「今日の一枚」は、津幡町北中条の「津幡キリスト教会」。
いつから活動を行っているのかは分からないが、
僕が小学生の頃には、現在と同じ場所にあった。
そして当時、この建物は、僕にとって一種の「境界線」を示すランドマークだった。
教会周辺から北が自分の通う「津幡小学校」、南は「中条小学校」、
校区を分ける目安になっていたのである。
だから、用事があって近くまで来ると、ずい分と遠くまで来てしまった気がして、
不安げな面持ちで十字架を見上げたものだ。
教会は、人々が祈りを捧げる所だから賑やかではない。
建物のデザイン・醸し出す雰囲気も、見慣れた人家や神社仏閣とは違う。
子供の目線からすれば、充分に大きく、圧迫感すら覚えてしまった。
つまり、何となく「近寄り難い場所」と捉えていたのかもしれない。
勿論、今の感覚は違う。
昔と比べ、行動範囲が広くなり、体も成長した。
知識も経験も積み重ねてきた大人にとっては、文字通り「教会」以外の何物でもない。
ただ、「近寄った事がない所」ではある。
キリスト教を信仰するのは自由だし、存在を否定するつもりはまったくない。
ただ、個人的な好みの問題。
唯一神教より、多神教の「神道」の方が好きなだけだ。
人間は地球に生かされている。
だから、自然現象・草木・生物・無生物まで、あらゆる「精霊」を崇める
「八百万の神々」って、すごくスンナリと理解できるのである。
いつから活動を行っているのかは分からないが、
僕が小学生の頃には、現在と同じ場所にあった。
そして当時、この建物は、僕にとって一種の「境界線」を示すランドマークだった。
教会周辺から北が自分の通う「津幡小学校」、南は「中条小学校」、
校区を分ける目安になっていたのである。
だから、用事があって近くまで来ると、ずい分と遠くまで来てしまった気がして、
不安げな面持ちで十字架を見上げたものだ。
教会は、人々が祈りを捧げる所だから賑やかではない。
建物のデザイン・醸し出す雰囲気も、見慣れた人家や神社仏閣とは違う。
子供の目線からすれば、充分に大きく、圧迫感すら覚えてしまった。
つまり、何となく「近寄り難い場所」と捉えていたのかもしれない。
勿論、今の感覚は違う。
昔と比べ、行動範囲が広くなり、体も成長した。
知識も経験も積み重ねてきた大人にとっては、文字通り「教会」以外の何物でもない。
ただ、「近寄った事がない所」ではある。
キリスト教を信仰するのは自由だし、存在を否定するつもりはまったくない。
ただ、個人的な好みの問題。
唯一神教より、多神教の「神道」の方が好きなだけだ。
人間は地球に生かされている。
だから、自然現象・草木・生物・無生物まで、あらゆる「精霊」を崇める
「八百万の神々」って、すごくスンナリと理解できるのである。