
ランドセルを背負った僕が、この石碑の前を行き来していた頃、
黒い石板には「津幡町立 津幡小学校」と刻まれていた。
過去、拙ブログに投稿しているとおり、ここ小高い丘「大西山」の上には、
かつて母校が建っていたが、現在は跡形もない。
老朽化した校舎は取り壊されてしまった。
時の経過による変遷。
仕方のないことと分かっているものの、一抹の寂しさを禁じ得ない。
だから、散歩途中に訪れる度、往時を思い起こすのである。
今日は「石」を媒介に、記憶を遡ってみたい。
僕は、前庭の池の周辺に敷き詰めてある「玉石」が好きだった。
前掲の画像…石碑の足元に映っているが、少しアップにしてみよう。

民家の庭や外構などにも用いられる丸い石。
踏みしればジャリジャリと音が鳴る。
おそらく「那智黒(なちぐろ)」と呼ばれる種類ではないだろうか?
こいつは、乾いている時と、水に濡れた時では色が変わる。
状態によって表情を変えるのである。

雨の日、傘を差して玉石敷きの地面にしゃがみ込み、
艶やかで青味がかった黒い石を眺めていたものだ。
美しさに魅せられたのは勿論、別の興味もあった。
『川の上流には角ばった大きな石が多く、下流は丸く小さな石が多くなる。
石が水に流されるうち、石同士がぶつかり合い削られ摩耗して、
変形してゆくからである。』
授業でそう習った僕は、石が辿った道のりに思いを馳せた。
“昔々、地底から噴き出したマグマが冷え固まって岩になり、
ある日、何らかの力が働いて塊から離れて川に落ちる。
ゴツゴツ、ゴロンゴロンとぶつかりながら、岩石は小さくなり、
角が取れて丸くなって、誰かに拾い集められ運ばれてきた。
長い長い、想像もつかない長旅の果てにここへやって来たのだ”…と。
実際は、人が機械で研磨して作ったのかもしれないが、
子供心はロマンを追いかけていたのである。
もう一つ、この石の造作も思い出深い。

忠魂碑だ。
日清・日露・日中・大東亜と、近代日本の戦時に戦地で亡くなった、
わが町出身者を慰霊するモニュメント。
この竿石って、常々墨に似ていると思っていた。

習字が得意じゃなかった僕は、見上げる度に自分の字の下手さ加減から、
何となく複雑な面持ちになったものだ。
しかし、墨の香りは嫌いじゃなかった。
硯で墨を摺る毎に立ち上る、膠(にかわ)と煤(すす)と油脂が混ざった独特の芳香。
忠魂碑のシルエットは、そんな記憶も刺激してくれるのだ。
こうしてひとしきり「石」から昔を思い浮かべたからだろうか。
去り際に「石垣」が目に留まる。

幾度となく視界に入っているはずなのに、しげしげと眺めたのは初めてかもしれない。
じっと動かずに見入っている僕を、石垣の上の猫が怪訝そうに見つめていた。