http://no-border.asia/archives/16039
園遊会は天皇皇后と国民の開かれた交流の場ではないのか?(大貫 康雄)
山本太郎議員が秋の園遊会で天皇に手紙を手渡した件。テレビの映像で見たが自然に手紙が出され、自然に受け取られた、そんな印象だった。園遊会後、記者クラブ・メディアの記者たちが、山本議員を囲んで「天皇の政治的利用ではないか?」などと質していたのに対し、議員が「政治的利用とは思わない」と応じた。「日ごろ考えていた“反原発”の思いを天皇に伝えたかったからだ」と説明していた。天皇が最高統治者として君臨した明治憲法体制下では、処罰覚悟の“直訴”に相当する行為だったが、現憲法下で天皇に政治権限はなく「政治利用では?」との質問は愚問だ。多様な言論が認められ、多様なメディアが存在する現代社会で、山本議員がある種のメディアの過剰反応までを想定して、あのような行動をしたとすればたいしたものだ。なにしろ、安倍政権こそあらゆる機会を政治利用し、それをマスメディアが増幅している。その一方で、少数野党議員や無所属議員の言動が、メディアで正確に報じられる機会が極めて少なくなっている。山本議員を6歳の子供を比較することはできないが、カトリック教徒の頂点に立つローマ教皇フランシスコ1世は、一般信者との交流集会に臨んでいた時、突然6歳の男の子が壇上に登って教皇の両脚に抱きついた。側近が男の子を引き離そうとしたが、教皇の脚にしがみついたまま離れない。そして教皇に話しかけたり、教皇の椅子に座ったりした。しかし、フランシスコ1世はこれに優しく応じ、男の子を抱いてキスした。この男の子はコロンビアから養子としてイタリアの家族に引き取られていて、姉妹も教皇のもとに連れてくるなど、家族にとっては思いもよらぬ祝福の日となったとメディアが伝えていた。天皇皇后は、かつて同じ園遊会で将棋棋士の米長邦夫雄氏に対し「国歌・君が代」問題を“強制でないほうが良い”と応えるくらい“民主主義を守る意志が垣間見られる”人物だ。天皇皇后は意外に気さくな性格と聞いたことがあり、こういうやり取りが時折あるのを見るのは楽しいことだ。園遊会招待者は、それこそ身許もはっきりしている良き市民の人たちで、警備上問題はないはずだ。問題は、今後、園遊会関係の官僚組織が、園遊会招待者のこうした行為をあらためて制限するなど、天皇皇后と国民との間の開かれた交流の邪魔をするか否かだ。それを見ていく必要がある。
+++
◎僕なんか、皇室に対してこれからも人間天皇として親しみを持って接していくつもりだ。最近、天皇と国民の間に衝立をして天皇の神格化に逆戻りさせたい自民党の圧力が重く伸し掛ってきたように感じる。特に秘密保全法の国会審議は、注意して行こう。時計の針を逆に回すような事にはならないようにしっかりと体を張って、自己主張していこう。>>皆の衆(^^)
人間天皇
参照して下さい。
↓
http://tamutamu2011.kuronowish.com/ninngennsenngenn.htm
天皇の人間宣言(「新日本建設に関する詔書」)=年頭の詔書(PDF)
1946(昭和21)年1月1日、天皇裕仁(ひろひとー当時46歳)が「新日本建設に関する詔書」(年頭の詔書)によって、自らの神格性を否定した宣言が、この「天皇の人間宣言」(1月1日付新聞各紙は一面でこれを報じた)である。
《‥‥私は国民と共にあり、その関係は、お互いの信頼と敬意とで結ばれているもので、単なる神話や伝説に基づくものではない。私を神と考え、また、日本国民をもって他の民族に優越している民族と考え、世界を支配する運命を有するといった架空の観念に基づくものではない‥‥。》
大日本帝国憲法第3条では「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定されていたが、この宣言は天皇が「現御神(あきつみがみ)」(現人神=あらひとがみ⇒人の姿をして、この世に現れた神。天皇をいう)ではないと断言し、日本民族の優越を説く発想を戒めたが、その真の目的は、当時ほうふつとして上がりつつあった海外からの天皇の戦争責任追求をかわすところにあった。
これまで、天皇を神としてあがめ、天皇のために戦争をし、天皇のために死ぬことか美徳(責務)と教え込まれてきた国民は、驚愕をもってこれを受け止めた。しかし冒頭に5箇条の誓文を掲げることに象徴的に見られるように、戦前の天皇制の論理を十分に批判したものではなく極めて不十分なものでしかなかった。
この案文は、幣原首相(当時75歳)が英文で起草、藤田侍従長が詔書の形式に整えたといわれる(幣原平和財団編:伝記『幣原喜重郎』)。
なお、この詔書は前例を破り初めて濁音と句読点がつけられた。
「人間宣言」をした昭和天皇は、その後、全国を「巡幸(行幸)」し、国民の歓迎を受けた。 人々は「咽(むせ)び泣いた。万歳を叫んだ」(戦後最初の侍従長で、全国巡幸の企画・立案・実施の中心人物だった大金益次郎の著作『巡幸余芳』)。
「(外国なら)『夫を返せ!』『せがれを返せ!』の悲痛な叫び」があがっただろうと映画監督、伊丹万作は「静臥(せいが)饒舌(じょうぜつ)録」に記した。
=================================
新日本建設に関する詔書
1946(昭和21)年1月1日
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初國是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
1.廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
1.上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
1.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
1.舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
1.知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、舊來ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民擧ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豐カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ圖リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノ蒙リタル戰禍、罹災者ノ難苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ眞ニ心ヲ痛マシムルモノナリ。然リト雖モ、我國民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、旦徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、獨リ我國ノミナラズ全人類ノ爲ニ輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
夫レ家ヲ愛スル心ト國ヲ愛スル心トハ我國ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ實ニ此ノ心ヲ擴充シ、人類愛ガ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ致スベキノ秋ナリ。
惟フニ長キニ亘レル戰爭ノ敗北ニ終リタル結果、我國民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ヲ長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、爲ニ思想混亂ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
然レドモ朕ハ爾等國民ト共ニ在リ、當ニ利害ヲ同ジクシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等國民トノ間ノ組帶ハ、終止相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ旦日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニ非ズ。
朕ノ政府ハ國民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ爲、アラユル施策ト經營トニ萬全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我國民ガ時難ニ蹶起シ、當面ノ困苦克服ノ爲ニ、又産業及文運振興ノ爲ニ勇徃センコトヲ希念ス。我國民ガ其ノ公民生活ニ於テ團結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ能ク我至高ノ傳統ニ恥ヂザル眞價ヲ發揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ實ニ我國民ガ人類ノ福祉ト向上トノ爲、絶大ナル貢獻ヲ爲ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。
一年ノ計ハ年頭ニ在リ。朕ハ朕ノ信頼スル國民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ自ラ奮ヒ自ラ勵マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。
御名御璽
昭和二十一年一月一日