つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

逆転!また逆転!!

2022年11月27日 20時30分00秒 | 賭けたり競ったり
                       
本日(2022/11/27)は「スポーツ特異日」と言えるかもしれない。

サッカーワールドカップ「日本代表 VS コスタリカ代表」。
大相撲九州場所 千秋楽。
全日本実業団女子駅伝。
競馬「G1 ジャパンカップ」。
競輪「G1 競輪祭 決勝戦」。
そして、競艇「SG チャレンジカップ 優勝戦」。
      「G2 レディースチャレンジカップ 優勝戦」。

---とまあ、ビッグマッチが目白押し。
僕が一番の関心を以て注目したのは、
もちろん徳島県・鳴門競艇場に於いて行われた競艇である。



前述のとおり、今節は2つのカテゴリーが同居。
「SG 第25回チャレンジカップ」と、
「G2 第9回レディースチャレンジカップ」を並行開催。
男女共に“チャレンジ”とあるように、
どちらも年間チャンピオン決定戦進出を目指す最後の関門なのだ。

「レディースチャレンジカップ」優勝戦、
6日間の激闘を勝ち抜いて最後の6ピットに舳先を進めたのは以下のメンバー。

1号艇:高田ひかる(三重)
2号艇:細川裕子 (愛知)
3号艇:田口節子 (岡山)
4号艇:守屋美穂 (岡山)
5号艇:中村桃佳 (香川)
6号艇:鎌倉 涼 (大阪)

鍵を握るのは、6号艇の「鎌倉」。
戦前までの賞金ランキングは、年間チャンピオン決定戦への参加圏外。
真の意味で彼女だけがチャレンジャー、と言ってよかった。

果たして、レースはその気概が現れた展開に。
「鎌倉」が大外の枠番から果敢に回り込み、前へ付けた。
進入隊形は、スロー1236/ダッシュ45。
スロー勢の起こし位置が深くなった。







たっぷり助走距離を取った青いカポックの「守屋」がスタート攻勢。
一気に内側を捲りにいく。
しかし、1号艇がブロック。
もつれ合う間隙を突いて黄色い閃光が駆け抜けた!
結果は、5-4-2(三連単配当:36,790円)。
展開に恵まれたとはいえ、大外から見事な操船で立ち回った「中村桃佳」が優勝。
おめでとう!



続く「チャレンジカップ」優勝戦、
6日間の激闘を勝ち抜いて最後の6ピットに舳先を進めたのは以下のメンバー。

1号艇:山口 剛(広島)
2号艇:石野貴之(大阪)
3号艇:片岡雅裕(香川)
4号艇:平本真之(愛知)
5号艇:篠崎仁志(福岡)
6号艇:深谷知博(静岡)

この中で「平本」「篠崎」「深谷」の3名が、戦前までランキング圏外。
年間チャンピオン決定戦に進出するには、準優勝以上が必要。
また「山口」は今年初のSG戴冠が、
「石野」「片岡」は年間チャンピオン決定戦でのアドバンテージ獲得がかかる。
それぞれの立場で目指す高みを睨むチャレンジャーだった。

図らずもレースは前述女子優勝戦と似た展開になる。
スタート隊形は、スロー123/ダッシュ456。
スタンダードな並びから飛び出したのは「平本」。
またしても青いカポックが攻勢を仕掛けた。





スタートラインを越えてから半ば強引に捲りにいく。
しかし、3号艇と2号艇に弾かれバランスを失う。
「危ない!」
多重事故を誘発しかねない様相だったが、皆、冷静に立て直す。
アクシデントの影響が少なかった1号艇「山口」が真っ先にターン。
混乱をすり抜けてきた5号艇を振り切って、次のターンへ。
「勝負あったか?!」
---と思った瞬間、旋回が大きく膨れた。
後続を抑え込むために勢いが付き、進入角度が浅過ぎて周りシロがなかったのだ。





「山口」にとっては口惜しい展開。
「深谷」にとっては幸運の後押し。
ぽっかりと開いたスペースを軽やかに緑の風が吹き抜けていった。
結果は、6-1-2(三連単配当:44,640円)。
この優勝で、年間賞金ランキングは20人以上をごぼう抜き。
まさにチャレンジ成功である。
おめでとう!



競艇優勝戦の枠番は、その節の成績優位順によって振り分けられる。
最内1コースが最上位者で最も有利(とされる)な位置。
大外6コースが最下位者で最も不利な位置。
今回は男女共に、大外から乗艇したレーサーが優勝。
文字通り大逆転劇の連続で幕を下ろした。

さあ、これで2022年最終決戦に臨むメンバーが決定。
僕がエールを送る「毒島 誠」はフライング休みの為に今節出場が叶わず、
ランキングの最終順位は12位。
年間王者決定戦「グランプリ」は一次予選から戦うことになる。
彼の下克上を願って止まない。
                       
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As time goes by TSUBATA.

2022年11月26日 21時00分00秒 | 大西山の丘辺に立てば。
                      
わが津幡町の歴史的な遺物と言えば「加賀郡牓示札(かがぐん ぼうじふだ)」だ。
※牓示 ≒「掲示する」


石川県立歴史博物館HPより拝借)

津幡町・加茂(かも)の「加茂遺跡」から出土した平安時代の文書木簡で、
少々乱暴に言えば「時の行政がヒノキの板に書いた命令書」。
その内容から、当時の生活や古代の物流の一端が分かる。
その後、加賀藩・前田家が、津幡村、清水村、庄村、加賀爪村で宿場を整備。
そして、明治22年(1889年)、上記4つの村が合併。
津幡町が誕生した。
当時の戸数700余り、人口は3千人弱だったという。
以後、周辺地域の合併・編入を経た現在、
町の様相は1万5千世帯余り、人口3万7千人を数えている。





「津幡小学校」校舎を望む「ふれあい広場」には、
「町政100年記念タイムカプセル」が埋設されている。
封印が解かれるのは17年後(2039年)になるのだろうか?

--- さて、前掲画像に写るわが母校が産声を挙げたのは、
町の誕生より古い明治6年(1873年)5月1日。
間もなく「創立150年」である。
本日(2022/11/26)、その節目の記念事業について、
卒業生有志応援団とPTA現職による何度目かの会合が開催。
応援団の末席に名を連ねる僕も出席した。



僕の所属は「記念誌部会」。
関係各位の尽力によって、作業スケジュールが具体化し、役割分担も固まりつつある。
年が明けたら、諸々急ピッチで進行してゆくことになりそうだ。
詳細は続報にて。
                      
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津幡短信vol.108. ~ 令和四年 新嘗祭 。

2022年11月23日 15時00分00秒 | 津幡短信。
                            
津幡町で見聞した、よしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
今回の投稿は、以下の2本。

【収穫祭。】



町内の案内掲示板に、上掲の紙が張り出されてしばらくが経ち、
当日(2022/11/23)を迎えた。
現在、11月23日は「勤労感謝の日」だが、
かつては「新嘗祭(にいなめさい)」だったのはご存じのとおり。
「新嘗祭」は、その年の「五穀」や「新酒」を神々に供える儀式。
国を挙げての「収穫祭」である。

特に重要な農産物は稲(米)だ。
何しろ昔の日本は「米本位制」。
米の収穫高が大名のランクに反映されたり。
納税は「年貢米」だったり。
米が通貨の代わりとなる経済体制で、自然科学が未発達の頃、
「新嘗祭」の重要度は推して知るべし。

その名称が変更されたのは、昭和23年(1948年)。
当時日本を統治していた「GHQ」が、
敗戦前の習わしを改めようと考え命じた為というのも、つとに有名なハナシだ。



本投稿1枚目の画像にある感謝祭が行われるのは、
津幡町・庄(しょう)地区の鎮守「住吉神社」。
その境内、小高い山の中腹に建つ社(やしろ)のやゝ下には句碑が佇む。



梅さくや 鳥居をくゞる 朝こゝ路 - 我流
<俳人・矢田我柳(やた・がりゅう)は1812(文化9)年に
 津幡町庄の造り酒屋、矢田与三吉の3男として生まれ、名前は吉五郎といいました。
 俳諧(はいかい)を金沢の桜井梅室(さくらい・ばいしつ)に学び、
 我流、一水庵、蒼雪、見風舎などと号しました。
 また、和歌を京都の冷泉為理(れいぜい・ためただ)卿に師事し、
 和歌の雅号は豊風と名乗っていました。
 各地の俳人、歌人と交わり、風流を極め、
 1879(明治12)年に67歳でその生涯を閉じました。>
(※津幡町観光ガイドHPより抜粋/引用)
               
【農閑期の体育祭。】





本日(2022/11/23)は「第101回 河北潟一周駅伝競走大会」開催当日。
コースは、県内最大の水辺「河北潟(かほくがた)」外周26.7km。
津幡町~かほく市~内灘町と、全6区画でタスキをつないだ54のチームが、
沿道の声援を背に駆け抜けた。



<河北潟一周駅伝競走大会は、
 大正6、7年頃花園村青年団や英田青年団が別々に開催していた河北潟一周競走を
 河北郡連合青年団が統一して、大正9年11月23日新嘗祭の記念行事の一環として、
 農繁期の郡内各青年団を一同に集めて開催したのが始まりです。
 以降、昭和19年と令和2年に中止した以外は国内でも他に類を見ない位、
 永きにわたって受けつがれ、令和4年で第101回を迎えます。
 現在行われている駅伝の中では東京箱根大学駅伝に次いで古く、
 回数においては東京箱根大学駅伝を2回上回る日本最高を誇っています。>
(※河北郡市陸上協会 大会公式HPより引用/一部編集抜粋)

昭和19年は「太平洋戦争」。
令和2年は「パンデミック」。
前世紀から続く中で2度のつまづきは、いずれも致し方ないところ。
歴史を振り返ってみれば、第一回大会開催のタイミングは「戦後恐慌」だ。
日本が第一次世界大戦後の大不況に突入し、全国的に混乱した。
北陸の片田舎も無傷ではいられなかっただろう。

もしかすると「河北潟一周駅伝競走大会」の起こりには、
不安や憂いを払う願いも込められていたのではないのだろうか。
--- そんな想像をしてしまうのである。
                         
<津幡短信 vol.108>
                    
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近現代史奇譚~満州お菊。

2022年11月20日 18時00分00秒 | 手すさびにて候。
                         
拙ブログをご覧の皆さんは「馬賊(ばぞく)」をご存じだろうか?
              
海上で、船や沿岸で略奪行為をするのが「海賊」。
山中を根城にし、通行人などを襲うのが「山賊」。
「馬賊」は、かつて中国東北部(満州)に出没した「騎馬武装団」である。

その起こりは、中国最後の王朝「清」の末期。
時の政権が急速に衰えてゆき、国の治安は大いに乱れた。
秩序と安全を維持する警察行政が消えた満州は、一種の空白地帯となる。
そこで、住民たちは「自警団」を結成。
武器の扱いに長け、機動力に優れた馬を乗りこなすグループが外敵を退けた。
それらは次第に組織化し、離合集散を繰り返しながら勢力を拡大してゆく。

法に縛られない馬賊はアウトローだったが、ならず者ばかりではない。
強盗などの悪事を働く輩がいる一方、貨物や人員の輸送の護衛を請け負った。
中には、日本軍の謀略工作に加担したり、
逆に、対日レジスタンス活動を行うものもいたという。

--- 恐れられ、嫌われ、頼りにもされた“自由の民”。
「馬賊」を定義するならそうなるだろうか。
また、馬賊には日本人もいた。

俺も行くから 君も行け
狭い日本にゃ 住み飽いた
浪の彼方にゃ 支那がある
支那にゃ 四億の民が待つ

国を出た時ゃ 玉の肌
今じゃ 槍傷刀傷
これぞ誠の 男子じゃと
微笑む面に 針の髭

大正の流行歌『馬賊の歌』のように、大陸雄飛を夢見た男たちが海を渡った。
そして、少なくない数の女たちも荒波を越えた。
だが、彼女らが抱えた事情はロマンとは程遠かった 。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百十四弾「満州お菊」。



後に「満州お菊」の異名で呼ばれることになる「山本菊子」は、
いわゆる“からゆき(唐行き)さん”だった。

彼女は、明治17年(1884年)熊本県・天草で生まれる。
ここは、大きな平野がなく耕地の少ない生産力の低い土地。
貧困や人口過多などを解消するため、幕末から昭和初期にかけ、
累計20万とも30万ともされる貧農の娘たちを“輸出”した。
多くがアジア各地の娼館などで働いたという。

「菊子」もその1人。
7歳の時に売り飛ばされて、朝鮮へ。
最初は料理屋の女中となり、数年後、女郎屋へ転売された。
やがて「日露戦争」後、日本による満州開発の始まりを見て取った彼女は、
鞄1つを携えて北を目指すのだった。

鉄路を乗り継ぎ降り立ったのは「奉天(ほうてん/現 遼寧省瀋陽市付近)」。
ここでも春を売り、糧を得る。
相変わらず環境は苛酷ながら「菊子」は逞しかった。

前述した料理屋では、飲食・サービス業のノウハウを取得。
馴染み客を観察し様々なことを吸収した。
官僚からは、権力者の思考や振る舞いを。
軍人からは、軍隊の規律や行動様式の一端を。
朝鮮・中国・ロシア語にも通じるようになった。
こうして寝物語で身に着けた知識と身体を張って培った人脈が、
「菊子」の運命を大きく変えることになる。

ある日、一人の男が憲兵に逮捕された。
名前は「孫花亭(そん・かてい)」。
満州‐朝鮮国境周辺をテリトリーにする馬賊の頭目だ。
彼が率いる集団は“抗日的”とされ、斬首される直前、
「菊子」の執り成しのお陰で「孫」は一命を取り留めたという。
何故 救いの手を差し伸べたのか?
どうやって軍を説得したのか?
どんな思惑が絡んでいたのか?
詳細は不明ながら、彼女の胆力と行動力、影響力が働いた結果と推測する。

ともかくこれを機に、2人は惹かれ合う。
現場に復帰した「孫」の傍らには「菊子」が寄り添っていた。
言わば、馬賊の“姐さん”となった彼女は、
持ち前の美貌と聡明さで手下たちから慕われ、次第に存在感を増す。
聞き覚えた日本軍のルールとシステムを導入し、組織の強化に寄与。
更に、他グループとの縄張り争いを仲介するなど、勢力拡大にも貢献。
「孫」を支える女傑の噂は風に乗って伝播し、万人が知るところに。
「満州お菊」の誕生である。
以降しばらく、彼女は大馬賊団を率いて大陸の平原に蹄音を轟かせたのだ。

--- さて、少し時計の針を進めよう。

明治43年(1910年)日本による韓国併合。
ほゞ同時期、清朝が滅亡し、中華民国が勃興。
大正3年(1914年)第一次世界大戦勃発。
ロシア革命前夜。

歴史の大河が轟々と音を立てて流れ始めた頃、
「満州お菊」の姿は、アムール川(黒龍江)の畔の国境の町・ブラゴエシチェンスクにあった。
酒場「オーロラ宮殿」を仕切る女将が「菊子」。
店のオーナーは、馬賊稼業から足を洗った「孫花亭」。
国境を行き来する商売人や正体不明の男たちが集い、
情報収集の拠点になると目を付けた関東軍の庇護も受け、繁盛したという。
しかし、10年に満たず暖簾を下ろす。
「菊子」は病の床に就いた。

そして、大正12年(1923年)、辺りを白いアカシアの花が彩る春。
愛する男に看取られ死出の旅に出る。
ソビエトが産声を挙げた翌年、満州国樹立の9年前。
40に手が届くかどうかの幕引き。 波乱万丈の人生だった。

< 後  記 >

「お菊さん」に関する史料は乏しい。
ネットを探してみても納得のいくものには行き当らず、記載種の数も多くない。
拙文と異なる内容、異なる時系列も散見される。
彼女の実像は、幾つかの伝承を元に推し量るしかないのだ。
ただ、まったくのフィクションかと言えば、そうではない。
今投稿は、混迷の時代と混沌の大地に於ける“近現代史奇譚”。
--- とでも捉えてもらえれば幸いと考えている。

(※奇譚(きたん)/珍しい話。不思議な物語)
                           
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くもり硝子の向うは 津幡町。

2022年11月19日 22時32分32秒 | りくすけ
                     
♪~くもり硝子の向うは風の街

そんな歌い出しの「ルビーの指輪」がリリースされたのは、
昭和56年(1981年)。
今(2022年)から40年以上前の流行歌なのだが、空で口ずさめてしまう。
「松本 隆」氏が仕掛けた言葉の魔法なのか。
「寺尾 聡」氏のメロディとボーカルの成せる業なのか。
どちらに(どちらともが要因だと)しても、
大ヒット曲が持つパワフルな側面だと思う。

--- などと、改めて思考してしまったのは、愛犬の病気がキッカケだ。



「りくすけ(犬)」が「白内障」を患った。
ご存じの通り、水晶体が白く濁り視力が低下する病気で、
症状が進行すると、失明の恐れアリ。
少し以前から気付いていたが、諸般の事情により、
ようやく本日(2022/11/19)眼科専門医に診察してもらう。
一日がかりの検査になった。


(↑ 大変不安げな表情でコチラを気にする図)


(↑ 涙の検査は案外ユーモラス)


(↑ おメメの撮影風景)


(↑ 超音波(エコー)検査で垂れたジェルは大粒の涙に似て)

病状が顕著な左は、分厚く粒度の高い「くもり硝子」のような状態。
光は感じるが視力は殆どない。
(見えないことで)人間ほどのストレスはないというが、やはり不憫。
彼の目に世界はどう映っているのだろうか。

ここ半年余りのうちに急速に進行した要因は、
腎機能の衰えに加え、甲状腺、副腎のホルモンバランスの乱れとの事。
しばらくは投薬で上記改善と白化進行を遅らせつつ経過観察。
根本的な外科治療に踏み切るのは、先になりそうである。
               
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