つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

巴里は微睡みの中に。

2024年08月31日 20時40分40秒 | 手すさびにて候。
                     
もうすぐ8月が過ぎ去ろうとしている。
今夏は、よくオリンピックをオンタイムで観戦した。
それは、ある意味「ケガの功名」と言える。

フランス・パリで大会が開幕した頃、僕は腰を痛めてしまった。
体を横たえる時、寝た状態から体を起こそうとする時、
激しい痛みに耐えなければならない。
特に辛いのは後者。
うめき声を漏らしつつ四つん這いになり、脂汗を拭いながら辺りの何かしらに掴まり、
2本の足で立ち上がり大きな溜息を突くまで2分間。
毎回なかなかの大仕事。
こうなると寝床に入るのが億劫になり、
一人掛けのソファに身を沈め、目を閉じ、浅い眠りに就くのが常態となる。

幸いと言うべきだろう。
7時間の時差のお陰で、オリンピックが夜通し生中継。
うつらうつらしながら、時折TVに目を遣りつつ過ごした。
各競技の熱戦の合間、表彰式で目に留まったのがメダルと一緒に手渡された「細長い箱」。
中に収められているのは(既に報道などでご存じの通り)、
エッフェル塔・凱旋門・セーヌ川などが描かれた今大会の「アイコニック・ポスター」である。

--- パリにおけるアートポスターの歴史は古く、始まりは今から150年程前。
カラーリトグラフ(多色刷り石版画)の技術が確立し、
街角に現れた華やかなポスターは、消費行動を促すメディアとして定着。
更に、広告媒体の枠を超え、誰もが鑑賞できる芸術作品として親しまれ、
有名なポスター作家たちが登場する。
例えば「シェレ」、「ロートレック」、「カサンドル」、「サヴィニャック」。

そして「アルフォンス・ミュシャ」だ。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十九弾「極東の美しきハードラー(ミュシャ風)」。



近代オリンピック第1回大会が開催された19世紀末から20世紀初頭かけ、
ヨーロッパは繁栄の時を迎えていた。
発達した資本主義の下で生活水準が向上し、大衆文化が開花。
学校教育の普及、女性の社会的進出も始まる。
フランスの首都・パリは、放射線状に大通りが広がる明るくて開放的な街に変貌。
エッフェル塔も建造され、現在の姿が完成した。

そこで起こった文化運動「アール・ヌーボー(Art Nouveau)」は産業革命へのアンチテーゼ。
身の回りに溢れ始めた安価な大量生産品を批判し、
建築、家具、食器などの工芸、グラフィックデザイン、
ハンドメイドの生活アイテムを美術に負けないアートへ高める“新しい芸術”というわけだ。
花や草木といった有機的なモチーフや曲線の装飾、
木や石と鉄やガラス、新旧の素材を組み合わせた造形が特徴である。

前述した「アルフォンス・ミュシャ」は、
グラフィックに於いて、アール・ヌーボーを代表するアーティストの1人。
温もりや香りまで伝わってきそうな多彩な色使い。
繊細なタッチと曲線を多用したデザイン。
日本の浮世絵を参考にした構図。
モチーフの寓意に込めた古典の知識 等々。
絵画技法や図像学を貪欲に吸収して、
多種多様な要素を盛り込んだスタイルは、実に奥深い。

演劇、鉄道やタバコ、酒など様々な広告ポスター。
挿絵、パリ万博パビリオンの壁画や内装。
「ミュシャ」の元に舞い込む依頼は引きも切らず、稀代の売れっ子に。
創作の時代基盤であるアール・ヌーボーも一世を風靡した。
1914年、第一次世界大戦が勃発するまでは。

諸行無常、盛者必衰は世の倣い。
膨大な血が流れ、硝煙に包まれるうち、社会も経済も人心も変化。
アール・ヌーボーは退廃的と烙印を押され、衰退してゆく。

こうしてブームは過ぎ去ったが、作品は後世に遺る。

そもそもアール ・ヌーボーは“手仕事への回帰”を訴える運動ながら、
「ミュシャ」の歩みは、一足先を行っていた。
機械生産と結び付くことで広まったアートポスターにより、
近代デザインの扉を開いたのである。

--- さて、冒頭で書いた通り、僕は訳あって今オリンピックを観続けた。
微睡みの中でも、幾つか印象に残るシーンはある。
1つに絞るとすれば、
女子100mハードル日本代表「田中佑美(たなか・ゆみ)」さんを挙げたい。
戦績は準決勝止まりも、チャーミングな笑顔、鍛え上げた美しい肢体、
共に忘れ難く筆を執った次第。
彼女は、僕にとってパリのヒロインだ。
巨匠「ミュシャ」の足元にも及ばない今拙作は、
りくすけ的「パリ2024 アイコニック・ポスター」のようなもの。
そう捉えてもらえたら誠にもって幸いなのである。

< 後 記 >

2024年8月31日現在、偏西風に乗れず列島上陸後も迷走を続ける「台風10号」。
各地で影響が長引いている。
拙ブログをご覧の皆さまの周辺はいかがだろうか?大事はないだろうか?
石川県内は、午前中一部で強い雨が降った。
台風10号は、和歌山県沖を東南東に進み、進路を北に変え、
9月2日には熱帯低気圧に変わる見込み。
温かく湿った空気が入り込む今後、
土砂災害、低い土地の浸水、河川の増水などに警戒が必要である。
どうか、ご無事で。
                      
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続・湖国小旅行 2024夏。

2024年08月25日 20時46分46秒 | 旅行
                        
前回投稿の続篇。
びわこ競艇場で4つのレースへの投票を終えた僕は、
結果を待たず次なる訪問地へ向けハンドルを切った。
大津市街中心部から車で20~30分の地点にある「坂本」は、比叡山延暦寺の門前町。
昨年は戦国期の石工集団・穴太衆(あのうしゅう)が築いた石垣(LINK)を見に出かけたが、
今年の目当ては「比叡山鉄道 坂本ケーブル」である。





門前町の坂本と延暦寺を結ぶ比叡山坂本ケーブルの歴史は古い。
開業は昭和2年(1927年)。
その少し前、大正14年(1925年)に完成したのが、前掲の駅舎だ。
往時の姿を留める洋風木造二階建の建物は、国の登録有形文化財に指定されている。
雑木林に囲まれ、蝉時雨に包まれた駅舎外観には、風格が漂う。
内装も木造のベンチが置かれ、乳白色ガラスの照明など雰囲気があったのだが、
他のお客さんも多く撮影を遠慮した。







京阪グループ比叡山鉄道によって運営されているケーブルカーは、全長2,025m。
日本一の長さを誇る。
急勾配に沿うため車両は平行四辺形。
車内もホームも階段状になっている。
車両にエンジンは付いておらず、レール上にあるロープを車両に接続し、
頂上からモーターで巻き上げる「つるべ式」で登り降りする。
その間、車窓に広がる比叡山の自然は美しく、登るにつれて涼しさが増す。
所要時間は11分。
降り立った山頂の「延暦寺駅」からは、琵琶湖が一望できた。



そこから徒歩10分。
木立の間を抜け、苔むした石仏の前を通り、比叡山延暦寺に到着。







ご存じの方も多いだろうが、比叡山に延暦寺という建物はない。
比叡山そのものが延暦寺を表し、
東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の3地区に分かれている。
近江出身の平安時代初期の僧侶「最澄」が開いた天台宗の総本山は、
数々の歴史に彩られてきた。
特に知られるそれは「織田信長による焼き討ち」だろう。





その発端は、姉川の合戦後、敗走する浅井・朝倉の軍勢を比叡山が匿ったこと。
数千の僧兵を抱える一大軍事力に対し「信長」は、
『中立を守って欲しい。 傍観してくれれば所領は侵さない。
 しかしあくまで浅井・朝倉に肩入れするなら容赦しない』と伝達。
比叡山は態度を示さず、黙殺。
「信長」は軍勢を動員して比叡山を囲んだが、この時は大事に至らず。
近畿一円の仏教勢力が「信長」に反発したため、渋々手を引いた格好。
“魔王”の胸中に遺恨の火が灯った。

翌年、諸勢力を各個撃破し体制を整えた「信長」は、比叡山攻めに取り掛かる。
元亀2年(1571年)晩夏、総攻撃開始。
建物ことごとくを焼き、経典類は灰燼に帰し、高僧も稚児も女も首をはねられた。
---と『信長公記』にはあるが、発掘調査の結果、焼き討ち時に焼失したのは
前掲画像「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」(※現在大改修中)と、
「大講堂(だいこうどう)」のみという説もある。



史実詳細は分からないが、比叡山延暦寺での出来事が強烈なメッセージとなったのは明らか。
『敵対する者はたとえ宗教的権威であろうと容赦なく滅ぼす!』
天下布武のため「信長」が人ならぬ領域へ一歩を踏み出した瞬間だったのかもしれない。



かつては大陸から導入された仏教の道場となり、
やがて血塗られ業火に焼かれ動乱の舞台となり、
歴史に名を刻んだ比叡山延暦寺。
今はただ静かな時が降り積もる。
ひとしきり感慨に浸った僕は、帰りのケーブルカーに乗って麓に戻った。
そして、スマホで投票したレースの結果を知る。

わが舟券、全敗---。

思い通りにいかないのが旅であり、人生もまた然り。
肩を落として琵琶湖を後にした、夏の思い出である。
                      
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湖国小旅行 2024夏。

2024年08月24日 14時14分14秒 | 旅行
                       
猛暑・酷暑の夏、少々夏バテ気味だ。
体力・気力が萎え、忙しさにかまけてブログ更新も滞りがち。
久しぶりの投稿である。

--- さて先日、仕事の合間をぬって日帰り旅に出かけた。
行先は滋賀県・大津、びわこ競艇場他。
賭け事も楽しみなのだが、毎年「夏の琵琶湖」の景観を味わいに行くのは、
個人的に欠かせない恒例行事となっている。



往路途中に立ち寄った北陸自動車道のPA「杉津(すいず)」。
福井県・敦賀市にあるここは、廃線となった国鉄北陸線・杉津駅の跡。
かつては機関車が煙を上げて峠をスイッチバックとトンネル群で越え、
北陸線屈指の車窓風景とだったと聞く。
確かに眺めが良い。
駐車場~道路越しに広がる日本海・若狭湾を望み一息ついていると、句碑を発見。



名月や 北國日和 定なき(めいげつや きたぐにびより さだめなき) 芭蕉

<芭蕉が月の名所と呼ばれる敦賀の港に到来したのは元禄二年八月十四日で、
 翌日の中秋観月が目的である。
 待望の十五夜は雨月となってしまったが、
 はかり難い越後路の陰晴に翁は北陸の風情をひとしお感じて、
 この句を「おくのほそ道」に遺した。>(※<  >内句碑傍の解説パネルより引用)

今宵は煌々たる秋の月を期待していたが、あいにくの雨。.
昨夜の晴れがウソのよう。北陸の天気は変わりやすく、それだけに味わい深い。
肩を落としながらも自然の営みに感慨を抱く。
思い通りにいかないのが旅であり、人生もまた然り。
そんな作者の面持ちが偲ばれる一句である。

この句碑が建立されたのは昭和63年(1988年)。
北陸道が全通したタイミングは「奥の細道」の旅から300周年。
これを記念して北陸を通りかかった際に詠んだ一連の歌を石に刻み、
幾つかのSA・PAに置いたうちの一つだ。



しばし俳聖の姿に思いを馳せていたら空腹を覚え、
PA内のレストランで「越前おろしそば」をいただいた。
喉越しよく美味しかったが、残念なのは「辛味大根」じゃなかった点。
ツンと鼻に抜ける爽やかな辛味を期待していたが違った。

まあ、「芭蕉」先生に倣い、思い通りにいかないのも旅の醍醐味。
そう考えるとしよう。
何しろ訪問先の競艇などは「不如意」そのものなのだから。



今年はあいにく雲量が多く薄曇りだったのが玉に瑕ながら、
やはり夏のびわこ競艇場は風光明媚だと思う。
碧い水、青い空、白い雲。
遊覧船ミシガンやヨットが行き交う湖面。
現れては消える、モーターボートの描く航跡。
静と動が交錯する「借景」パノラマのようだ。





当日は4日間開催の2日目、予選最終日。
競艇は1日12回のレースが行われる。
銭を張るのは後半戦と決めていて、
各人機の調子を見極めようと、到着からしばらくは観戦に徹した。
自分なりにデータを収集し、8レース、10レース、11レース、12レース、
計4つのレースに投票することに。
あとは買い目をどうするかだ。



一旦、場内2階の食堂に落ち着き「ホルモンうどん」を注文。
スープは醤油仕立て。
甘辛く煮込んだ牛のフワ(肺)をたっぷりのせた麺が、実に旨い。
びわこ競艇に来たら外せないメニューとなっている。
舌鼓を打ちながら沈思黙考。
マークシートに記入して投票を終えた僕は、結果を見ずに競艇場を後にした。
もう一つ、訪れたい場所があったからだ。

※次回へ続く
                          
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早朝の水辺で聞いた、夏の音。

2024年08月14日 09時33分33秒 | 日記
                         
拙ブログには度々登場する「河北潟(かほくがた)」。
能登半島の付け根、金沢市~内灘町~かほく市~津幡町、2市2町に跨る水辺だ。
かつては東西4km、南北8kmの大きさで日本海の海水が入り込む汽水湖だったが、
1963年に始まった国営干拓事業、
1980年に設置された防潮水門により完全な淡水に。
面積は往時の1/3まで小さくなったが、今なお県内最大の規模を誇る。

そんな河北潟に「石川県津幡漕艇(そうてい)競技場」が開設され半世紀以上。
1,500メートル×6レーンを有する漕艇コースは日本海側随一と聞く。
先日早朝に訪れてみたところ練習風景に出会えた。



物静かな湖面で聞こえるのは ---
水鳥の羽音と鳴き声。
跳ね上がる魚の水音。
そして、漕艇のリズミカルな掛け声と櫓が水面を叩く音。
夏の河北潟らしいサウンドに包まれながら、しばし見学する。
後ろを振り返ると艇庫の扉が開いていたので、ちょいとお邪魔してみた。







僕は同競技についての知識が乏しいが、
保管されていたのは、おそらく「ナックルフォア艇」と思われる。
細長い流線形の船体はよく磨かれていて美しい。
舵取り1名、漕ぎ手4名の計5名がワンチーム。
息を合わせて滑るように進む様子はなかなかのスピード感である。

この投稿の3日後、2024年8月17日(土)。
(一社)津幡町スポーツ協会主催により「ボートフェスティバル」が開催予定。
対象は小学3年生以上。
参加費が1人200円(保険料含む)。
津幡町スポーツ協会(上記 下線付き赤文字リンク有)に事前申し込みを推奨。
当日受付(8:30~)でも参加可能との事だ。
都合と時間が許せば、足を運んでみてはいかがだろうか。
暑さ対策、水分補給をお忘れなく。
                         
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電波は時空を超えて。

2024年08月06日 08時45分45秒 | これは昭和と言えるだろう。
                        
津幡ふるさと歴史館「れきしる」に於いて、企画展「あこがれの電化製品」が始まった。



<電化製品は明治時代の末期に登場しましたが、
 高価であったため家庭で使用されるものは少なかったようです。
 家庭への電化製品の普及が一般化した昭和30年頃から
 日常生活の中に深くかかわってきました。
 戦後の高度成長期を象徴する電化製品ですが、
 それまで電灯やラジオなど限られた物しかなかった人々の生活様式は大きく変わり、
 昭和30年代には「三種の神器」(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)があこがれの製品として、
 急速に広まりました。
 昭和40年代になると「3C」(カラーテレビ・クーラー・自動車)が
 あこがれの対象となりました。
 これらの時代の電化製品は高価で月賦で購入する人もいたようですが、
 それ以上に手に入れられる喜びが大きかったのです。
 サラリーマンの平均年収は、昭和25年の12.2万円から経済成長に伴い徐々に上がり、
 昭和35年には30.1万円、昭和46年には101.3万円となり、
 100万円を超えたのです。
 そして、その後も急激に年収が伸び、平成9年の年収は500万円を超えるまでになりました。
 今回の展示では、以前に開催した「なつかしい家電」での展示品に加え、
 時代背景と共に昭和時代を彩る製品から平成時代に至る電化製品を紹介します。>

※<   >内企画展リーフレットより引用、原文ママ
赤文字下線箇所、リンクあり

確かに手元にある印刷物には、電化製品の写真とその時代背景を時系列に沿って記載。
移り変わりの様子が分かりやすく、興味深く鑑賞できる。
物言わぬはずの道具が、雄弁に語りかけてくれるようだ。
企画展の詳細は、是非、れきしるに足を運んでご覧いただきたいと思う。
今投稿では、3つの展示品を取り上げ、個人的な記憶と思い出を書いてみたい。





日本国内に於いて家庭にテレビが普及し始めたのは、昭和30年代。
僕が幼かった頃、生家のテレビは白黒だった。
上掲画像のように木箱に収められ、うやうやしい趣き。
現在の薄い構造のモニターとは違い、奥行きの長いブラウン管である。
やや高い位置に据え置かれ、ずい分目線を上げて見ていた気がするのは、
自身の背丈が低かったからかもしれない。
チャンネルは3つ。
NHK、NHK教育、MRO(北陸放送/TBS系列)だ。
番組の記憶は朧気。
「どろろ」「ゲゲゲの鬼太郎」「オバケのQ太郎」「ウルトラQ」。
人形劇「ひょっこりひょうたん島」といったところが印象に残る。
日本国内に於いてテレビが普及し始めたのは、1959年~1961年にかけて。
設置率9割を超えたのは、昭和40年(1965年)と言われる。
つまり、僕が生まれた頃だ。



生家に於いてテレビのカラー映像が常態になったのはいつだったか?
明確には覚えていないが、1970年代初期だと思う。

導入間もない当時、心に残る旧い映像の1つは「あさま山荘事件」。
昭和47年(1972年)2月、長野県・軽井沢町にある河合楽器保養所に、
連合赤軍が人質をとって立てこもり警察と銃撃戦を繰り広げた。
突入作戦時、NHKと民放各社が犯人連行まで生中継。
全局の視聴率を足すと、89.7%。
ほゞ国中が見ていたと言っていいだろう。
お茶の間のテレビが報道のど真ん中いたのは、今や昔日の感がある。

もう1つ「オリンピック・モントリオール大会」も忘れ難い。
特に女子体操史上初の10点満点には目を奪われた。
ブラウン管の中で力強く跳び、美しく舞う“白い妖精”。
鉄のカーテンに閉ざされた国・ルーマニアのミステリアスな美少女、
「ナディア・コマネチ」に恋をしたのである。



カセットテープレコーダーにラジオチューナー。
アンプとスピーカーを備えたオールインワン音響機器。
ラジオカセットレコーダー、略称「ラジカセ」である。
この決して大きくない機械は、僕に世界への目を開いてくれた。

日本海側は電波の伸びがよくなる夜間を中心に、海外からAM波が届く。
チューナーのダイヤルを回していると、
半島から、大陸から、ソ連極東からの放送を受信できた。
もちろん何を言っているのかはさっぱり分からないが、
しばし耳を傾け、まだ見ぬ異国を思い浮かべるひと時が好きだった。

そして、時折それらが発信する「日本語放送」にもチューンイン。
ちょうどこんな時期の事---『こちらは北京放送・中国国際放送局です』と
アナウンスが聴こえた時はコーフンした。
その番組内容は忘れてしまったが“夏らしい音”を聞かせる一幕はよく覚えている。

ポンッ!(瓶ビールの王冠を抜く音)
トクトクトク、シュワシュワ~(コップに注ぎ泡立つ音)

たっぷりとエコーを利かせて納涼感を演出する様子は実に微笑ましい。
1000km余り彼方ではためく五星紅旗の向う側が透けて見え、
僕たちと変わらない“人の顔”が見えた気がした。



「れきしる」企画展「あこがれの電化製品」は10月6日(日)まで開催。
大正時代の扇風機をはじめ、昭和30年代から40年代のものを中心に、
平成までの新旧様々な電化製品が並んでいる。
お隣では民俗資料展示「夏のくらし」も併催。
機会と時間が許せば、足を運んでみてはいかがだろうか。
                           
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