<はじめに>
先日、旅をした。
その様子を投稿する続篇。(⇒前々回コチラ/⇒前回コチラ)
個人的な視点で綴る記録だが、何かしら共感や関心を呼び起こし、
思いを致してもらえたなら嬉しい限りである。
<本 編>
旅の2日目、投宿したのは京都府・福知山市(ふくちやまし)のビジネスホテル。
由良川流域の福知山盆地にひらける市域は、東西 37.1km、南北34.3km。
丹波地方中ほど、京都府北部に位置し、日本海側気候で豪雪地帯。
多くの幹線、鉄道が交錯する北近畿の交通の要衝である。
福知山の名付け親は戦国大名「明智光秀(あけち・みつひで)」という説が有力。
天正7年(1579年)、織田信長の命で丹波国を平定した光秀は、
砦跡を利用して福知山城を築き、以来、城下町として栄えてきた。
築城後、光秀は娘婿「明智秀満(ひでみつ)」を城代に据え統治を任せた。
本能寺の変を経て、羽柴(豊臣)秀吉と激突した山崎合戦など一連の顛末の中、
光秀や秀満は滅ぼされたが、その後、幾人かの城主を迎え改修と増築が進められた。
完成した福知山城は、由良川に対し伸びる丘陵を中心に、
城郭及び城下町周辺を堀で囲み、それらを一体的に構築した「惣構え」の平山城。
市中各所から天守の堂々とした立ち姿が目に入る。
福知山城の特徴の1つは、天守閣の石垣に使われた「転用石」。
総数500以上の五輪塔や仏塔、墓石などが石材として利用されている。
・大量の石材が近辺で調達できなかった。
・突貫工事で築城する必要があった。
・旧勢力の権威を否定するため。
・新領主に従わない寺社勢力を戒めるため。
・仏のチカラで城を守護するため。--- 等々、理由は諸説アリ詳細は不明。
物言わぬ石は、光秀治世初期の福知山をあれこれと思い描くツールになる。
主君に弓引いた“謀反人”。
歴史上では後ろ暗い印象がつきまとう光秀だが、福知山に於いて名君の誉れ高い。
わずか3年あまりの短い統治期間の中で地子銭(じしせん/都市住宅税)の免除や、
治水事業を行うなど善政を敷いた。
福知山の町を流れる由良川は恵みをもたらす一方、度々水害を引き起こし、
古くから町に大きなダメージを与えてきた。
流域に残る「明智藪(あけちやぶ)」は水害対策として川の流れを変えた大堤防の跡とされる。
さて、現在の福知山城は、鉄筋コンクリート造の「再建天守」。
明治6年(1873年)、廃城令により天守周辺の石垣と一部を残し大半が失われたが、
戦後、市のシンボルとしての城再建の機運が高まる。
冷や水を浴びせたのはオイルショック、一時計画はとん挫した。
そこで市民による「瓦一枚運動」が起こる。
天守閣の瓦1枚分-1口3千円の寄附を募ると、8千以上の個人と団体が参画。
5億円を超える資金が集まり、昭和61年(1986年)に完成。
甍の裏には、墨字で寄進者全員の名が書かれているという。
福知山の城を後にした僕は、一路北西へハンドルを切り丹後半島の奥へ向かった。
目指すは「京丹後市・味土野(きょうたんごし・みどの)」。
「細川ガラシャ隠棲地」を訪ねるためだ。
明智光秀の三女「珠(=ガラシャ/以下統一)」は才色兼備のお姫様。
“魔王”信長の媒酌により、父の盟友「細川家」に嫁ぎ幸せに暮らしていたが、
本能寺の変で一転、逆臣の娘となり山深い地・味土野に幽閉された。
丸2年に及ぶ隠れ家生活の中で、キリスト教に救いを求めるようになり、
やがて洗礼を受け「ガラシャ(神の恩籠)」のクリスチャンネームを授かる--- 。
彼女をめぐる物語は、拙ブログ過去記事「花も花なれ 人も人なれ」に詳しい。
ともかくこの投稿をアップするにあたり調べ物をするうち、
現地へ行ってみたくなったことも、今回の旅の動機である。
果たして、そこは修験の山裾に位置する秘境。
車一台がやっと通れるだけの細い道をノロノロ運転で山の奥へ分け入る。
途中2度、大きな鹿と遭遇。
左右どちらにもハンドルを切れず、後進もできない。
危うくぶつかりそうになり肝を冷やした。
辿り着いた「細川ガラシャ隠棲地」には「女城跡」の案内。
盛り上がった土の上が住居があった場所。
城というより粗末な砦のような建物だったと推測。
そこから谷を隔てた尾根には監視警護する兵たちが駐留した「男城跡」がある。
足元に目を落とすと、鹿のフンを認めた。
“丹後のヒマラヤ”とも例えられる山中だ。
夏は獣害や虫害に悩まされ、冬は2mを超える雪で閉ざされる。
常に自然と闘いながら、刺客におびえながらの暮らし。
自身の運命を思い、呪い、死を見つめ、生について思索する日々。
『心細い幽閉生活は、彼女の心を“神の国”に近づける素因になった』
僕は、ここに身を置いてそう思った。
--- さあ、物思いに耽るうち陽が傾いてきた。先を急がねばならない。
京都府北西部に位置する宮津市(みやづし)の市域は、東西13km、南北24km。
天然の良港・宮津港を中心に日本海若狭湾に面し「天橋立」をはじめとする海岸線が伸び、
背後には大江山連峰~世屋高原などの尾根が迫る。
海と山に抱かれた風光明媚なところだ。
ここには「細川ガラシャ像」が立つ。
平成25年(2013年)、生誕450周年を記念し建立された。
波乱万丈の生涯の中で彼女が貫いた信念「祈り」がテーマ。
「カトリック宮津教会 聖ヨハネ天主堂」に隣接する広場中央、大手側河口を臨んで佇む。
ご尊顔はなかなかの美人さんである。
宮津は、彼女が前述・味土野に移送される直前まで過ごしたところ。
細川家は信長から丹後国を与えられ、夫とともに宮津城に入る。
父・光秀を招いた茶会が開かれたり、船上で天橋立の風景を愛でながら連歌会を催したり。
彼女の唇に笑みが絶えることはなく、心穏やかな時間に包まれていただろう。
まだ、未来に待つ悲運など知り得ない頃だ。
「カトリック宮津教会 聖ヨハネ天主堂」の竣工は、明治29年(1896年)。
長崎以外で現存する木造教会としては最古級。
京都府指定文化財に指定されている。
正面外観には、ロマネスク様式の半円形アーチ。
屋根は瓦葺きで、内部の床、柱、天井は木造。
床には畳も敷かれているとか。
開堂日は月・水・金の13:30~16:30。
是非とも見学したかったのだが、残念ながらタイミングが合わず叶わなかった。
致し方なし。またの機会に譲るとしよう。
<むすびに>
今回の旅、足を運んだ先はいずれも初訪問。
見知らぬ土地を独り気ままに彷徨うのは、何と楽しいことか。
帰途、それまでの道行きを振りかえると後ろ髪を引かれ、
つい、もう1泊していこうかなどと考えてしまった。
個人的にはよき思い出になった2泊3日の記録に、お付き合いありがとうございました。