ぶすじま・まこと)」から届いた
白い招待状(※前回投稿参照リンク有)」開封の瞬間を待ちわびていたのだ。











2024年12月22日・日曜日「住之江競艇場」。
年間王者を決める舞台には、既に大勢のファンが詰めかけていた。
舟券を買うのも。
食事を買うのも。
手洗に立つのも。
行列、また行列。
混み具合は激しくなる一方。
日が落ちる頃、観戦スタンドは人で埋め尽くされた。
「立錐の余地なし」とは、この事である。





戯れに前座戦に張ってみたがハズレ。
どうも真剣に予想する気にならない。
やはり止めようと思った。

『最終12Rグランプリ優勝戦に手持ちの有り金すべてを賭けよう』

既に心は決まっていた。
舟券は、何があっても「毒島」アタマの二連単総流し。
数年間から、彼が乗艇するレースを買う時は問答無用でそうしてきた。
今回がその集大成になると信じていた。
早々と投票を済ませた僕はひたすら「その時」を待つ。
時折、疲れと寝不足に起因する生欠伸を噛み殺し、
凝り固まった首や肩を回し、屈伸したりしながら同じ場所に立ち続けた。



振り返ればここまでの「毒島」の戦いぶりは安定していた。
3月、地元桐生の一般戦でオール1着の完全優勝。
   今年最初のSG第59回ボートレースクラシックを初優勝。
5月、SG第51回ボートレースオールスター優出。
8月、芦屋競艇G1レース優出。
10月、SG第71回ボートレースダービー優出。
11月、丸亀競艇G1レース優出。
12月、三国競艇と福岡競艇のG1レース優出。
これら積み重ねた成績によって年間賞金ランク2位を確保し、
手に入れた好モーターを駆使してグランプリ予選初日1着→二日目2着→三日目3着。
見事、最終決戦のポールポジションに陣取った。
その威風堂々たる歩みは王座へと続く道のりである。

彼の日本一への挑戦は8年連続11回目。
うち6度もファイナルの舞台に立ち、準Vも2度。
だが頂点は極めていない。
これまで悔しい思いばかりしてきた。
それが、やっと---。
やっとここに置き忘れた「誇り」を取り戻せる。
何度も同じ思考を反芻し、戦前にも拘わらず目頭が熱くなった。

そして、1人のファンが10年間待ち望んだ「その時」が来た。
風一つない鏡のような静水面に6つの航跡が描かれる。
辺りは割れんばかりの大歓声が木霊する。
会場のボルテージはうなぎ上りだ。
皆、応援するレーサーの名前を叫んでいた。
勿論、僕もその1人である。



正直、揉みくちゃの現場ではレース展開がどうなっているのかなどよく分からない。
ただ「毒島」が負けないスタートを踏み込み、追いすがる2号艇を振り切り、
他を置き去りにしてゴールしたのは、確かにこの目で見た。
その一番見たかった景色を味わえたのは束の間。
すぐに涙で霞み朧気になってしまった。

ロクな写真も撮れなかったので、以下に公式youtube動画のリンクを貼っておく。
もしご覧になる際は大歓声音量にお気を付けください。

我こそ王者。毒島誠 悲願のグランプリ初制覇!!│BOATCAST NEWS 2024年12月22日│


わが舟券は勿論的中。
収支はマイナスで懐は痛んだが、今回ばかりは不問。
僕にとってこのレースは特別な意味を持っていたのだ。
この世の「心残り」が1つ減った。

レース終了後、そそくさと住之江競艇場を後にした。
帰りのバス時間が迫っていた。
金沢に到着したら、その足で仕事場へ直行しなければならない。
勝利の余韻を嚙みしめながら帰途に就く。
これもまた旅打ちの醍醐味である。



ブス、おめでとう!
                             
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白い招待状。

2024年12月21日 20時55分55秒 | 賭けたり競ったり
                   
本日(2024/12/21)は一年で最も日照時間が短く、夜が最も長い「冬至」。
増してゆく寒さが身に染みる。
拙ブログをご覧の皆様はいかがお過ごしだろうか?
体調管理に気を配り、どうか健やかにお過ごしくださいませ。

僕はと言えば---
不眠不休というには程遠いが、
記事投稿を怠る位には忙しい日々が続くこの頃。
そんな中でも常に頭を過るのが「競艇グランプリ」である。
年に8回開催されるSG(スペシャルグレード)競走の1つにして最高峰。
優勝賞金額は1億1千万円。
今年の1月~11月までの獲得賞金額上位18名が覇を競う。
2024年の開催場は、大阪府大阪市にある「ボートレース住之江」。

寒風吹き抜け、冷気が支配する水面で5日間に亘り熱戦が繰り広げられ、
いよいよ明日が優勝戦。
最後の檜舞台に「毒島 誠(ぶすじま・まこと)」が乗った。



彼から届いた招待状の色は「白」。
レースに出場する6艇のボートには番号(艇番)と色が決められている。
1号艇=白、2号艇=黒、3号艇=赤、4号艇=青、5号艇=黄、6号艇=緑。
数字が小さいほど内側の枠となる。
白い1号艇は最も旋回が小さい有利な枠番、ポールポジション。
ファンになって10年、待ちに待った時が近づいた。

グランプリ優勝戦メンバーは以下のとおり。
①毒島 誠(群馬)
②桐生順平(埼玉)
③茅原悠紀(岡山)
④馬場貴也(滋賀)
⑤池田浩二(愛知)
⑥関 浩哉(群馬)

いずれ劣らぬ強者ばかり。
勝敗の行方は未だ神のみぞ知る。
今年の艇界王者を争う6名、皆、勝ちたい思いは同じ。
僕はこの投稿直後、大阪へ向けて出発する。
結末を見届けるために。
毒島に精一杯の声援を届けるために。
                       
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ダンス・ライク・トーキング。

2024年12月10日 23時00分00秒 | 手すさびにて候。
                          
個人的に好きなアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の冒頭ナレーションは、
故「木村 幌(きむら・あきら)」氏のテノールがこう語り始める。

『無限に広がる大宇宙』

宇宙の大きさは、未だ解明されていない。
但し「ヒトが観測できる宇宙の大きさ」は分かっていて「137億光年」だという。
秒速30万kmで進む光が到達まで137億年かかる距離。
更に膨張を続けているらしい宇宙は、やはり無限と考えて差し障りないスケール感だ。

それだけ広い宇宙に星は幾つあるのだろう。
わが太陽系だけで、惑星・衛星・小天体が5000個程度。
太陽系を含む銀河系は、自ら光を発する恒星だけで2000億個あまり。
それぞれに5000が付属すると仮定して、概算1000兆個以上。
更に、宇宙には銀河系並みの集合体が数千億個あるとか。
何しろ膨大な星の海である。
どこかに「別の知的生命体」がいたとしても、不思議ではない。

もし「未知との遭遇」が成ったとしたら。
最初にコミュニケーションできるのは「ミュージシャン」と「ダンサー」かもしれない。
前者は楽器さえあれば、後者は己の身だけで、意志を伝えることができるのだから。
今回はその言語を超越した技のうち、舞踏にスポットを当て源流を辿ってみよう。
行先は、およそ5000年前のエジプトである。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百四十三弾「ナイルの踊り子」。



アフリカ北部、ナイル川の下流域。
古代エジプトは、紀元前3世紀に成立した人類最初期の王政国家。
以来3000年近く、代替わりと政権交代を繰り返し30以上の王朝が続いた。

その間、大ピラミッドを建造した測量技術や幾何学。
青銅(銅×錫)を用いた道具類と金属加工。
ミイラ加工にも応用された医療技術。
ナイル川の氾濫周期を予測するための太陽暦。
組織だった大規模灌漑農法に土木工法。
象形文字(ヒエログリフ)とそれを簡略化した書き文字(ヒエラティック)。
Paperの語源になったパピルス紙。
--- 等々、高度な文明を築いたのはご存じのとおり。

そんな古代エジプトに生きる人々にとって、踊りは生活に欠かせない行為。
理由の1つは、それが「宗教的儀式」だったから。
美しい肉体と美しい動き--- 言語を介さない表現方法を用い、
見えない神々を称え、死者の魂に語りかけたのだ。
やがて時代が下ると別の意味合いがプラス。
「娯楽」である。

古代エジプトは食文化も豊かだった。
「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」と言われるように、
全長6690kmの大河がもたらす肥沃な土地からは、多様な農産物が収穫できた。
富裕層はテーブルに各種のパン、家畜肉類、魚介、果物、ビール・ワインなどを並べ、
盛大なパーティーを頻繁に開催。
その場所に欠かせないキャストが、楽士と踊り子。
双方の担い手は殆どが女性。
彼女たちは神殿や葬祭殿に所属する、いわばプロ芸能集団である。
監督の元に統率され、冠婚葬祭、宴席でエンターテイメントを提供した。

残された彫刻・浮彫・彫像、壁画などに視る踊り子の露出度は押し並べて高い。
それが演出の一環なのか、何らかの意図があるのか。
どんな曲をバックに、どんなダンスをしていたのか定かではない。
だが、150年程前にフランスで出版された小説にこんな一節がある。

<果ては両膝を開いて、腹踊りを踊るエジプトの舞姫のように
 絶えず身体を細かく震わせながら、左右に揺すり、
 上体を腰の上で廻わすという奇妙な遊びにふけり出した>
(※「エミール・ゾラ」著/「ナナ」より引用抜粋

ここで言う「腹踊り」とは「ベリーダンス」のこと。
優雅でセクシー、官能美を特徴とするこの踊りも。
また、フラメンコをはじめ地中海地域に伝わる様々な伝統舞踊も。
起源を辿れば古代エジプトに行き着くとか。
遥か昔、ナイルの畔で生まれ育まれてきたダンスの遺伝子は所作となって語り継がれている。
                           
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