つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

旅の空の下、2024秋 第三弾。

2024年10月16日 21時21分21秒 | 旅行
                     
<はじめに>
先日、旅をした。
その様子を投稿する続篇。(⇒前々回コチラ/⇒前回コチラ
個人的な視点で綴る記録だが、何かしら共感や関心を呼び起こし、
思いを致してもらえたなら嬉しい限りである。

<本 編>
旅の2日目、投宿したのは京都府・福知山市(ふくちやまし)のビジネスホテル。
由良川流域の福知山盆地にひらける市域は、東西 37.1km、南北34.3km。
丹波地方中ほど、京都府北部に位置し、日本海側気候で豪雪地帯。
多くの幹線、鉄道が交錯する北近畿の交通の要衝である。



福知山の名付け親は戦国大名「明智光秀(あけち・みつひで)」という説が有力。
天正7年(1579年)、織田信長の命で丹波国を平定した光秀は、
砦跡を利用して福知山城を築き、以来、城下町として栄えてきた。

築城後、光秀は娘婿「明智秀満(ひでみつ)」を城代に据え統治を任せた。
本能寺の変を経て、羽柴(豊臣)秀吉と激突した山崎合戦など一連の顛末の中、
光秀や秀満は滅ぼされたが、その後、幾人かの城主を迎え改修と増築が進められた。
完成した福知山城は、由良川に対し伸びる丘陵を中心に、
城郭及び城下町周辺を堀で囲み、それらを一体的に構築した「惣構え」の平山城。
市中各所から天守の堂々とした立ち姿が目に入る。





福知山城の特徴の1つは、天守閣の石垣に使われた「転用石」。
総数500以上の五輪塔や仏塔、墓石などが石材として利用されている。
・大量の石材が近辺で調達できなかった。 
・突貫工事で築城する必要があった。
・旧勢力の権威を否定するため。
・新領主に従わない寺社勢力を戒めるため。
・仏のチカラで城を守護するため。--- 等々、理由は諸説アリ詳細は不明。
物言わぬ石は、光秀治世初期の福知山をあれこれと思い描くツールになる。



主君に弓引いた“謀反人”。
歴史上では後ろ暗い印象がつきまとう光秀だが、福知山に於いて名君の誉れ高い。
わずか3年あまりの短い統治期間の中で地子銭(じしせん/都市住宅税)の免除や、
治水事業を行うなど善政を敷いた。
福知山の町を流れる由良川は恵みをもたらす一方、度々水害を引き起こし、
古くから町に大きなダメージを与えてきた。
流域に残る「明智藪(あけちやぶ)」は水害対策として川の流れを変えた大堤防の跡とされる。



さて、現在の福知山城は、鉄筋コンクリート造の「再建天守」。
明治6年(1873年)、廃城令により天守周辺の石垣と一部を残し大半が失われたが、
戦後、市のシンボルとしての城再建の機運が高まる。
冷や水を浴びせたのはオイルショック、一時計画はとん挫した。
そこで市民による「瓦一枚運動」が起こる。
天守閣の瓦1枚分-1口3千円の寄附を募ると、8千以上の個人と団体が参画。
5億円を超える資金が集まり、昭和61年(1986年)に完成。
甍の裏には、墨字で寄進者全員の名が書かれているという。



福知山の城を後にした僕は、一路北西へハンドルを切り丹後半島の奥へ向かった。
目指すは「京丹後市・味土野(きょうたんごし・みどの)」。
「細川ガラシャ隠棲地」を訪ねるためだ。

明智光秀の三女「珠(=ガラシャ/以下統一)」は才色兼備のお姫様。
“魔王”信長の媒酌により、父の盟友「細川家」に嫁ぎ幸せに暮らしていたが、
本能寺の変で一転、逆臣の娘となり山深い地・味土野に幽閉された。
丸2年に及ぶ隠れ家生活の中で、キリスト教に救いを求めるようになり、
やがて洗礼を受け「ガラシャ(神の恩籠)」のクリスチャンネームを授かる--- 。

彼女をめぐる物語は、拙ブログ過去記事「花も花なれ 人も人なれ」に詳しい。
ともかくこの投稿をアップするにあたり調べ物をするうち、
現地へ行ってみたくなったことも、今回の旅の動機である。





果たして、そこは修験の山裾に位置する秘境。
車一台がやっと通れるだけの細い道をノロノロ運転で山の奥へ分け入る。
途中2度、大きな鹿と遭遇。
左右どちらにもハンドルを切れず、後進もできない。
危うくぶつかりそうになり肝を冷やした。





辿り着いた「細川ガラシャ隠棲地」には「女城跡」の案内。
盛り上がった土の上が住居があった場所。
城というより粗末な砦のような建物だったと推測。
そこから谷を隔てた尾根には監視警護する兵たちが駐留した「男城跡」がある。
足元に目を落とすと、鹿のフンを認めた。



“丹後のヒマラヤ”とも例えられる山中だ。
夏は獣害や虫害に悩まされ、冬は2mを超える雪で閉ざされる。
常に自然と闘いながら、刺客におびえながらの暮らし。
自身の運命を思い、呪い、死を見つめ、生について思索する日々。
『心細い幽閉生活は、彼女の心を“神の国”に近づける素因になった』
僕は、ここに身を置いてそう思った。

--- さあ、物思いに耽るうち陽が傾いてきた。先を急がねばならない。



京都府北西部に位置する宮津市(みやづし)の市域は、東西13km、南北24km。
天然の良港・宮津港を中心に日本海若狭湾に面し「天橋立」をはじめとする海岸線が伸び、
背後には大江山連峰~世屋高原などの尾根が迫る。
海と山に抱かれた風光明媚なところだ。
ここには「細川ガラシャ像」が立つ。



平成25年(2013年)、生誕450周年を記念し建立された。
波乱万丈の生涯の中で彼女が貫いた信念「祈り」がテーマ。
「カトリック宮津教会 聖ヨハネ天主堂」に隣接する広場中央、大手側河口を臨んで佇む。
ご尊顔はなかなかの美人さんである。
宮津は、彼女が前述・味土野に移送される直前まで過ごしたところ。
細川家は信長から丹後国を与えられ、夫とともに宮津城に入る。
父・光秀を招いた茶会が開かれたり、船上で天橋立の風景を愛でながら連歌会を催したり。
彼女の唇に笑みが絶えることはなく、心穏やかな時間に包まれていただろう。
まだ、未来に待つ悲運など知り得ない頃だ。





「カトリック宮津教会 聖ヨハネ天主堂」の竣工は、明治29年(1896年)。
長崎以外で現存する木造教会としては最古級。
京都府指定文化財に指定されている。
正面外観には、ロマネスク様式の半円形アーチ。
屋根は瓦葺きで、内部の床、柱、天井は木造。
床には畳も敷かれているとか。
開堂日は月・水・金の13:30~16:30。
是非とも見学したかったのだが、残念ながらタイミングが合わず叶わなかった。
致し方なし。またの機会に譲るとしよう。

<むすびに>
今回の旅、足を運んだ先はいずれも初訪問。
見知らぬ土地を独り気ままに彷徨うのは、何と楽しいことか。
帰途、それまでの道行きを振りかえると後ろ髪を引かれ、
つい、もう1泊していこうかなどと考えてしまった。
個人的にはよき思い出になった2泊3日の記録に、お付き合いありがとうございました。
                       
コメント (4)
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旅の空の下、2024秋 第二弾。

2024年10月14日 20時30分00秒 | 旅行
                           
<はじめに>
先日、旅をした。
その様子を投稿する続篇。(⇒前回コチラ
個人的な視点で綴る記録だが、何かしら共感や関心を呼び起こし、
思いを致してもらえたなら嬉しい限りである。

<本 編>
旅の初日、石川県・津幡町を出発した僕は、兵庫県南部・加西市(かさいし)を経て北上。
朝来市(あさごし)のビジネスホテルで草鞋を脱いだ。
ここは但馬地方の南端で、兵庫県南北の分水嶺。
南北およそ32km、東西24kmあまりの範囲に2万7千の人々が暮らす。

2日目、まず目指すは“天空の城”、国史跡「竹田城(たけだじょう)跡」だ。
--- がその前に、往路で“いい景観”に出会った。



播但自動車道の和田山JCTと和田山PAの間に架かるアーチ橋、
「虎臥城大橋(とらふすじょうおおはし)」(名称の由来は竹田城別名)。
前夜に降った雨が上がり、湿潤な空気に満ちた秋の朝。
霧に霞んで聳える12連の壮大なアーチに見惚れてしまう。
思わず路肩に車を寄せ数枚のスナップを収めた後、
再びハンドルを握り、最寄りの休憩処で駐車。
そこからおよそ2.5kmは、徒歩移動しなければならない。
息を切らし、汗を拭って歩くこと40分。
辿り着いた城跡に広がる眺めは、文字通り「格別」と言ってよかった。







<竹田城は、播磨・丹波・但馬の交通上の要衝に築城されました。
 築城当初の姿は不明な点が多いが、石垣遺構周辺に存在する曲輪から判断しますと、
 現在の本丸・天守台の存在する山頂部から三方に延びる尾根上に
 曲輪を連続的に配置し、堀切や堅堀で防御性を高めていたものと思われます。
 一方、織豊期以降の竹田城は、最高所の天守台(標高353m)をほぼ中心に置く
 石垣城郭となり---(中略)--- 倭城の築城形態に倣った作りとなっています。
 なお、竹田城の規模は、南北約400m、東西約100mを測り、
 今もなお当時の威容を誇っています。>
(※<   >内、公式パンフより抜粋、引用、原文ママ)

つまり、15世紀半ば、初期の姿は山岳部の地形を利用した土木防御施設。
やがて、戦国~安土桃山にかけ総石垣の城郭へと変貌。
その後、関ヶ原の戦いで西軍に組した城主は自刃し廃城、放置される。
400年の時が流れ上物は朽ち果てたが、矢玉を浴びずに済んだ石垣は風化を免れた。
城史を簡潔に要約すると、そんな感じだろうか?





ひとしきり散策を楽しんで駐車場へ戻り、休憩処2階の資料館へ。
上掲画像は、在りし日の復元想像模型である。
残念ながら建物に関する資料は、今後の歴史的発見に期待したいが現在皆無に近い。
こんな風に天守や輪郭があったのかどうか、詳細は不明だ。
しかし、高い山の上にあれ程立派な石垣を築くには、莫大なカネがいる。
たかだか2万石の領主にすればハードルが高い。
種明かしは次の訪問地--- “宝の山”があったからだ。



城跡から車で南へ30分走ったそこ、
山肌にぽっかりと口を開けているのは、史跡「生野(いくの)銀山」である。
発見は、平安初期と伝えられているが定かではない。
室町になり、但馬国守護が本格的な操業をスタート。
生野の豊富な銀が竹田城築城の元手になった。
やがて世が乱れると宝の山は数々の戦いを誘発し、“災いの山”にもなる。
時の支配者たち、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らは現地に奉行を置き直轄支配。
生野は、江戸幕府にとって佐渡、石見と並ぶ重要な拠点だった。

最盛期には、月間500kgを超える銀を産出し活況を呈した生野銀山。
ご存じの通り、銀は中世末~近世初期にかけ日本の貿易を支えた貴金属。
天下の台所・大坂を中心とした西日本一帯は、江戸期を通じて銀本位制。
政権財源の枠に収まらず、社会を支えた存在と考えられるかもしれない。



明治元年(1868年)日本初の官営鉱山に。
国家プロジェクトとして開発が加速した。
上掲画像門柱に菊の御紋があることから分かるように宮内省御料局所管を経て、
三菱に払い下げられ国内有数の大鉱山として稼働。
銀以外にも、銅やスズを産出して操業を続けたが、
昭和48年(1973年)、資源減少・鉱石品質の悪化から閉山。
その長い歴史に幕を下ろした。





鉱脈に沿って掘られた坑道は深さ880m、総延長は350kmに及ぶ。
地中の観光ルートを歩くと、生々しい手彫りのノミ跡から、
機械化された近代的な採掘作業の様子までが窺える。
太陽の光が届かない穴倉は、ひんやり涼しい別世界。
また、大勢の血と汗と涙を吸ってきた異世界だ。
様々なドラマが繰り広げられたに違いない。



さて、この日はもう一つ鉱業遺構を訪ねた。
生野銀山から山道を車で移動すること10数km、
古代ギリシャ・ローマの神殿を連想させる、大きなコンクリートの造作が出現。
「神子畑選鉱場(みこばたせんこうじょう)跡」だ。

元々、戦国時代に鉱山として栄えたが、生野にその地位を奪われる格好で休山。
300年が経った明治11年(1878年)銀鉱脈が発見され、再び採鉱開始。
だが、鉱石の出産量が不安定だった為、またもや閉山。
繁栄と衰退を繰り返した神子畑は、北西に6キロほど離れた鉱山の選鉱場となる。
スズ、銅、亜鉛、タングステンなど多品種が混ざった状態で運ばれてきた鉱石を、
山の斜面を利用し上から下へ運びながら、粉砕したり、すり潰したり。
液体状になった鉱石に、薬品を混ぜたり、比重によって選別を行ったりした。

神殿のような建造物は「シックナー」という工業装置。
天井部は、円すい状の底をもつ浅い円筒槽になっていて、
注ぎ込まれた鉱石交じりの液体をゆっくり回転させながら、濃縮・脱水。
鉱石と水分・薬品を分離した。



神子畑選鉱場は、かつて規模・産出量ともに「東洋一」と謳われた。
最盛期は3000を上回る人が働き、24時間稼働。
夜の山中で選鉱場が放つ灯りは不夜城のように見えたという。
活気に溢れていただろうことは想像に難くない。
しかし、それも今は昔。
昭和62年(1987年)、円高の急激な進行で競争力を失った鉱山の閉山に伴い、
選鉱場も操業を終了し閉鎖された。
刻下、建物の基礎だけが残り、錆の浮いた大型機械の残骸が静かに横たわっている。





眺めるうち、しとしとと雨が落ちてきた。
濡れたコンクリートから、微かに古びた匂いが立ち上り始めた。

<次回に続く>
                            
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旅の空の下、2024秋。

2024年10月13日 21時00分00秒 | 旅行
                             
<はじめに>
先日、旅をした。
行先は兵庫~京都、かつて播州・但馬・丹波・丹後と呼ばれたあたり。
これから数回に亘り、旅の様子を投稿したい。
個人的な視点で綴る記録だ。
冗長や偏りを感じたりするだろうが、よろしかったらお付き合いください。
そして、何かしら共感や関心を呼び起こし、思いを致してもらえたなら嬉しい限りである。
ではいざ---。

<本 編>
最初の訪問地は、兵庫県南部の播州平野ほぼ中央に位置する加西市(かさいし)。
人口4万人あまりの市域は、東西12km強、南北20km弱。
瀬戸内式気候に属する。
市の中心部を流れる川の西、鶉野(うずらの)台地には、昔、飛行場があった。
第二次世界大戦時、戦局が悪化しはじめた昭和18年(1943年)、
パイロットを養成する「姫路海軍航空隊」の基地が開設されたのだ。
訓練飛行に加え、ランウェイに隣接した工場で組立てた機体の試験飛行も実施された。
--- その傍に、加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」がオープンしたのは2年前である。





館内には、戦闘機の“実物大模型”を展示。
前述「川西航空機 姫路製作所 鶉野工場」で組立ていた「紫電改(しでん・かい)」と、
パイロット訓練に用いられた「九七式艦上攻撃機」だ。



「紫電改」は、紆余曲折を経て大空に辿り着いた傑作機。
開発史は、海軍が飛行艇や水上機に強い川西航空機に対し、
飛行場が造成できない島嶼部(とうしょぶ)で運用する水上戦闘機を求めたことに始まる。
高すぎる性能リクエストに苦しみながら「強風(きょうふう)」を完成させたが、
時間を要したため、既に他社の機体が採用されてしまっていた。
ならばと「強風」をベースにした陸上局地戦闘機「紫電(しでん)」を製造。
急ごしらえが災いしたのか--- 難点と利点、優と劣が共生する同機の評価は芳しくない。
しかし、川西のエンジニアたちはあきらめない。
技術的改良を加え、生産しやすさ資材節約の観点から部品数を大きく減らし簡略化。
名機「紫電改」が誕生した。

・2000馬力級エンジンが叩き出す最高速は、時速630km。
・操縦者を守る防弾装備、20mm機関砲4門の重武装。
・目まぐるしく変化する戦闘中の機体に最適な揚力を与える機構、自動空戦フラップ。
これら高性能を以て強力な米機と互角に渡り合い、
B29による本土空襲が激しさを増す大戦末期、日本の防空を担った。



上掲画像の天井から吊り下げられた機体「九七式艦上攻撃機」は、
日本海軍初の全金属製の低翼単葉機。
昭和16年(1941年)12月8日、鮮烈なデビューを飾る。
日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾への奇襲で、
米太平洋艦隊に対し魚雷攻撃を仕掛け大打撃を与えた。
ちなみに「トラ・トラ・トラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)」の暗号電は、
この機体から打電されている。
大戦初期は戦場各地を飛び回るも、速力不足などから戦争半ば以降は主役の座を降り、
姫路海軍航空隊では、訓練機材として転用されていた。



だが、戦局悪化に伴い「九七艦攻」は、再び第一線に駆り出されることになる。
昭和20年(1945年)2月、姫路の練習航空隊は実戦部隊に再編。
特別攻撃隊「白鷺隊(はくろたい/姫路城別名・白鷺城から命名)」として、鹿児島へ進出。
“時代遅れの艦攻”は800kg爆弾を抱いて、若者たちと共に沖縄の空に散った。



「soraかさい」前に、白鷺隊、飛行場建設について刻んだ平和祈念の碑が建つ。
また滑走路跡周辺には、戦時遺構が点在。
ざっと紹介していきたい。




機銃座跡
 滑走路を越え、左右に田園を眺めながら歩くうち機銃座跡の囲いが視界に入る。
 低空から侵入してくる敵機に対する対空機銃。
 飛行場周辺には5ヶ所設置された。
 温室のようなガラス張りの中には実物大の対空機銃模型が展示。
 平成17年(2005年)公開の映画『男たちの大和』の撮影に使用されたものだ。


巨大防空壕跡
 上部が草で覆われ、遠目には小さな丘のように見えるのはカモフラージュのため。
 地下に広がる、奥行き14.5m、幅5m、高さ5mの空間は発電施設として使われていた。
 そこを利用し、令和2年から巨大防空壕シアターを開設。
 CGを交えた映像で「白鷺隊」隊員たちの遺書を公開しているとのこと。
 入場無料で、ガイドによる説明、映像の視聴が可能ながら、事前予約制で日程限定。
 あいにく僕の訪問時はタイミングが合わなかったのが残念でならない。


防空壕跡
 コンクリート製の強固な防空壕。
 内部は30名ほどが入れるスペースで、換気口も設けられていた。
 竹藪に覆われた2つの出入口の中は凸型に屈曲して繋がり、爆風を防ぐ構造である。




爆弾庫跡
 見るからに頑丈そうな分厚い1mコンクリート造。
 アーチ状の天井部はショックに強く、前面には爆風から格納品を守る土堤。
 強度は、今尚健在との事だ。



姫路海軍航空隊鶉野飛行場が、歴史上に存在した期間は僅か3年に満たない。
甲子園球場およそ70個分に相当する広大な敷地にはパイロット以外にも、
整備、兵科、運用、主計、航海、機関、通信、工作、兵器、砲術、医務など、
多岐に及ぶ任務をこなす兵士たちがいた。
全長1200m、幅45mの滑走路跡に佇み、
彼らの息遣いを胸いっぱいに吸い込んだ時、
僕の心は束の間---79年前の夏の空へ飛んだ。

<次回に続く>
                        
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続・湖国小旅行 2024夏。

2024年08月25日 20時46分46秒 | 旅行
                        
前回投稿の続篇。
びわこ競艇場で4つのレースへの投票を終えた僕は、
結果を待たず次なる訪問地へ向けハンドルを切った。
大津市街中心部から車で20~30分の地点にある「坂本」は、比叡山延暦寺の門前町。
昨年は戦国期の石工集団・穴太衆(あのうしゅう)が築いた石垣(LINK)を見に出かけたが、
今年の目当ては「比叡山鉄道 坂本ケーブル」である。





門前町の坂本と延暦寺を結ぶ比叡山坂本ケーブルの歴史は古い。
開業は昭和2年(1927年)。
その少し前、大正14年(1925年)に完成したのが、前掲の駅舎だ。
往時の姿を留める洋風木造二階建の建物は、国の登録有形文化財に指定されている。
雑木林に囲まれ、蝉時雨に包まれた駅舎外観には、風格が漂う。
内装も木造のベンチが置かれ、乳白色ガラスの照明など雰囲気があったのだが、
他のお客さんも多く撮影を遠慮した。







京阪グループ比叡山鉄道によって運営されているケーブルカーは、全長2,025m。
日本一の長さを誇る。
急勾配に沿うため車両は平行四辺形。
車内もホームも階段状になっている。
車両にエンジンは付いておらず、レール上にあるロープを車両に接続し、
頂上からモーターで巻き上げる「つるべ式」で登り降りする。
その間、車窓に広がる比叡山の自然は美しく、登るにつれて涼しさが増す。
所要時間は11分。
降り立った山頂の「延暦寺駅」からは、琵琶湖が一望できた。



そこから徒歩10分。
木立の間を抜け、苔むした石仏の前を通り、比叡山延暦寺に到着。







ご存じの方も多いだろうが、比叡山に延暦寺という建物はない。
比叡山そのものが延暦寺を表し、
東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の3地区に分かれている。
近江出身の平安時代初期の僧侶「最澄」が開いた天台宗の総本山は、
数々の歴史に彩られてきた。
特に知られるそれは「織田信長による焼き討ち」だろう。





その発端は、姉川の合戦後、敗走する浅井・朝倉の軍勢を比叡山が匿ったこと。
数千の僧兵を抱える一大軍事力に対し「信長」は、
『中立を守って欲しい。 傍観してくれれば所領は侵さない。
 しかしあくまで浅井・朝倉に肩入れするなら容赦しない』と伝達。
比叡山は態度を示さず、黙殺。
「信長」は軍勢を動員して比叡山を囲んだが、この時は大事に至らず。
近畿一円の仏教勢力が「信長」に反発したため、渋々手を引いた格好。
“魔王”の胸中に遺恨の火が灯った。

翌年、諸勢力を各個撃破し体制を整えた「信長」は、比叡山攻めに取り掛かる。
元亀2年(1571年)晩夏、総攻撃開始。
建物ことごとくを焼き、経典類は灰燼に帰し、高僧も稚児も女も首をはねられた。
---と『信長公記』にはあるが、発掘調査の結果、焼き討ち時に焼失したのは
前掲画像「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」(※現在大改修中)と、
「大講堂(だいこうどう)」のみという説もある。



史実詳細は分からないが、比叡山延暦寺での出来事が強烈なメッセージとなったのは明らか。
『敵対する者はたとえ宗教的権威であろうと容赦なく滅ぼす!』
天下布武のため「信長」が人ならぬ領域へ一歩を踏み出した瞬間だったのかもしれない。



かつては大陸から導入された仏教の道場となり、
やがて血塗られ業火に焼かれ動乱の舞台となり、
歴史に名を刻んだ比叡山延暦寺。
今はただ静かな時が降り積もる。
ひとしきり感慨に浸った僕は、帰りのケーブルカーに乗って麓に戻った。
そして、スマホで投票したレースの結果を知る。

わが舟券、全敗---。

思い通りにいかないのが旅であり、人生もまた然り。
肩を落として琵琶湖を後にした、夏の思い出である。
                      
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湖国小旅行 2024夏。

2024年08月24日 14時14分14秒 | 旅行
                       
猛暑・酷暑の夏、少々夏バテ気味だ。
体力・気力が萎え、忙しさにかまけてブログ更新も滞りがち。
久しぶりの投稿である。

--- さて先日、仕事の合間をぬって日帰り旅に出かけた。
行先は滋賀県・大津、びわこ競艇場他。
賭け事も楽しみなのだが、毎年「夏の琵琶湖」の景観を味わいに行くのは、
個人的に欠かせない恒例行事となっている。



往路途中に立ち寄った北陸自動車道のPA「杉津(すいず)」。
福井県・敦賀市にあるここは、廃線となった国鉄北陸線・杉津駅の跡。
かつては機関車が煙を上げて峠をスイッチバックとトンネル群で越え、
北陸線屈指の車窓風景とだったと聞く。
確かに眺めが良い。
駐車場~道路越しに広がる日本海・若狭湾を望み一息ついていると、句碑を発見。



名月や 北國日和 定なき(めいげつや きたぐにびより さだめなき) 芭蕉

<芭蕉が月の名所と呼ばれる敦賀の港に到来したのは元禄二年八月十四日で、
 翌日の中秋観月が目的である。
 待望の十五夜は雨月となってしまったが、
 はかり難い越後路の陰晴に翁は北陸の風情をひとしお感じて、
 この句を「おくのほそ道」に遺した。>(※<  >内句碑傍の解説パネルより引用)

今宵は煌々たる秋の月を期待していたが、あいにくの雨。.
昨夜の晴れがウソのよう。北陸の天気は変わりやすく、それだけに味わい深い。
肩を落としながらも自然の営みに感慨を抱く。
思い通りにいかないのが旅であり、人生もまた然り。
そんな作者の面持ちが偲ばれる一句である。

この句碑が建立されたのは昭和63年(1988年)。
北陸道が全通したタイミングは「奥の細道」の旅から300周年。
これを記念して北陸を通りかかった際に詠んだ一連の歌を石に刻み、
幾つかのSA・PAに置いたうちの一つだ。



しばし俳聖の姿に思いを馳せていたら空腹を覚え、
PA内のレストランで「越前おろしそば」をいただいた。
喉越しよく美味しかったが、残念なのは「辛味大根」じゃなかった点。
ツンと鼻に抜ける爽やかな辛味を期待していたが違った。

まあ、「芭蕉」先生に倣い、思い通りにいかないのも旅の醍醐味。
そう考えるとしよう。
何しろ訪問先の競艇などは「不如意」そのものなのだから。



今年はあいにく雲量が多く薄曇りだったのが玉に瑕ながら、
やはり夏のびわこ競艇場は風光明媚だと思う。
碧い水、青い空、白い雲。
遊覧船ミシガンやヨットが行き交う湖面。
現れては消える、モーターボートの描く航跡。
静と動が交錯する「借景」パノラマのようだ。





当日は4日間開催の2日目、予選最終日。
競艇は1日12回のレースが行われる。
銭を張るのは後半戦と決めていて、
各人機の調子を見極めようと、到着からしばらくは観戦に徹した。
自分なりにデータを収集し、8レース、10レース、11レース、12レース、
計4つのレースに投票することに。
あとは買い目をどうするかだ。



一旦、場内2階の食堂に落ち着き「ホルモンうどん」を注文。
スープは醤油仕立て。
甘辛く煮込んだ牛のフワ(肺)をたっぷりのせた麺が、実に旨い。
びわこ競艇に来たら外せないメニューとなっている。
舌鼓を打ちながら沈思黙考。
マークシートに記入して投票を終えた僕は、結果を見ずに競艇場を後にした。
もう一つ、訪れたい場所があったからだ。

※次回へ続く
                          
コメント
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