つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡短信vol.51

2018年09月30日 18時04分23秒 | 津幡短信。
津幡町に関するよしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
今回は「台風24号」の影響をまとめたコチラの3本。

【嵐の前の備え。】
沖縄を暴風域に巻き込んだ「台風24号」。
非常に強い勢力を保ち、四国か紀伊半島に上陸し列島を縦断してゆく見込みだ。
石川県には10月1日未明に最接近。
危険を鑑みて、町内は警戒モード。

本日・9月30日に開催を予定していた
「津幡地区町民運動会」は中止。

JR七尾線は、夕方以降運休。
北陸新幹線をはじめとした鉄路、空路、道路、いずれにも影響が出た。

【嵐の前の忙しさ。】
午前、急ぎ足の散歩に出かけた際、一葉の「蝶」に出会う。

「クロアゲハ」だ。
嵐が来る前に食事を済ませてしまおうという訳か。
風に煽られながらも懸命に飛ぶ姿が印象に残る。

【嵐には勝てない。】
本日・9月30日の競艇は、戸田(埼玉)と平和島(東京)を除き、
東海~九州まで軒並み中止順延。
更に「ミニボートピア津幡」も臨時休業。

残念だが、致し方ない。

この後、大きな被害が出ない事を祈っている。

<津幡短信vol.51>
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monotone Journey 1.

2018年09月30日 10時02分30秒 | 白と黒の旅
世界は様々な色に溢れている。

空の青、雲の白、夕暮れの紅、若葉の緑、落葉の黄。
それらは、実に美しく、沢山の楽しみを与えてくれる。
しかし、目に映る彩(いろどり)を無くすと「想い描く色」が豊かになる。
階調の数が減る事で奥行きが生まれ、違う何かが見える気がする。

新たな不定期連載「monotone Journey」では、
散歩中や旅先で撮影した画像を白黒に加工して掲載。
簡潔な補足文と共に味わい、思考の旅に出かけてもらえたなら幸いです。


住む人いない民家の窓。
目隠しの葉柄入り磨り硝子。
アンティークと呼ぶには憚る量産品だが、子供時代の記憶に残るデザインの一つだ。


とある民家の庭先。
母屋の裏の軽トラック、木造の納屋、柿の木。
兼業農家が多かった昔は、よく見かけた光景。


「舟田商店」店頭に商品が並んでいた頃の様子。
文久2年(1862年)創業。
昭和天皇献上品も手掛けた「加賀マルフネ味噌」の醸造元は、暖簾を下ろした。


津幡川に映る、我が孤影。
古(いにしえ)から変わらぬ水の流れは、平成を越えても河北潟へ注ぐ。
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身近なキカイのプロフィール。

2018年09月29日 10時04分59秒 | 日記
僕が子供だった頃と比べ、津幡町の夜は明るくなった気がする。

往時より人口が増え、自動車の通行量も増えた。
ライフスタイルが多様化し、日が暮れて以降に活動する機会が多くなった。
夜間の安全を図る意味で欠かせない物の1つが「街灯」である。

昔、江戸時代の夜間照明は行灯や提灯。
その明るさは、満月に敵わないほど暗く、
時代劇の映画やドラマで観るようなナイトシーンとは程遠かった。

やがて、明治時代の初め、京都に石油ランプ、横浜にガス灯、東京・銀座に電灯が登場。
いわゆる「文明開化」を境に、日本の闇は穏やかになった。
ここ、北陸の片田舎にも恩恵が及んで久しい。

ちなみに、前掲の街灯は、大阪に置く本社を置く「丸一鋼管株式会社」製。
気になるお値段は1本当たり、設置費を含め40~50万円程度だろうか?

もう一つ「踏切遮断機」についても考察。

鉄道線路と道路が交差する部分が「踏切」。
大概は、列車接近を報せる「警報機」と、
列車通過の際に道路交通を止める「自動遮断機」を配置している。
こちらも「鉄道」が敷設されはじめた明治の文明開化が起源。

当初は、電車が通過する際、人の手によって開け閉めされていたという。
上下動が電動機付きになったのは、昭和以降。
現代のような自動式は、昭和30年代に登場。
そのお値段は、本体のみでおよそ50万円ほど。

この機械は“三大信号会社”の1つ「大同信号株式会社」製。
警報機の赤いランプが、かつての円形から円筒形になり、より広範囲に注意を促すようになった。
見慣れた身近なキカイも、調べてみるとなかなか奥深いのである。
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私が私として生きることを、許して欲しい。~アンネ・フランク。

2018年09月24日 19時16分14秒 | 手すさびにて候。
金融界の大物「ロスチャイルド」。
ダイヤモンド王「アーネスト・オッペンハイマー」。
ジーンズの代名詞「リーバイ・ストラウス」。
天才「アルバート・アインシュタイン」。
映画監督「Sスピルバーグ」。
シンガーソングライター「ボブ・ディラン」。

ユダヤの血を引く著名人は数多いるが、
日本人とってその出自と名前が一致するのは、今拙作のモチーフかもしれない。
ほんの手すさび、手慰み。
不定期イラスト連載・第九十四弾は「アンネ・フランク」。

「アンネ・フランク」は、ユダヤ系ドイツ人。
フランクフルトに生まれ暮らしていたが、ナチスが政権を掌握すると、
迫害から逃れるため故国を離れ、オランダへ亡命。
戦争が始まり、彼の国がドイツの支配下に入って以降は、隠れ家に籠もる。
人目を避け、息を潜め、不安を抱えた隠遁生活。
2年間に及ぶ日々の様子と、思春期の少女の思いを綴ったのが
いわゆる『アンネの日記』だ。

伝え聞くヨーロッパ戦線の動向。
ナチスへの激しい憤り。
恋愛や性への興味。
母親への反発と、同居人に対する不平。
将来の夢について。
戦争と人間の本質について。

ジャーナリスト志望だけあって、
語彙豊かに、簡潔で軽妙な文章で書かれた日記は、1944年8月1日で中断。
同年8月4日午前、「フランク一家」ら8人のユダヤ人は、
何者かの密告で保安警察に逮捕された。
彼女が、移送先の強制収容所で非業の死を遂げたのは、
ドイツ降伏の2ヶ月前の事だった。

さて、僕はかつて「アンネの家」を訪れている。

水運が発達した“北のベネチア”。
オランダの首都・アムステルダムの運河の畔、
レンガ造りで細長く高層化した家並みが連なる一角にそれはあった。
窓口で見学料を払い、小さな玄関口を潜る。
薄暗い、狭く急な階段を登ると、彼女が寝起きした屋根裏部屋に到着。

「・・・ここで、この机に向かい、ペンを握ったのか。」

中学時代に読んだベストセラー創作の現場に足を踏み入れ、感慨一入。
若い身空で命を散らしたユダヤの少女について思いを巡らせた。

あれから、30年余りの時が流れている。
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自然の大恩を目の当たりにする秋。

2018年09月23日 22時17分08秒 | 自然
秋分は二十四節気のひとつ。
「秋分の日(=彼岸の中日)」は、昼と夜の長さがほぼ同じになる。
つまり、本日(=2018年9月23日)を境に秋の夜長へ向かい、
暑さも和らいでいくという訳だ。

確かに、日暮れは早くなった。
蝉の声は弱々しくなり、代わって秋の虫の音が喧しい。
散歩中に見かける風景も秋めいてきた。

色づく柿の実。
ピントが甘いのはご愛敬だ。
ところで、柿と日本人の関わりは古い。
縄文~弥生時代(今から数万年前)の遺跡から、柿の種が発掘されている。
広く流通するようになったのは奈良時代。
冬場の糖分補給や栄養補給のため、干し柿にしていたという。
そんな往時の情景を思い浮かべると、身近な果実が尊く見えてくるから不思議だ。

栗もまた、同じ。
縄文時代の遺跡を見聞すると、集落の周りには、人の手による栗林造成跡が残っている。
栗など木の実が、縄文人の主食だった証である。
戦国時代になると、栗を皮ごと天日干しにして臼で搗(か)ち割り、
鬼皮と渋皮を除いた「搗ち栗」が、兵糧に用いられた。
「搗ち栗」は「勝ち栗」に通じ、出陣式や戦勝を祝う凱旋式に欠かせない。
いわゆる縁起物としての側面もある。

柿や栗に比べ、薩摩芋との付き合いは存外に新しい。
メキシコを中心とする熱帯アメリカ原産。
ヨーロッパ、東南アジアを経て日本に上陸したのは、江戸期とされる。
ヤセた土地でもよく育ち、度々飢饉の救世主になったのは有名な話。
やはり、恩のある作物なのだ。

遥か昔から、太陽と水と風の力を借り、動植物の恵みによって糧を得て、
連綿とつないできた命のバトンは、
運動会の会場を目指す彼らへも受け継がれている。

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